4-11

 そうはベッドのかたわらに立ち、ハルカを見おろした。


「痛みは?」


「鎮痛剤を入れてるから」


 強い照明が彼女の顔から生気も病苦の色をも奪っていた。彼女の体にまとわりつく管もケーブルも色が飛んで、もはや機能が失われているかのように見える。


「チマタの薬?」


「そう」


 彼女はうなずく。彼はその生真面目な表情がおかしくてすこし笑った。彼女の前であまり深刻な顔はしたくない。


「チマタの薬でも何でも、痛みがないならよかった」


「私さっき心臓止まった」


「マジかよ。すげえな」


「だから人工心肺ってやつで血をぐるぐるまわしてる」


「あれか」


 彼はベッドの向こうにある機械を指差した。横一列に4つ並んだ円筒がゆっくりと回転している。あれが彼女の命の動きだ。


「いかにもちまたの人々のやり方だね。人間の体にこんなのくっつけるなんて不自然だよ」


「みんなおまえを助けたいんだ」


 彼は彼女のほおに触れ、髪を撫でた。彼女があごをしゃくる。


「上でみんな見てる」


 階上の見学室は人でいっぱいだった。さっきまで廊下で祈り、歌っていた連中だ。ハルカの母親が窓ガラスに両のてのひらを当て、こちらを見おろしている。


 彼は彼女に目をもどした。


「関係ない。おまえは俺だけ見てろ」


 彼女が小さくうなずく。彼は彼女の手を取った。


大槻おおつきさんと沙也さやに話の続きをしたよ。湖に落ちてたすきがヘリで来るまでの話」


「すごくむかしのことのような気がする」


 彼女が目を閉じる。


「あれからまだ1年もたってないぞ」


「人に与えられた短い生涯の中で1年前はすごくむかしだよ」


 彼女が目を開けないので、彼は彼女の手を強く握った。


 はっとしたように彼女は目を開け、わずかに視線をさまよわせた。彼は彼女の手を持ちあげ、自分の体に引きよせる。


「いまとなると、あそこでずっと戦っていたかったって思う。沙也も同じことをいってたけど。それか、あの湖の底にずっといたい」


「そんなの駄目だよ。人の正しい道じゃない」


「誰が決めた?」


「神様」


「それじゃ仕方ねえな」


 彼は彼女の指と指との間に自分のそれを割りこませた。彼女の手の甲も掌も、ぞっとするほど乾いている。もっと強く指を締めつけてほしいと思う。


「この間の話だけど、返事を聞かせてほしい。結婚のこと」


 彼がいうと彼女は上の方に目をやり、また彼に視線をもどす。


「ずっと考えてた。こんならくした巷にあって結婚なんかしていいのかなって」


「チマタは関係ない。俺とおまえの問題だ」


「しかも相手はいきなりキスしてくる堕落した男だし」


「あれはその場の勢いで――」


「でも私ならこれ以上堕落しないようあんたを救えるかもしれない。だから――」


 彼女はまっすぐに彼を見つめた。「いいよ。結婚する」


「マジで? やった。あ、でも待てよ」


 彼は小さくかぶりを振った。「しまった……。指輪買っとくんだった」


「いいよ、指輪なんて。そんなのなくたって、ことばは残る。心も残る。それで充分」


 彼女は静かにいう。彼はうなずき、眼鏡をはずした。顔を近づけ、そっと彼女に口づける。


 乾いた唇は閉じられたままだった。すこし離れると、彼女の唇が動く。


「おっぱい触っとくか?」


「え?」


 彼は身を起こし、彼女の顔を見つめた。


「好きなんだろ、おっぱい?」


「いや、好きってほどではないですけど」


「あいかわらず嘘が下手だな」


 彼は見学室からの視線を旋毛つむじのあたりにちりちりと感じながら、ハルカの胸に頭を預けた。こめかみの下で柔らかいものが押しつぶされる。頬ずりすると、びょうの感触が入院していた頃を思いおこさせる。


 子供じみた彼のふるまいを彼女はとがめなかった。かえっていつくしむような目で見る。彼の髪をやさしく撫でる。


 彼女は死ぬのだな、と彼は悟った。


 胸に押しつけた耳に心臓の鼓動が聞こえぬためではない。死の淵に立つ彼女の方が彼をあわれみ、慰めようとしている。みずからの痛みや苦しみよりも彼の悲しみをいやそうとしている。もう手の届かない、地をう人間には決してたどりつけない高みへと彼女が去ってしまったことを知る。


 いまこうして触れているけれど、ふたりは別の世界にいる。


 いくら彼が物わかりよくしていても、それに感心した誰かが彼女を救ってくれたりはしない。


「こんなことしてたら地獄にちるのかな」


 彼女のことばは胸から直接響いてきた。彼も彼女の胸にことばを押しつける。


「地獄なんか行かねえよ」


「汚いことばを使ったり、嘘をついたり、いやらしいことをしたら地獄行きだって御師おし様がいってた」


「おまえは地獄には行かない。けてもいい。もし地獄行きならおまえの勝ちだから、罰として俺が必ず助けに行く。もし地獄行きじゃなかったら俺の勝ちだから、菓子でも買って持ってこい」


 彼女が苦しげに息を吐く。


「小さい頃からずっと、もうすぐ世界は終わるんだって教えられてきた。それが怖くて、世界を救う人間になりたいって思ってた。そんな人になりたくて私は病気になった。だから、これでよかったんだと思う」


 彼は彼女の胸から頭をあげた。涙の溜まった彼女の目に触れようと手を伸ばす。涙の粒がそこから逃れるようにこめかみへと伝いおちていく。


 彼女はこんなだったろうかと彼は思った。真っ白な肌は染みひとつない。澄んだ目は、見つめていると彼女の心までをかして見ることができそうだ。唇はなめらかで、散りおちたばかりの花弁を思わせる。


 余計なものがすべてぎおとされ、不気味なほどに美しい。命さえも彼女の美しさにあっては本質でなかったということなのか。


「ごめんね。あの町に住むって夢だけどさ、あれはひとりでかなえて」


「俺が勝手にいいだしたことだ。おまえが謝ることじゃない」


 彼は彼女のひたいに口づけた。


「本当にごめん」


「もういい。っていうな」


 頬に口づけ、耳に口づける。涙の味がする。


「俺のこと好きだっていってくれ」


「好きだよ」


 彼女のことばが頬をくすぐる。


「愛してるって」


「愛してる」


「俺もおまえを愛してる」


「うん」


「おまえがどこにいても俺の心はおまえとともにある」


「うん。ありがとう」


「それでも――」


 彼は体を起こした。眼鏡をかけ、彼女の瞳の奥に秘められたものをのぞこうとする。


 


 彼女の見せるあいはまるで敬語だ。本当の心を隠している。


「カスケード・シールド」の中心に浮かんでいた彼女の姿が思いだされる。他人を守り、自分は動けない。


 神だの巷だの地獄だの、そんなものはどうでもいいから自分ひとりを思っていてほしかった。こんな澄んだ目でなく、燃えるような瞳を向けてほしかった。


 彼は眼鏡をはずし、目をこすった。眼前の彼女はわずかなほほえみを浮かべている。


、何?」


「何でもない」


 体を起こし、眼鏡をかけた。


「もう行く」


「うん」


 彼女が彼の手に触れる。「先生呼んできて。あと上の人たちも」


「わかった」


 彼は1歩退いた。離れて見る彼女は、機械につながれ、与えられた服を着て、まるで彼の知らない誰かになってしまったようだった。


上原うえはらプルーデンス」


 彼が呼びかけると彼女は顔をこちらに向ける。


「結婚を機に改名するわ」


「俺はけっこう好きだ、そっちの名前も」


「そんなこというのあんただけだよ」


 彼はまた1歩離れる。


「さよなら」


 彼女の顔がまくらになかば隠れる。


「さよなら」


 すこしずつさがっていくと、救急カートにかかとをぶつけた。彼女が舌打ちをする。彼はそれを元の位置にもどし、またさがっていく。自動ドアが開く。


 廊下には医師と看護師が立っていた。蒼が医師と目を合わせると、彼はうなずき、処置室に入っていく。自動ドアが閉まる。ハルカが見えなくなる。


 あの医師は不倫をしていると彼女がいっていた。本当かどうかは知らないが、彼は何となくその手で彼女に触れてほしくないと思った。巷の堕落した人間。


 看護師に頼んで見学室の者たちを呼んできてもらう。


 大槻とともに階段をのぼっている途中でハルカの母親たちとすれちがった。視線を感じるが無視する。


 見学室の窓から見おろすと、処置室は狭く映った。人がいっぱいで、その中心にいる彼女だけが全身に光を浴びてぽっかり明るい。


 人工心肺のそばに立つ医師が手振りつきで何かをいっているが、スーツ姿のとそれに唱和する信者たちの祈りで掻きけされる。「おやとことおかせるつみ、ことおやとおかせるつみ」と歌うようにいう声がガラス越しに見学室まで届く。


 彼はうつむき、その場を去った。廊下まではあの声も響いてこない。早足の看護師とすれちがう。


 彼女の病室の前をとおりかかる。彼女の部屋には入ったことがなかった。引き戸を開けて中に入る。ベッドが処置室に運ばれてしまったので広々としている。照明はいたままだ。


 壁にぶたの絵が張られている。まだ彼が入院していた頃にした遊びだ。スマホで検索せずに動物の絵を描く。彼女は絵が下手で、彼はいつも彼女の作品に笑わされた。


 テーブルに小説の文庫本が置かれている。手に取ってめくっていると、ページの隙間から何かが滑りおち、舞った。床に落ちたそれを拾いあげる。押し花だった。ピンクの花。見おぼえがある――彼がお見舞いに持ってきた花だ。


 他のページを開く。平たく乾いた花が次々に文字を隠して現れる。白い花、赤い花、黄色い花。


「花には興味がないんじゃなかったのか?」


 彼はつぶやいた。答える者はない。


 生まれかわりというものを、彼はぼんやり信じている。彼女がどうなのかは知らない。だが彼女が生まれかわるとしたら、花がいい。彼も花になりたい。人間だとか男だとか女だとか、もうそういうものに生まれはしない。


 背後で戸の開く音がした。大槻が病室に入ってくる。蒼は本を元の位置にもどした。


 大槻はソファに腰をおろした。


「いま人工心肺を止めたよ」


 両手で顔をおおい、深く息をしていたが、やがてえつを漏らす。


 蒼は彼の前に立ち、肩に手を置いた。その坊主頭に手をやり、ちくちくする髪を撫でる。彼女がしてくれたことの物真似だ。


「大槻さん、話を聞いてくれてありがとう」


 誰かがあの日々の話を聞いてくれなければ、ハルカたちの喜びや苦しみがなかったことになってしまう。


 大槻が顔をあげた。涙に濡れた頬が光っている。


「どうしてなんだ。どうしてハルカちゃんみたいな若い人が死ななきゃならないんだ」


 それは蒼もくりかえした問いだった。あの町ではそんな疑問を抱かざるを得ないことが何度も起こった。


 同じ問いをハルカなら神に対してぶつけるだろう。蒼は誰に向かってたずねればいいのかわからない。


 暮れそめた空が雲にかすかな青を残している。海の向こうに沈む日は山で見るそれとちがって遠く、取りつくしまもないように映る。


 ハルカのように慈しみを他へ及ぼすにはどうすればよいのだろう。目の前で涙を流す人に何といって手を差しのべればよいのだろう。


 問うべき相手はもういない。


 静かにかげっていく病室が蒼を同じ色に染めていく。

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