3-10
なかなか青にならない横断歩道を渡ると、砂浜に通じる長いスロープがあった。堤防に沿って3mほどさがっている。
彼はゆっくり進む車椅子を追いこして砂浜に立った。正面には鉄骨の組みあわさった構造物がある。国道と同じ高さに建てられたプレハブ小屋の土台だ。堤防の改修工事をしているらしい。鉄骨は潮風を浴びて赤黒い
鉄骨に場所を取られて砂浜は狭くなっていた。注意書きの看板が掲げられている。
CAUTION!
高波時通り抜け出来ません
彼は沖の方に目をやった。はるか遠くから波はやってくる。こんなに広い海のわずかな変化で人は身動きが取れなくなる。大きなもののちょっとした気まぐれで人は死んでいく。
「砂浜は車椅子やめた方がいいか」
ハルカが斜面の一番下で車椅子を停めた。肘かけのホルダーからペットボトルを取り、立ちあがる。彼が手を差しのべるが、それにはつかまらず、ややふらつきながら砂の上を歩く。強い風が
鉄骨と反対の方に歩く。堤防の底部が出っぱっていて、ふたりはそこに腰をおろした。
彼は砂浜を見渡した。
「誰もいない」
「平日だからね。それにこの辺、海の家とかシャワーとかないし」
ハルカがペットボトルの水を飲んだ。
ふたりのいるところはスロープの陰で、国道や街からはずっと低まったところで、世界から遠く
それでいて眼前には
あらゆるものが昼間見せない色を見せる時間だ。
「きれいだな」
彼はハルカの横顔に目をやった。彼女の肌は灰青色に染まり、かえって日の下にあるときの白さを彼の
「地元でも見れるでしょ。湖のそばなんだから」
彼女のわずかに
「
「どういうこと?」
「山の間に水溜めて造った湖だから、砂浜とかないんだ。岸からすぐ深くなる」
「じゃあ意味ないじゃん、湖」
「意味ないな」
彼はローファーの
「来年、あの町の封鎖指定が解除されるんだ」
「知ってる。テレビで観た」
「俺、自分の家にもどろうと思ってる。大学もそこから通う」
「へえ。いいじゃん」
「その大学、被災地の復興行政を専門にしてる先生がいるんだ。その先生のゼミに入って、卒業したら地元で公務員になって町の復興に関わりたい」
「ちゃんと将来のこと考えてるんだねえ」
ハルカがペットボトルを投げあげ、両手でキャッチする。
「おまえも遊びに来いよ」
「嫌だよ。あんな山奥」
「確かに山奥だけどさ、いいところだよ。すごく静かだし」
「湖の底みたいに?」
ハルカに見つめられる。彼はうなずいた。
「うん。湖の底みたいに」
ふたりは近くて、同じ色に染まっていた。彼は「カスケード・シールド」の中にふたりでいたときのようだと思った。ここにいれば安全だ。彼女の許可なしには誰も入ってこられない。安全でいるために、ふたりは近くにいなければならない。
「ハルカ、俺といっしょに暮らさないか?」
「は?」
彼女は顔をしかめた。
「そしたら週1じゃなくて毎日会える」
「は?」
「ずっといっしょにいたいんだ。おまえにいいたいことや聞きたいことがたくさんある」
彼は手を伸ばし、彼女の髪にそっと触れた。いったり聞いたりするだけでなく、触れたいし撫でたい。遠い憧れの存在でなくいまここにいる彼女をあらゆる方法で感じたかった。
彼女は目を泳がせ、沖の方を向いた。彼は髪を撫で、指を分けいらせる。爪で
もっとそばで見たくて顔を近づけていく。彼女はこちらを見て目を丸くした。さらに近づいていくと、彼女は目を伏せる。長い
唇に唇を押しあてる。彼女は柔らかく、乾いていた。しばらく動かずにいると、結ばれていた唇がわずかに
彼女は身をすくめるようにして唇を離した。
「駄目だよ」
彼は彼女のことばが吐息となってかかる距離にいた。
「なんで?」
「結婚する前にキスとかしちゃ駄目だから」
「明治時代から来た人か?」
冗談でいっているのかと思ったが、身を引き彼を見つめる彼女の目は真剣だった。
「結婚してない男女がいっしょに住むのとかも駄目。魂が
初めて会ったときから彼女はこんな突拍子もないことをいう。
ピンク色に染められていた髪、乱暴で
「地獄か……似たようなとこなら見てきたよ。そこには何もなかった」
彼は彼女の腕をつかんで抱きよせた。彼の胸に突きあたった彼女が彼を見あげる。彼は眼鏡をはずし、彼女の髪に顔を埋めた。懐かしい匂いがする。入院中に彼も使っていた浴場のシャンプーの香りだ。
今度は唇全体に口づける。自分の熱をじんわり伝えるように接し、離す。それをくりかえしていると次第に彼女の唇が解けてきた。彼の動くのに合わせて彼女も動く。離れるときわずかに尖る唇がふたり同じ形をしていると思う。
ワイシャツの
汗に濡れて肌に張りつく病衣を指の先で
彼女が唇を離し、長く息を吐いた。シャツの襟はつかんだままだ。彼は病衣の袖から手を引きぬこうとして思いなおし、
「結婚しよう。いますぐ」
「おまえおっぱい触ったからいってんだろ」
にらみつける彼女の顔は睫毛の触れる距離から見ると笑顔のようでもあった。
「まあ確かに結婚したら毎日おっぱい触り放題だと思うけど、俺、おまえと幸せな家庭を築きたいって思ってるし」
「前半は心にしまっとけよ」
ふたたびキスをする。彼が舌を尖らせ差しだすと、彼女の舌に触れた。その柔らかさに驚いて力を抜く。柔らかなものどうし、ふたりの間で触れあって、吐息が混じりあう。その漏れるのさえ惜しくて唇を合わせ、閉じこめてふたりだけのものにする。
彼女が彼の肩に頭を預けた。
「結婚っていったって私、あんたのこと何も知らない。童貞ってこと以外は」
「それだけ知ってりゃ充分だろ」
彼は彼女の髪を撫で、うなじをさする。
彼女が顔をあげる。彼は彼女の頬に手を当てた。すこし熱っぽいように感じる。
「私、病気治んないよ」
「知ってる。俺もだ」
「ずっとだよ」
「うん、ずっと」
「一生だよ」
「うん、一生」
彼女を強く抱きしめる。それでもなお、ふたりの間に距離があるように感じる。
彼は彼女を抱きあげて脚の間に座らせた。腰に手をまわし、うしろからしっかりと抱く。
「うわ、
彼女がつぶやく。
「俺はあの町で暮らすのが夢だ。その夢におまえを加えたい」
「勝手に加えんな」
「いいんだよ。町にだって許可取ってないしな。夢なんてそんなもんだ。でもおまえが俺といっしょの夢を見てくれたらうれしい」
海は黒く、空は紫に染まっていた。没する間際の太陽が最後の光を帯にして波間に浮かべる。海を渡っていく道のようだった。
眼前にひろがる光景をふたりは同じ視線で眺めていた。目が痛くなってきて彼は眼鏡をかけなおす。戦いの果てに行きついたのがこの場所だと思った。
彼女がその手を彼の手に重ねた。
「すこし時間がほしい。ちゃんと返事するから」
「わかった。待ってる」
彼は彼女の耳に口づけた。彼女が
一生同じ病気でいる。多くのものを彼から奪った病がいま、彼と彼女とを
「水」
「ん」
彼は砂の上からペットボトルを拾いあげ、彼女に手渡した。彼女が上を向き飲む水もまるで自分の体に流れこむもののように感じられる。彼女の痛みも苦しみも
彼は彼女の
「何してんの」
そういって口から垂れる水を手で拭う、その手を彼は取った。手の甲の水滴を吸いとり、唇の端からこぼれる
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