映画レビュー「PLAN9 FROM OUTER SPACE」【ネタばれアリ】

ガミジン

あなたの心臓はこの恐怖に耐えられますか?ー前編:エドウッドの作風についてー

 この世の中には二種類の映画がある。面白い映画と面白くない映画だ。後者の中でもただの面白くない映画とは一線を画すものには、Z級という称号が与えられる。


 エド・ウッドが手掛ける映画は、必要な場面や演技をまるで意図したかのように省き、ナレーションによって物語を展開させていく手法が取られることが多い。エド・ウッドは「Glen or Glenda(邦題:グレンとグレンダ)」にあるような、象徴的なアイテムや人物を画面内に点在させることで心情を表現することには優れている。しかしながらエドウッドは、何気ない日常の簡単な動作を表現することを著しく不得手としている。そのせいか、その場面で誰が何をしているのかについてをナレーションで説明することが多い。

 映画であるのにも関わらず、ナレーションなしに映画内の出来事を説明できない理由は、役者の演技力不足、突然の場面転換、役者のセリフと映像に不一致が生じるなどが組み合わせられることにより、映画のストーリーの解釈の手がかりを鑑賞者が見失うからである。

 「PLAN9 FROM OUTER SPACE」もこの例に漏れない。この映画よりも面白くない映画は存在しているであろうし、新たに作り出すことも可能だろう。しかし独自の視点からストーリーを抽象的な表現に昇華し、それを短期間で、かつ安く、映画にまとめられるのはエド・ウッドだけであろう。故に本作品はZ級映画と呼ばれている。


 意味深長で長いものの特に意味をもたないセリフ回しともったいぶったゆったりとした動きの演技は、エド・ウッドの作品において急な場面転換と同じくらい重要な位置を占める。このゆるやかな表現の多用により、映像作品であるのにも関わらず静止画の停止感を再現したような独特の雰囲気を作りだすことに成功している。

 

 退屈とも似た単調さが強く印象に残る場面が連続したかと思えば、気が付けば別の話題と場面が提示される。その粗雑かつ力強い表現は、全く違う既成の絵図同士を切って繋げたコラージュを思わせる。

 エド・ウッドの作品のことを「映画のようなゴミ」と評する声もあるが、私はむしろ映画の中に映画の枠を超えた何かをエド・ウッドは見出していたのではないかと考える。なぜならエド・ウッドの作品は、まだ人類が発見していない形式の芸術作品を、人間が理解できるように映画に置き直したようにすら思えるからだ。ナレーションが物語を進めるという点においては紙芝居と共通しているように思えるが、エドウッドの作品を紙芝居に例えるのは何か違うような気がする。かといって役者の演技や舞台の演出で表現すべきところを、ナレーションで説明するのは映画らしくない表現の仕方と言えると思う。

 改善点があまりに多いので、未完成品のようであるし、意欲的な実験作であるようにも思える。


 監督の表現に対するチャレンジ精神と実際の映画の出来栄えからして、エド・ウッド映画は異次元に位置する作品群といえよう。ただの駄作にはない輝きがここにはある。

 

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