幼なじみとビター・バレンタイン

三川 穿

2月14日

 放課後を告げるチャイムが鳴った。

 いつものそれは、糸が切れたように空気が弛緩し始める合図だ。

 でも、今日はどこかぎこちないまま。

 多くの生徒が、何かを期待するような、また何かの時機を見極めるような、そんな雰囲気を醸し出していた。

 ――それもそのはず。今日は二月十四日。バレンタインデーだ。

 知っての通り、女性が想いを寄せる相手にチョコレートを贈るというこのイベント。

 お菓子メーカーの陰謀だなんだとウワサされたりもするけれど、それでも女性にとっては告白の後押しをしてくれるもつともな口実であり、男性にとってはその日一日はそわそわしてしょうがない、嬉しいような迷惑なような非日常的イベントだ。

 そしてそれは、思春期の、特にウチみたいな共学校の生徒たちにとっては、普段恋愛から縁遠い者であっても、気にせずにはいられないほどの一大イベントだった。何せ、普段真面目で通っている生徒ですら、どこか落ち着かないように見えるほどだ。

 ――しかし。そんなイベントに沸く浮ついた雰囲気の教室で。

 他の生徒とは比べるべくもないほどの明らかな不自然さをもって、更に一際浮いて浮き足立っている男子生徒がいた。

『彼』ときたら、写真撮影をするわけでもないのに、なぜか背筋をピンと伸ばし、両手をグーにして膝の上に置いている。まったくわけがわからない。

 私、ふじみやあやは、その男子生徒の『観察』にふけっていた。

 何せ見ていて面白すぎる。

 私の席は彼の右の後ろの方。表情ははっきりと見えないけれど、きっと眉間にしわを寄せて強ばった顔をしているに違いない。そんな顔をしていたら、誰だって話しかけにくいに決まっているのに。あれでは貰えるものも貰えない。

 ふと彼の姿が、飼い主からの施しを待っている愛犬のように見えてしまい、苦笑する。

 尻尾でも生えていたら、もっと面白いのに。彼が人間なのが少し残念だった。

 しばらくすると姿勢を保つのが辛くなってきたのか、それとも周りの様子が気になるのか、男子生徒は視線をきょろきょろと泳がせる。しかし周りを気にしているとバレたくないのか、すぐに姿勢をピシッと戻す。そんなことを数分おきに繰り返す。でもたぶん、ずっと観察している私じゃなくても不自然さに気づくと思えた。そのくらいに変だったから。

 そもそも普段の彼は、放課後、我一番に教室を飛び出すような生徒だ。

 特に用もないのに、今の時間の教室に居残っている時点で、チョコレートを期待しているのはバレバレだった。

 私が彼の観察を始めてから、もう結構な時間が経つ。

 ぽつり、ぽつりと、教室に残っている生徒の数も減っていった。もう残っている生徒は、彼と私と、あと数人程度だ。彼らも今に帰るだろう。

 だいたい、教室で堂々と男子にチョコレートを渡したりする女子はほとんどいない。たぶん意中の相手が良い感じに一人になったところを捕まえるのだと思う。私自身、誰かに本命のチョコレートを渡したことがないから、よくは知らないけれど。

 おそらく――いや、間違いなく、彼がこれ以上教室に居残って誰かからチョコレートを貰うことはない。私はそう確信し、席を立って彼の元に向かう。


「やぁ少年。戦果はどうかね?」


「………………」

 私が彼に声を掛けると、彼はのっそりと顔を動かしてこちらを向いた。

「……ゼロですが何か?」

 そう言う彼の瞳からは光が失われていた。

 可哀想に。悪い奴じゃないんだけど。

 ――ひらさかそう。その男子生徒は、私の幼なじみだった。

「いや~、今年も私の予想通りだったね!」

「うるさい! 嬉々として言うなよ!」

 颯太は少し涙目になって、私を睨む。

「ごめんごめん。でもアレはないよ。何なのあの姿勢。たまにきょろきょろしちゃったりしてさ……。私、笑いをこらえるのが大変だったんだから」

「そんなの知るかよ、バーカバーカ」

 子どもみたいにわめき散らす颯太。

 彼がモテないのは、たぶんこの子どもっぽさのせいだと思う。

 でも私はそんな颯太のガキっぽさがわりと好きだった。だからこのことは教えてあげないでいる。私はけっこう性格が悪いのかもしれない。

「だいたいチョコ貰いたかったら、教室にいたら渡しにくいと思うんだけど。さりげなく一人になって隙を見せるとかしないとさ」

「!! なるほど! 俺がチョコを貰えなかったのは、教室にいたせいなのか!」

「いや、それは違うと思――」

「よし、じゃあ俺は今から一人で下校するぞ! ついてくんなよ絢音!」

「いや、もう教室に誰も残ってないし、肝心の隙を見せる相手がいないって」

「あああっ!! しまった!」

 アホなのだろうか。

「少年よ、まだ生産性のないことを続けるつもりかね?」

 私はアホが更に酷いことにならないうちに、決断を促す。

「でも、諦めたらそこで試合終了だって、安西先生が――」

 言いかけたときだった。

「……ん? お前ら、まだ居残ってたのか。もう鍵閉めるから、さっさと帰れよー」

 廊下から突然、無慈悲なホイッスルが鳴らされた。それはもちろん、試合終了を告げる笛だ。

 そこには私たちのクラスの担任教師が立っていた。

「そ、そんな、先生、もう少しだけ御慈悲を! モテないこの僕にチョコレートを……!!」

「はぁ? なんだお前、俺のチョコレートが欲しいの?」

 廊下との窓越しに見える担任教師の顔が、明らかにめんどくさいと言っている。同情する。

「ええ、もうこの際、男だろうがなんだろうが、気にしませんよ!」

 いや、そこは気にするべきだと思うのだけれど。なぜそんなに強い語気で言えるのか。

 あれ、こいつホ○じゃなかったよね……。

「嫌だよ、気持ち悪りーな。ふざけてないで、さっさと帰れ」

「…………へい……」

 こうしてアラフォーのおっさんにも振られた颯太は、家路につくのであった。

 いや、なんかもう、可哀想すぎるでしょう……。


   *


「――だいだい、バレンタインデーなんてな、お菓子メーカーの陰謀なんだよ! それに乗せられているやつらの、なんとバカなことか!」

「うんうん、そうだねー」

 私は颯太の愚痴に付き合う。まあちょっと可哀想だし、これくらいはね。

 でも今の台詞、盛大なブーメランだって気付いているのだろうか。

「よし、決めたぞ絢音。俺は将来お菓子メーカーに就職して、バレンタインデーに替わる新たなイベントを流行らせてやるぞ!」

「えっ、マジで?」

 勢いで決めた夢のわりに、具体的過ぎない?

「ああ、マジだ。大マジだ。バレンタインデーみたいな、モテるやつとか恋人がいるやつしか楽しめない差別的なイベントなんて廃止に追い込んでやるんだ。そして未来の若者に『えっ、そんなイベントあったの? マジ意味わかんないんだけど、うけるw』とか言わせてみせる!!」

「……どうでもいいけど、未来の若者ってそんなギャル語みたいな言葉遣いするの?」

「…………さぁ……」

「………………」

 少し間が空いて、二人して吹き出した。

「ぷっ、あはははっ、やっぱ颯太、アホ……」

「う、うるさい! そ、そういえば絢音はどうなんだよ!?」

「どうって?」

「だから、誰かに、その……、チョコあげたりしたの?」

 なぜか颯太の視線が泳いでいる。恋愛ごとに関わる話だけに、デリケートなものと気遣ってくれているのか。それとも単に恥ずかしいのか。

 そんな彼が、少し可愛らしく思えてしまう。

「あげてないよ。好きな人いないしね」

「ふーん……」

 どうでも良いみたいに呟く颯太。今の私の『答え』を、どう思っているのだろう。

 いつの間にか、それぞれの家に向かう分かれ道まで来てしまっていた。

 私たちは家が近所だから、ここを別れたら家までもうすぐだ。

「じゃあ、また明日な」

 颯太の方から、いつものように別れを告げてきた。

「うん、じゃあまた明日」

 私も颯太につられて、返事をする。そうして私は颯太に背を向けて歩き出す。

 ……カツ、カツ、カツ。数歩歩いて。

 しかし、カバンの中にある『それ』が、自宅に向かう私の歩みを鈍くする。気付くと、私の足はその歩みを止めていた。

『それ』は今日一日中、ずっと私の意識を支配していた。いつ渡そうか、ずっと時機を窺っていた。毎年のことだけれど、毎年のようにならないように、願って、考えていた。

 もう、今しか残っていなかった。

「あ、そうだ。颯太!」

「ん?」

 少し離れたところで、颯太が振り向く。と同時に、私はカバンから取り出した『それ』を颯太に向かって投げつける――

「――取って!」

「えっ、ちょ――」

 颯太は私の投げたものを、なんとか受け止めてくれた。

「ったく、何なんだよ――」


「毎年恒例の義理チョコです。今年もよろしくね」


 ――嘘を、吐いた。

「………………」

「なにボーッとしちゃって。そんなに嬉しいの?」

「ちっ、ちが――……わないけど……」

「えっ」

 少し、ドキッとした。

「そ、そりゃ、嬉しいだろ! たとえいつもの義理チョコでもさ! ……ありがとな」

「う、うん……」

 やばい。何かすごく恥ずかしいんだけど。顔が赤くなっている気がする。

 沈黙が二人を包む。

 いつもは気にならない心臓の音が、際だって聞こえてくる。空気は冷たいはずなのに、なぜか身体が熱かった。――いや、本当はそんな理由なんてわかっている。緊張しているんだ。

「………………」

「………………」

 お互いに、話しかけるタイミングを探っている。そんな気がした。

 でも何を言う? 颯太は何を言おうとしているのだろう。もし私がここで本当のことを言ったら、どうなるんだろう――

 ……想像して、心が揺れた。

 すぐに何か話さないと、そうしないと居られなかった。私は、私から、口を開く――


「本当は、颯太が本命チョコ貰えるようになったら、渡すのはやめようと思ってるんだけどね。一体いつになるのやらね」


「う、うるさいな! 絢音はいつも一言余計なんだよ!」

 ――一言余計。本当にそうだと思う。

 でも、それは『今の』私が望んだものだったから。

「……だって、本当のことだもん」


   *


 私は帰宅すると、一直線に自室へと向かった。

 そのままベッドへと倒れ込む。柔らかな感触が私を包み込んだ。

 ふと横を見ると、昨日のチョコレート作りで余った板チョコが机の上に置いてあった。私は横になったまま、ぐぐっと腕を伸ばしてそれを掴む。

 板チョコを割って、その一欠片を口に運ぶ。

「…………」

 カカオ多めのビターチョコレートは、少しほろ苦い。彼に――颯太に投げつけたチョコレートも、だいたい同じ味がするはずだ。


「……あんな気合いの入った義理チョコ渡すやつ、いるわけないでしょうが。気づけバカ」


 ポリポリ。

 チョコレートはやはり少しだけ苦い。でも、私はこのくらいの方が好きだ。

「気付くわけないか。颯太だし」

 颯太のことを考えて、苦笑する。同時にチョコレートのビターな香りが鼻の奥に広がった。

 もう少しだけ、この香りを感じていたかった。


 もう少しだけ。



  ―END―

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