trip

進藤翼

第1話

 生きることをぶん投げた。

 おそらく自殺三日目。思いのほか体調に変化はない。口元に手をやると、伸びてきたかたいヒゲに触れた。短いくせに存在感の強いやつめ。せっかく剃ってきたというのに。

 死にたがり屋がこの世からロング・グッドバイをするとき、身体を清潔にするのは特別珍しいことではない。人というのは変わっていて、そこにもう自我はないというのに死んだ後の見た目を気にするものらしい。

 あるいは、死後の世界があるとして、そこに汚れたまま行きたくない、というのもあるそうだ。

 僕からすると「はあ?」って感じ。どうか僕を見くびらないでほしい。僕をそんじょそこらの死にたがり屋と同列にしてもらっては心外だ。

 物事にはなんだって順序がある。そんじょそこらの死にたがり屋の場合、まず、死のうと思う。だから身を清める。こういう順序だ。僕の場合はこれが逆転する。つまり、身体をきれいにした後で、死のうと思い立った、というわけなのだ。

 人はやたら死を高尚なものだと思ったり救いがあるとか思ったりしているフシがあるけれど、僕はもちろんこれほどもそんなことを思っちゃあいない。じゃあなぜ死のうと思ったか。理由はない。ヘロインもどきはある。

 そのときの僕はとにかくぶっ飛んでいた。ハイになると全能感に溢れてくる。できないことなどなにひとつない、そんな気分だ。

 人は潜在的に本能的に、生まれながらにして死を恐れている。どんなに偉大な人物であったとしてもそれを覆すことはできない。グレタ・ガルボもオードリー・ヘプバーンもみな息絶えた。しかし彼女らはフィルムの中で生き続けている分いいほうだ。百年後だってその美しさを讃えられていることだろう。

 しかし名もなき僕らには、ただ死ぬ、ことしかできない。なすすべなく、それを受け入れようが受け入れまいがやがて来るそのときを待つことしかできないわけだ。

 死に直面すると人はおびえる。死にたくない生きていたいとみっともなくすがりつこうとする。涙で顔をぐちゃぐちゃにしてだ。

 シャワーを浴びた後、身体を洗ってヒゲを剃った。ちょうど刃を変えたばかりのヒゲ剃りはなめらかに僕の肌を滑り、鉛筆の芯のようなそれを刈り落としていった。その出来栄えに僕はすっかり満足した。

 時計は、日付の変わる直前を示していた。髪の毛を乾かすのも忘れて、テーブルに広げたままの薬を吸引した。それは僕の脳天に直撃し、白目をむいた僕に全てを映した。全て、だ。それは宇宙の誕生であったり惑星の爆発であったり、生命の進化であったり火山の噴火であったり海の中であったり、蒸気機関車であったり飛行機であったり、戦争であったり血液であったり、あるいは僕の誕生であったりした。

 ハイな僕に怖いものはなかった。だからこう思った。死に向かうという恐怖さえ、今の僕は乗り越えられると。白目をむいた僕は瞬間的に悟った。死それ自体には打ち勝てずとも、それに対する恐怖を克服した最初の人類になれる。

 かくして深夜の一時、僕は行動を開始した。この仮住まいの家の隣には倉庫がある。そこからチェーンソーを拝借すると、すぐさま森に飛び込んだ。どの木を切るか。どれでもいい。それが木であるならばどなたでも、だ。ここには一生分の木がある。


 さてどうして僕がこんな森の中にいるのか、それは説明しておかないといけないだろう。簡単なことだ。ワン・ワードで済む。仕事だ。僕の肩書は植物学者であるが、植物に対しての害虫の研究者でもある。

 近年この地域の森が大量に枯れるという現象が頻発していた。原因は害虫。こいつらはとにかく厄介者で、土の下で木の根を食いまくる。それだけならまだマシなのだが、参るのは食事のあとに分泌する体液にある。この体液には根を腐らせる作用があるのだ。そのせいで木は満足に水分を得ることができず、次々に枯れてしまったというわけだ。

 この森はこの地域に現存する数少ないひとつになってしまい、僕はそれを守るよう依頼されてやってきたのだった。

 害虫についてだが、実のところこれはさほど重大な問題ではない。一般的には知られていないが、害虫どもはかんきつ類に弱いのだ。まだ研究過程で確定している事実ではないが、ほぼ確実、だ。僕はそれを知っていた。この業界は横のつながりは太い。

 だから僕のもとにこの話が飛び込んできたとき、僕はガッツポーズをしないように自分を抑えるのに必死だった。おかげで色々と理由をつけて大金を手に入れることができた。

 森に来る前僕は自分の研究室に三週間ほどひきこもって、かんきつ類をベースにした特別な薬を調合し、ついでにそいつを作るマシーンも作製した。

 森の中にあるこの仮住まいの家は、昔自然派をきどる老夫婦が住んでいたものだ。彼らが死んでしまって空き家になっていたため、これが僕にあてがわれた。

 僕はボックスカーにマシーンと作れるだけ用意しておいた薬、それから必要と思われるあれやこれをぶちこんでこの森にやってきた。

 物資が運ばれてくるのは二週間に一度、それ以外誰一人としてここを訪ねてくるものはいない。元々人嫌いの傾向がある僕にとって、それはむしろやりやすかった。

 九か月という時間をもらった。その間に害虫たちを根絶させなければならないという意味だが、なんのなんの、そんなお仕事は三か月で終わらせてしまった。森は広かったが毎日薬を撒いていけばそれほど時間のかかるものではなかった。

 僕は強欲で悪知恵が働くが、だからといって仕事をないがしろにしない。

 おかげでこの残りの半年をただボーっとするだけでよかった。なんて旨い仕事だ。これ以上楽なことがあるだろうか。

 時間を持て余した僕は、同じく余らせた薬をなにかに利用できないかと考えた。それでいろいろ試行錯誤を繰り返した結果、ヘロインによく似た症状を持った「お薬」が出来上がったのだった。それは害虫駆除に使っていた液体状のものではなく粉末状のもので、それ以降僕は昼夜問わず果てしない脳内の旅に出ることになる。この薬のすごいところはその持続力だ。完全にキメると、効果が一日も持つ。最高だった。

 

チェーンソーのけたたましい音が闇を裂くように響くが、咎めるものはなにもなかった。なにしろここは数キロメートルを森に囲まれているのだから。ときおり野生動物や鳥たちが驚いて去っていく程度だ。

 僕は目についた木々を片っ端から切り倒していった。めきめきと音を立てながら崩れ落ちる大木。その大木が地面にぶつかって、衝撃が僕の身体を貫いていく。


 それはさながら、祝・福・の・ファン・ファー・レ!


 天高くから僕めがけてラッパの音が突き刺さるように降ってくる! そのなんと心地よい轟音。僕はすっかり酔ってしまっていた。そしてもっとそれを聞きたいがためにチェーンソーを木にぶつける。

 必要なぶんを揃えると、次はこれらを結ぶヒモを用意する。幸い森には引っ張っても千切れない丈夫なツタがわんさかあった。森には意外なほどものが揃っている。

 丸太をツタで束ね、チェーンソーと同様倉庫にあったのこぎりとカンナで全体の形を整えていく。昼前に完成したのが立派なイカダだ。

 僕は一度仮住まいの家に戻って、必要かどうかわからないがとにかく直感的に選んだものをリュックサックの中にぶちこんだ。なにが入っているか自分でも把握できていない。

 丸太を等間隔に並べて置き、その上にイカダを乗せて転がす。この方法であれば重いものでも簡単に動かすことができる。ピラミッド建設にも使用されたとされる、遠い昔からある運搬方法だ。車輪の元とも言われている。

 仮住まいの家の前には大きな川がある。イカダは水にたどり着くとその身を浮かばせた。僕はすかさずの上に飛び乗った。イカダはだんだんと川べりから離れて、やがてゆっくりと流れに沿って下り始めた。

 死の旅、片道切符、表現はなんだっていい。とにかく僕はこいつに乗って漂流をするのだ。その過程で僕は今までにない経験をすることだろう。

 さらば名も知らぬ鳥たち! さらば害虫ども!

 僕はこうして生きることをぶん投げた。もしこれが野球ボールならとんでもない飛距離が出ていたことだろう。僕の自殺は始まったのだった。


 その日は一日川下りをしていた。この川は幅がとても大きく、それでいて流れがやたらゆったりしている。深さがどの程度かは知らない。

 流れによってたびたび揺れたけれど、それはたとえばハンモックに乗っているときのような気持ちのいい揺れであった。イカダの底の部分は丸太を二段分くくってある。おかげで水が染みこんでくることもない。これは思ったよりも快適だった。その日はほとんど身動きせず、流されるままにしていた。

感覚が僕に伝えてくる。水の音、触れたときの冷たさ、そのにおい、肌寒い風、木々のざわめき。

 ナンシー・ウッドの本を思い出した。「今日は死ぬのにもってこいの日」だ。ああ、本当のところ、いつだっていつでも、実は死ぬのに適しているのかもしれない。だけど僕たちは適当な理由をつけてそうじゃないと思い込もうとしている。どうだ、僕の五感はなにを感じている? 死ぬことにゴーサインを出しているか? 答えは誰も知らない。僕自身も知ったことじゃない。

 次に目が覚めたときには少しばかり様子が変わっていた。身を起こすとそこは川ではなく海になっていた。川は海に繋がっていたのだとそこで気づいた。潮のにおいが鼻につく。

 太陽はすでに真上にあった。一日寝ていた可能性もあるが確かめようがない。僕は今日を自殺二日目とした。これが夏であれば、今頃僕の顔面は日に焼けて真っ赤になっていたことだろう。春先の季節でよかったと思う。

 イカダは相変わらず安定していたが、しかし川と違って波があるせいで揺れは大きくそして不規則だった。だからといって僕に問題はない。

 頭の半分がぼんやりしているのは薬が切れたせいだった。それでいて身体が重い。鉛を背負っているかのようだった。気分が落ち込んで墜落なんてことはないが、低空飛行なのは間違いなかった。僕は舌打ちをして、シャツの胸ポケットからマルボロを取り出して火をつけた。ふうと吐いた紫煙が海風に混じって消える。海の上で吸うたばことはなんと気分のいいものか。こいつは意外な発見だった。

 ここはどこだろうか。コンパスもなにも持ち合わせていない今、現在地を知るのは困難だった。視界に入るものだけが頼り、しかし水平線以外なにも見えはしなかった。あるのは海と空とヘロインもどきだけ。そしてそれで十分だった。

 タバコをフィルターギリギリまで吸って海に投げ捨てた。数時間風を浴び太陽の向きが変わっていくのを眺めていた。最初は悪くないと思っていた景色もそれしかなければ飽きてしまう。僕はリュックサックからヘロインもどきを取り出して吸い込む。途端に再び全能感がこみ上げてくる。

が、今回はキマりすぎてしまったようだった。

 快感が背中を駆け回る。それは電気にも似たピリピリとしたもので、僕はその時点ですっかり力が抜けてしまっている。メロメロでヘロヘロだ。骨抜きだ。だらしなく口元がゆるみ、よだれが垂れる。言葉にならないうめきをあげる。その電気はやがて四肢に流れる。細かく刻むように指先を目指すのだ。僕は総毛立つ。本来これは恐怖や寒さに反応したときに使う表現らしい。だからこの使い方は間違っている。だが事実として実感として僕の身体の毛は立っているのだから誤用だと指摘されたところで聞く耳は持たない。あるいは、快感と恐怖とは似たような側面があるのかもしれない。案外この二つは近しい位置にあるような気がする。とにかく、だ。僕の全身は気持ちよさに覆われている。

 どうやら薬は使うたびに身体の奥深くにまで染みていくようだった。身体にみなぎってくる全能感を快楽が上回ってくる。僕は背中から倒れた後身体を起こすことができなかった。起こさなければという考えも浮かばなかった。

 意識の飛んでいる感覚が長くなっているのがわかる。キマっているとき、意識は昇る。重力を脱ぎ捨て、自分が解き放たれている気分だ。肉体は魂の牢獄だとプラトンは言った。ならば、このときの僕はその牢獄から抜け出している。それは丸腰の裸であるとともに、自由だ。僕は気づいた。純粋な自由とは、穢れのない自由とは、ここにあるのだと。


 空を飛んでいるはずの足首が急に誰かに掴まれたかと思うと、そのまま引きずり込まれるような感覚に襲われた。地面に激突する、というところで目が覚める。

 身体の重さが増していた。おそらく自殺三日目。思いのほか体調に変化はない。口元に手をやると、伸びてきたかたいヒゲに触れた。短いくせに存在感の強いやつめ。せっかく剃ってきたというのに。まあどうせ誰に見られることもない。

 空腹は今のところ感じなかった。ヘロインもどきの副作用だが、この場合はありがたいというべきか。とはいえ喉の渇きはある。ずっと潮風に吹かれているせいだろうか、身体の水分が失われるように感じていた。一度海水を試してみたが塩辛すぎて飲めたもんじゃない。どうしても耐えきれない、というわけではなかったが、気まぐれにリュック探ってみるとペットボトルのコーラを見つけた。しかも開栓していない。僕は無神論者だから神に感謝など捧げないが、今回ばかりはどうだろう、誰かに祈ってやってもいいと思った。しかし頭が冴えず、ちょうどいい人物が浮かばなかった。フィリップ・シーモア・ホフマンはオーバードーズでくたばったんだったか。それなら彼あたりにでも礼を言っておこう。今この状況を改めてみると、衰弱して死ぬよりもオーバードーズで死ぬ確率のほうが高そうだった。彼の出演作は片手ほどしか鑑賞したことがないが、親近感を覚えるというものだ。

 キャップをひねるとすぐさま口をつけた。黒い液体が口内に入り込んでくる。小さな泡たちが次々と弾け、爽快感を与えてくれた。喉を満足に湿らせる。久しぶりの刺激と歯が溶けるくらいの甘さにくらくらする。知っておいたほうがいい、ぬるくてもコーラはうまいということを。三分の一ほど飲んであとは残しておく。飲み干してしまいたいがここは大切にしよう。僕は後々のことを考えながら行動するタイプだ。

 しばらくすると吐き気がこみ上げてきた。それに気分が悪くなってくる。身体の重さもますますひどい。このままイカダを沈めてしまいそうな気がするほどだ。間違いなくヘロインもどきの副作用だ。これを忘れるためにまた薬を飲まなければと思ったが、身を起こすことも腕を持ち上げることもできなかった。僕は抵抗を諦めた。少し回復するまで、黙って横たわっていよう。

 太陽が傾いていく。空と海を燃やし始める。目がつぶれそうなほど眩しく煌めく海面は僕に命の誕生を思い出させた。ぶっ飛んでいるときに見たあの景色にどこか似ている。生命は海から生まれたのだという。それが事実かどうかはどうでもいいが、この輝かしさを見ていると確かにそうかもしれないと感じさせるなにかはあった。

 乱反射する光はまだ一日を終わらせまいと懸命に示そうとしている。しかしろうそくの炎は燃え尽きる直前が最も激しく燃えることを僕は知っていた。光は僕の視界を真っ白に埋めつくしたがその直後、急に力が抜けたかのように弱々しくなっていく。空を見て気づいた。赤い空が侵食され始めていた。遠くのほうではすでに紺色が大きな口を開け赤い空を飲み込んでいる。

 僕は生まれて初めて、夕方から夜に変わるその瞬間を目にした。そう、初めてだ。夜に移り変わるというのは、例えばカーテンを勢いよく閉めるような変化とは違う。透水性の低い土に、ゆっくりと水が染みこんでいくような変化だ。

 やがて空全体を覆うように多くの星々が瞬く。僕は驚いた。海の上ではこんなにも多くの星々が見えるのか。森の中でさえ、これほどの数はなかった。文明から離れれば離れるほど、自然は本来の顔をのぞかせるのかもしれない。僕は息をのんだ。どんな絵画も映像も、この空を表すことはできない。それを表現しようとした時点で、すでに劣る。

 空という絨毯に限りなく敷き詰められた星の砂粒たちはそれぞれ自由に輝いている。しかし誰もたがいを阻害せず、かといってひときわ目立とうとするでもなく、ただ、自分はここにいるのだと示すようだった。星は意外にも謙虚な存在らしい。

 ひどくノスタルジックな気分なのは薬のせいか。それとも初めて触れる壮大な自然に心が震えているのか。本当のところは僕にはわからない。それを判断してくれる第三者もいない。ただひとつ正しいのは、僕はこれを美しいと感じているということだ。

 あの世界の住人になろう。少しばかり身が軽くなった僕は急いで薬を吸引した。途端、身体の浮き上がるような感覚に襲われる。僕はイカダから遠ざかって、上へ上へと昇っていく。

 僕はまた重力から逃げ出す。さっきまでのダルさは消え失せていた。上下左右という概念から飛び出し、僕は自在に動くことができる。

 あの星を目指すのだ。どの星だ。どれでもいい。あの星だ。


 目が覚めるといつも日が昇っている。自殺四日目。気分的にはもう一週間ほど経過している。自分がなにをしていたかはっきり思い出せない。

 ちゃぷちゃぷと水の跳ねる音がやけに脳内に響いた。視界がなんとなくぐるぐるしているように感じる。腹が減っているような気がする。気がするというのは、いまいち確信を持てなかった。空腹とはどんな状態だったかわからなくなっていた。

 なにも食べていないはずなのに身体が重い。僕は這うようにしてリュックに近づき、ずりずりと腕を伸ばした。ティッシュにくるんだドーナツが出てきた。かじった形跡があった。こいつを食ったのは果たしていつだったか思い出そうとしてやめた。そんなことをしたところでなんの意味もない。粉砂糖をまぶしてあるだけのシンプルなドーナツ。しかしそれを噛んでも味がしなかった。ひどいものだった。僕は、やわらかい塊をただ無感動に噛んでいるにすぎない。飲み込んだところで、そういえばコーラを残しておいたことを思い出す。緩慢な動きで腕を動かしてペットボトルを手に取ったが中身は空だった。やはりいつ飲み干したか思い出せなかった。

 衰弱を自覚していた。僕は心底弱り切っている。水分だけでも一週間ほどは生きられると聞いたことがあるが本当のところはどうなのだろう。そもそも僕の手元に水分補給できるものは残されているのだろうか。

 ヘロインもどきでぶっ飛んでいるぶん、その反動がでかかった。重力が増している。その重りは僕の身体全体にのしかかってきていた。

 たぶん、今は素面、のはず。素面でも死に対する恐怖はいまだ訪れていない。あるいは感覚が鈍っているだけなのかもしれないが。それでも食料を求めているのは、生きることに執着があるからだろうか。それとも単に食欲に屈しただけか?

海の上というのは、思いのほか静かだ。浜の近くであれば波の音が聞こえるのだろうが、ここにはそれさえない。たまに風が通り抜けるが、それだけだ。

 目を満足に開けられない。寝起きのようにまぶたが重いのだ。こんなところにまで重さがある。たまったものではない。

 躁鬱の鬱の状態であるということはわかっていた。こんな症状には慣れている。どうでもいいことが頭に浮かんだり急に弱気になったりするが、それは僕の本質ではない。あくまでもヘロインもどきのせいだ。僕はおかしくなっていない。

 太陽の光がうっとうしい。手で顔を覆い隠す。

 手でつくった影の下でロビン・ウィリアムズを思い出していた。彼は晩年は鬱病気味だったという。自宅で首を吊り自殺した。あいにく、今の僕には首をつる力もなかった。それにそもそも首をくくるものもない。

 首吊りは、一瞬で生を終わらせる。その断ち切りっぷりは潔ささえ感じさせる。僕の漂流自殺は、方法としては賢くない。だらだらと死ぬまで生きることになる。みじめったらしいとどうか思わないでほしい。行きつく先は同じだ。ただ少し時間がかかるだけで。

 しかしどうだ、「死ぬまで生きる」というのは、ほかの人々も同じなのではないか。そういう意味では、生きているというのはそれ自体時間のかかる長い自殺といえなくもない。ただその期間があまりにも長すぎるから、仕事をしたり家庭を待ったりする。人生は死ぬまでの暇つぶしなんて言い回しを耳にしたことがあるが、まったくもってその通りだ。どんな偉人だろうが犯罪者だろうが、死んでしまえば同じ骨だけの存在となる。

ところで僕がこうして漂流しているのを知っているのは太陽と星々くらいだ。

 ということは、もしかしたらすでに僕は死んでいるのかもしれない。観測する誰かがいなければ、僕は存命を証明できない。二週間に一度物資を運んでくる業者を除けば、あと半年は僕に関わる者は誰もいないのだ。

 今日が本当に四日目なのか怪しいことは間違いないが、しかし二週間は経過していないはずだ。僕の身体の調子からみてもそれは明らかだ。僕は僕が生きていることを知っているが、ほかの誰もそれを知らない以上、生きていることの証明にはならない。かといって死んでいることにもならない。シュレディンガーの僕。は、アホらしい。

 ほらどうでもいいことを考えている。もうやめよう。僕は顔から手を離しリュックに突っ込んだ。薬はまだまだある。これを使わないバカはいない。さてまたお空の果てまで飛んでいこう。


 生きることには重さが付きまとう。手にも足にも腹回りにも気が付けば枷がついていて身軽でいられなくなる。僕たちがその身一つで空を飛ぶことを許されていないのはそれらの枷によって地面に縛りつけられているからだ。

 それを鬱陶しいと思うことくらい誰にでもあるだろう。珍しいことじゃあない。ではそれを取っ払う方法とは? 簡単だ。社会から文明から離れるだけでいい。つまり今の僕のような状態だ。孤独は人を身軽にさせる。邪魔くさい枷を破壊し、ジャンプひとつで山だって越えられる。宇宙が無重力なのは、そこに誰一人として存在しないからだ。ライト兄弟が空を目指したのはそこになんの枷もないからだ。

 人は一人をやたらと恐れる。誰かと繋がりたがり交わりたがろうとする。自分の理解者を得、指先で突けば倒れてしまいそうなぺらぺらな安心感を手に入れようとする。そんな幻想にすがったところでなにも意味はない。人はそのことに早く気付くべきだ。どれほどの関係性を築き上げたところで他人とは他人だ。そもそも自分を理解してくれる誰かを望もうとするのが傲慢だ。自分自身を完全に把握できているやつなんてどこにもいない。自分さえもわかっていないのにだれかに理解してもらおうなどとは、そんなものたわ言に過ぎない。

 一人であるということを受け入れろ、かつ愛せ、誇れ。

 死ぬときは一人だ。僕はそれを、よく、ようく、わかっている。

 しかし誰よりも身軽はずの僕の身体は重い。薬の使いすぎだ。なんという皮肉なことか。タバコの最後の一本を取り出す。それまでのものをいつ吸っていたか思い出すことはしなかった。火をつけようとしたが、マッチをうまく擦ることができない。指先に力が入らなかった。それでも僕はタバコを吸うことを諦めない。何本もマッチを折ってしまう。それほど乱暴にはしていないのに、折ろうともしていないのに、次々と折れていく。あっけないものだ。役立たずどもはそのまま海にぶん投げる。海は巨大なゴミ箱だ。残り三本になったところで、ようやくその頭に火をつけた。苦労したわりに、タバコの味はしなかった。それでも吸ってやった。火のついた先端が赤く燃えていた。悲しいほどに小さかった。

 死は救いか? 冗談を言え、死は死だ。特別な意味合いを持たせるようとするからややこしいことになる。死は恐怖か? おそらく、イエス。ただし、現時点で僕にその自覚はない。

 タバコを吸うので力を使い果たした。もう動けそうにない。最後に振り絞って、口先に力を込める。プッとフィルターを吹き飛ばした。僕の真上に飛び上がったそれは、海風に乗って流れていった。あっけないものだ。

 そうして僕はいつの間にか意識を失った。


 今は昼か? それとも夜か? 太陽は昇っている? それとも浮かんでいるのは月? 僕は素面か? ぶっ飛んでいるのか? 目は開いている? 閉じている?

 なにもかも曖昧だった。僕にはどうしようもない。どうしようもないことはある。雨を止ますことはできないし、食べてしまったものは元に戻せない。

 手足を動かすことすらできなかった。したがってリュックを取ることも、薬をキメこむこともできなかった。僕の瞳はただ、明るいのか暗いのかわからない空を映すばかりだ。イカダに仰向けに倒れて呼吸をするだけの、モノだ。それを生きているといえるのだろうか。半分死んでいるようなものだ。

 メメント・モリ。「いつか必ず死ぬことを忘れるな」。忘れるわけがない。漂流を始めてからこの方、僕はずっと死を思ってきた。そう、僕はゆるやかに死に向かっている。恐怖はなかった。本当だ、嘘じゃない。この期に及んで自分を取り繕うなんて考えもしない。ただ少しばかりの安心感がある。もしかしたら僕は心のどこかでずっとこうなるのを望んでいたのかもしれない。死は救いではない。死はただの死だ。しかしあるいは、わずかばかり安らぎがあるのかもしれない。

 僕はすっかり重い棒きれになった腕をなんとか持ち上げて、顔面を覆った。親指と小指でそれぞれのこめかみを挟み込むように。

 これが僕の輪郭だ。ほかの誰のものでもない、ただひとり、この世で僕だけの輪郭。皮脂でぬるりとしていた。

 手のひらと指先にちくちくとした感触があった。ひげだ。ああ、すっかりひげが伸びきっている。こんなに伸ばしたことは今までなかった。鏡でも見てどんな状態か確かめたかったが、かなわないことだった。

 そろそろくたばりどきが来たな、と僕は思った。あとは鳥につつかれて骨になるだけだ。風や波でイカダがひっくり返れば、僕の存在はこの世から消え去る。海は巨大なゴミ箱だ。僕という存在さえも飲み込んでくれる。

思い残すことも悔いもない。あったような気もするが思い出せもしない。ならばどうでもいいことだ。

 今が昼なのか夜なのかそれだけ知りたいと思った。夜だったらいいと思った。死んだらどこに行くのかわからないが、いつだか見た星空の、その一部に加わりたい。あの空は美しかった。重力から解放されて、どこまでも昇り、僕は自分の死体を眺め、星々のひとつになるのだ。

 死ぬ前のたわ言だ。少しくらい浸ってもいいだろう。死に向かうロマンチスト、このくらいは許してほしい。

 背中になにか衝撃があった。気のせいだと思った。僕はもうすっかり現実も夢も区別がつかなくなっている。ところがその衝撃は何度も僕の背中に伝わってくる。

 その衝撃を現実だと理解した途端、今まで聞こえなかった音が聞こえるようになった。それがなんの音か思い出せなかった。ただ、聞いたことのある音だった。一定の間隔で、同じ音を繰り返している。そしてその音が鳴ると同時に背中に衝撃が届く。

波だ。波の音だ。これは、波の鳴る音だ。

 僕の意識は正常になっていく。視界に映る光景に色が戻る。僕は目を見開く。そこにあったのは空を覆わんとする星。そして今まで見たこともないほどの大きさの巨大なまるい月だった。冗談じゃなく、目の前にいるように感じた。その星と月が、僕を照らしている。

 四肢に力が宿る。僕はまずうつぶせになり、震える手足で身体を支えながら、なんとか立ち上がろうとする。

 息も絶え絶えに二本の足でイカダに立った。そのまま沈んでいきそうなほど身体が重かった。

 そして僕の目の前には、砂浜があった。

 理解が追いつかなかった。どうして砂浜があるのか。僕は水平線しか見えないような、陸から遠く遠く離れた沖にいたはずなのに。

 思わず足を一歩踏み出したところで身体のバランスを崩し海に落ちた。海水は冷たかった。僕は反射的に慌てて手足を振り回したが、すぐに足が地面を捉えることに気がついた。

「なんで……」

 イカダはいつの間にか流れに運ばれて、ここにたどり着いた。背中に伝わっていたのは、この浜にイカダがぶつかる衝撃だった。

 はるかかなたにまでぶん投げたはずの僕「生きる」が、冗談みたいに帰ってきた。僕は衰弱と寒さで震える身体を抱きしめながら、慎重に一歩ずつ足を進める。

 こんなことがありえるなんて、考えもしなかった。死に損なったのだ、僕は。

 後ろを振り返ると、イカダは浜から離れて行こうとしていた。追いかける力はなかった。月の光を浴びながら、僕とイカダの距離はどんどん開いていく。

 このまま海に飛び込んで手っ取り早く死んでやろうかとも思ったが、この寒さに耐えられそうになかった。

 僕は倒れそうになりながらも海から這い出た。濡れた砂粒が足の裏にくっつく。

 ああ、細かい細かい微小な砂粒たちよ見てくれ。ご覧無様にも僕は生きているんだ。

 森の中から大きな影が飛び出してきた。僕は悲鳴を上げて尻もちをつく。それは鳥だった。名も知らぬ黒い鳥。そいつは僕の前で羽をたたみしゃべりかけてきた。

「無様にも生きているって? 知らないのか? そんなのみんな、おんなじなんだぜ」

 砂浜には僕の足跡がくっきりと残されていた。

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