辺獄のユク

築山きうきう

第一冠 天成

「ああ、冷たい。」


 死骸の山の上で、誰かが嘆いた。

 彼の伸ばす手は刃のように鋭く、そして冷たい。

 どれだけの温い血を浴びようとも、依然として彼の心は熱せない。

 凍り付いた鋼の心を鋳溶かすには、地獄の業火ですらも生温い。

 


 滅却都市ゲヒノム。それは忘れられたモノたちが集う辺獄の都市。巨大な筒状の大穴に詰め込まれた無数の世界の残骸によって形成されたこの都市には、今日も上層世界から大量のガラクタが降り注ぐ。ここでは新しい街並みが古い街並みを多い潰すなんて事はいつもの出来事で、昨日の2階が今日の1階になるような事も日常茶飯事だ。都市の外観は日々絶えず変化し、その度に街の住民は道に迷う。

 「何故、こんな場所に都市があるのだろうか?」と、都市の誰もが一度は考える。この不便な都市に住んでいれば自然とそう思うのも当然だ。言い伝えでは最初に辺獄に落とされた人間がこれから辺獄にやって来る者達の為に街を築き始めたという話もあるが、都市が出来上がってから何百年も経過した今となっては真相は定かではない。


 昨日通った道が分からない。同じ道がどこにあるかも分からない。それが当然の街。こんなに不便な都市でも、それでも人々は平然と暮らしている。その陰には街の地図を作る『地図書き』の存在があった。



 様々な様式の建造物の立ち並ぶ中央通りに、一際出入りの多い建物がある。『地上館』と呼ばれるこの建物は街の地理を書き綴る『地図書き』達が集う集会所だ。入り組んだ路地を進むには小柄なほうが勝手が良いのか、身寄りのない孤児達も多くがここで雇われている。そんなある日、集会所ロビーのど真ん中で地図書きの制服を着た12歳くらいの少年と少女が些細な事でもめ事を起こしていた。


「ユク!今日こそは私のマッピングを手伝ってよね?」


 と、黒い髪の少年に手を差し伸べる赤い髪の少女。しかし少年はぼんやりとした表情で目を逸らし、少女の提案を断る。


「それは出来ない。今回の変動で西区三層の構造も随分変化した。あの辺は俺の担当だから、今は手伝えない。」


「でもユクは一級の地図書きでしょ?一級なら担当くらい自由に変えられるよね?」


「それはそうだけど、やっぱり出来ない。」


「うー…。もう!」


 立ち去る少年の背中を目で追いながらむすっと不満げな表情になる少女。二人はいわゆる幼馴染なのだが、彼女はユクと言う名の少年に特別な思い入れがあった。


「またフられたのか?」


「違います!」


 少年と入れ違うようにしてやってきた茶色い髪の大男が少女に声を掛ける。似たような服を着た彼も地図書きの一人だ。


「分かってる分かってる。…少年とはここへ来る前からの付き合いだったな。ヘル。」


「そうですよ先生!前は分からないことがあれば私に色々聞いてくれたのに…、最近はめっきりなんです…。」


 ヘルと言う名の少女は深いため息をつき、ロビー中央の壊れた噴水の縁に腰を下ろす。それから不満げに足をばたつかせ、少年との出会いの思い出を愚痴るように語り始めた。



 少女と初めて出会った時、ユクは記憶喪失だった。彼は自分が何者なのか、どうしてここに居るのかさえ分からないまま、ただひたすらガラクタの山の隙間から八つの天蓋に覆われた灰色の空をじっと見上げていた。彼は人間らしい姿形をして、人間らしいそれなりの心を持っていたが、それでもどこか人間らしくない異様な冷静さがあった。少女はそれがユクの性格なのだと思い、初めのうちはまったく気にしていなかったが、それでも親しくなるうちにだんだんと違和感を感じるようになった。

 研ぎ澄まされた冷静さと正確性でユクは『地上館』へ来るなりすぐさま一級の地図書きに昇進したが、ヘルは未だ見習いの三級止まり。スタート地点は同じだったのに、その差を思い知る度に彼女はなんだか悔しくなった。



 地図書きの道具を背負い、ユクは変動の起きた西区三層へと足を運んだ。日々変化する地形に翻弄されながらもこの西区大通りのマーケットは毎週必ず開かれる。街の住民達は今日見る景色が明日変わろうとも気にせず今を生きているのだ。

 こんな世界でも人々には倫理があり、誰もが理性に従って生きようとしている。それがどれほど稀有な事なのか、辺獄に住む人々はきっと誰も知り得ない。


「……。」


 ユクは以前の地図と見比べて変化のあった個所を地図に記しながら、追加された路地や消えた路地などを無表情で新しい地図に書き記していく。一見何も考えていないように思える彼だが、彼女の誘いを断ってまでここへやって来たのにはそれなりの理由があった。

 大通りを抜けた先。幾つもの建造物が積み重なったガラクタの上。倒壊した建物のアーチの隙間から上層の景色が見える場所。そう、ここは記憶喪失のユクがヘルと出会った始まりの場所だ。辺りの地形は変わってもこの開けた空間はそれほど変化していない。ガラクタの山の頂に立った彼は、「何故空を見上げていたのか。」と、人間らしく悩みながら、あの時と同じ灰色の空を見上げ始めた。


 滅却都市ゲヒノム。その上空にはレンズの絞りの様に並ぶ八つの天蓋が存在する。かつてゲヒノムでは多くの人々が天蓋の先を目指そうと試みてガラクタを用いた幾つもの塔が建設された。しかし建設の途中で塔が崩壊し、多くの犠牲を払ったことから人々は空を目指すのを諦め、とうとう彼らは辺獄に居座り続ける事を選んだのだ。


「悲しいな。」


 役目が果たされる事の無いまま打ち捨てられた塔の残骸を見上げてユクは呟く。彼らはどうして辺獄へと突き落とされ、ここで千の小石を積み上げるような苦行を強いられたのか。想像の余地は多々あるが、ユクにはまるで関心のない話だった。


「ユク!やーっぱりここに居た!」


 少年を呼ぶヘルの声。少年はどうして君がここに居るのかと尋ねようとしたが、少女は彼が言うよりも先にその理由をべらべらと説明し始める。


「えへへっ!先生に頼んで特別に場所を変えてもらっちゃった!これで昔みたいに一緒にマッピングが出来るね!」


 少年の手を握って嬉しそうに話すヘル。しかし少年は相変わらずの無関心で、あろうことかこんな事をド直球に呟いた。


「嬉しいの?」


「は、はぁ?別に嬉しいとかじゃ無いけど…。ただ、何となく…。ユクが心配だったから来ただけ!」


「俺は心配いらないよ。」


 ヘルの心配をよそに、無表情のユクは答える。二人の噛み合わない会話は初めて出会った時からずっとこんな調子だった。


 変動の報告があった区画に到着したユク達は、以前マッピングした時には存在しなかった新しい建物への入り口を見つけた。おそらく他の建造物に覆い潰されていた部分が前日の変動によって姿を現したのだろう。二人は建物の入り口の地図に書き記してから手元のランプを照らして未知の建物の内部へと入っていく。

 埋まった建物の中にあるものは大抵が古くなっていたり、腐ったりしていて使い物にならないゴミが殆どだ。新しいものが欲しいのであれば天蓋に最も近い第一層を探索すればいいだけの話なので、こんな場所は余程の物好きか地図書き以外は足を踏み入れない。

 建物の造りはゲヒノムに点在する他の構造体と比べてもかなり頑強で、ある種の船や要塞のようにも見えた。


「何これ…?すごい…!」


 建物に入ると早速ヘルが驚いた。外観では分からなかったが、この建物の壁や床は鉄よりも固い未知の素材が使われており、各所には人の動きを検知して点灯する照明までもが備わっていた。彼女はこれが自分たちの使う魔術と同じ原理で機能している事までは理解出来ていたが、どうしてこんな事が出来るのか不思議で堪らなかった。

 その後もヘルは未知の魔術に惹かれながらも、相変わらずの冷静さでマッピングを続けるユクの後を追った。建物の内部には硬く閉ざされた扉がいくつも並んでいたが、どんな道具を使ってもそれらを開けることは出来なかった。


「何かいる。」


 立ち止まり、薄暗い通路の様子を伺うユク。後ろにいたヘルも身を乗り出して通路の先を覗いてみたが、奥に何かが居る気配はない。

「何もいないけど…?」


「なら、気のせいか。」


 またしても無関心な素振りを見せるユク。警戒を解いて一歩足を踏み出すと、突然何の前触れもなく足元の床がガシャンと音を立てて落下し始め、ユクの足元にはあっという間に底の見えない大穴が出来上がってしまった。

 ユクは咄嗟に手を伸ばして穴の淵にある床の一つを掴もうとしたが、タイル状の床は彼の重みでだんだんと傾いてゆき、最後にはこれも他の床と同じようにガシャンと外れてしまった。


「ユク…!?」


落ちていくユクを見たヘルは、咄嗟に身を乗り出して両手を伸ばし、辛うじてユクの手を掴む事に成功した。だが、掴んだ手でいくら引っ張っても彼女一人の力では落ちていくユクの体を支える事すら出来ない。


「……気を抜いていた。ごめん。」


「だから…、だから心配だって言ったんだよ…!!」


 ユクの手を握りながら、ヘルは大声で叫んだ。今まで貯め込んできた気持ちを、精一杯伝える為に。


「ユクはすごいよ…。私よりも頭が良いし、一人で何でもできる。…でも!…もっとみんなを頼ってよ…!」


「ヘル……。」


 ヘルの声を聞き、ユクは俯いたままの顔を上げる。ぼんやりとした表情で声の先を見上げると、そこにはぐしゃぐしゃに泣きじゃくるヘルの姿があった。


「私はね…。ユクが…。いつかどこかへ行っちゃいそうで…。ずっと怖かったんだ…。」


 ヘルのこぼした大粒の涙がユクの頬を伝う。その涙の温かさを感じる度にユクは無関心な自分の浅はかさを後悔した。


「俺はどこへも行かないよ。」


 ユクは言った。いつもと変わらない無関心な言葉を。無表情のまま。せめてこれ以上彼女を悲しませないために。


「ユクーーーーーっ!!!」


 ヘルの声が、大穴に虚しくこだました。



「……。」


 鉄臭い赤色のシミで塗りたくられた大広間。中央には人間であったモノの残骸が山のように積み重なっており、その山の片隅にユクは落ちていた。

 ユクは辺りの様子を伺ってその場から立ち上がろうとしたが、足を動かそうとする度に折れた足が痛み、その場から動く事も儘ならない。


「………。」


 金属の軋むような音を聞いたユクは大広間の奥の扉からこちらへと歩み寄ってくる黒い鎧の騎士を見た。真っ黒な剣を両手に構え、真っ黒な兜から赤色の単眼を光らせるその騎士の姿は、ずいぶん前にヘルから読み聞かされた死神の逸話そのものだった。


 だが、もしもこれが死の間際に見た夢や幻だとしても、それでもユクはここで大人しく殺されるわけにはいかないと思った。上で待つヘルに、泣いていたヘルに。生きている自分の姿を見てほしい。だからまだ、死ぬわけには行かないのだ。


 足は折れたが幸いにも腕はまだ動く。立って逃げるのがもう無理だとしても、このまま這いつくばって進めばあの死骸の山の頂にも手が届く。決心を固めたユクは黒い騎士に背を向け、歯を食いしばって悲鳴を堪えながら足を引きずって懸命に体を動かした。

 死骸に手が届けば、ユクは散らばる骨を掴み上げて黒い騎士に投げつけた。周囲に落ちているものがあればそれが何であろうと手当たり次第に投げつけた。そうして彼が見境なく掘り出していく度に死骸の山には徐々に深い溝が開いてゆき、やがてそこには一人分の屍を葬るに丁度いい墓穴が掘られていた。


「……何で、こんな…。」


 ユクは自ら墓穴を掘る自分の愚かさに失望した。最後まで惨めな抵抗をした挙げ句の結果がこれだ。これ以上はもう何も無い。散らばる骨の残骸を投げつけても、もう何の意味も無いだろう。

 どうすれば良かったのだろうか。あるいはこれが運命なのだろうか。受け入れる事の出来ない自分が愚かなのだろうか。

 ユクは嘆いた。これが運命だと言うのなら神はあまりにも残酷だ。無慈悲だ。冷酷だ。


 …何でもいい。立ち向かう為の力が─希望が欲しい。そう願う少年の手には、いつしかさび付いた剣の柄が握られていた。皮肉にも悪あがきの墓穴を掘り続けたからこそ、彼は手元の剣の存在に気付く事が出来たのだ。


「……俺は。」


 ユクはさび付いた剣の柄を強く握り、腹の底から唸るようにして弱い声を上げた。こんな不条理な殺意に殺されてたまるものか。もう一度ヘルに会うまで死ねるものか。

 ほんの一瞬の攻撃では倒せない。その場しのぎの反撃では届かない。けれど倒さなければ殺される。立ち向かわなければ全てが終わってしまう。


「……俺は、戦う。」


 ユクは剣を持ち上げる勢いで素早く黒い騎士の方へと体の向きを変え、振り下ろされる黒剣をさび付いた剣の刃で強引に受け止めた。二つの剣の刃は激しく火花を散らし、その圧倒的な熱量でさび付いた剣の刀身は徐々に赤く融解してゆく。衝撃でユクの体は大きくのけ反ったが、それでも彼の剣は黒い騎士の剣に食らい付いたきり少しも離れようとはしない。


 ユクは気付いた。この剣は死んでいるわけでも、朽ち果てている訳でもない。

 生まれ変わろうとしているのだ。新たなる主の下で、新しい『天成剣』として。


「……戦える。だから。」

 

 目を覚ませ。と、ユクは剣に囁いた。


 呼び覚ます為の言葉は、既に知っている。

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