着地点

白夏緑自

第1話着地点

 寒い夜だ。

 吐いた息は容赦なく白く濁って、やがて消えていく。

 横に座る女性は面白がって何度も息を吐いてはそれを繰り返している。

「寒いね」

「冬だしね」

「どこかカフェでも入れてたらよかったのだけど」

「しょうがないよ」

 どこも混んでたし、と彼女は息を白くする作業に戻っていく。

 僕たちがこんな寒空の下で時間を潰しているのはそういうわけだ。

 ただ入る場所が無かった。たったそれだけ。

 だったらさっさと電車に乗って帰ればいいのだけど、そうしないのはやっぱり帰るのは違うと、僕も彼女も思っているからだろう。

 少なくとも僕はそう思っている。

 せっかく彼女から「少し駄弁ろ」と誘ってくれたのだ。このまま帰ってしまうのは勿体ない。

僕たちの間にはこのまま帰ってしまうのは惜しいとそういう空気が流れている。

 だから、一緒の夕食を終えたあと時間を潰せる店を探し、だけど見つからなかったのでこうやって寒空の下、公園のベンチで喋っているわけだ。

 仕方なくここへ行き着いたわけだけど話題は尽きない。

 同じ授業の教授の頭髪の後退具合から始まり、お互いが所属しているお互いのサークルやボランティア団体のことまで。ただの悪口や愚痴、自分がそれらに対して思っていること。話して初めて気づくこともある。例えば、目の前の彼女は少し考え事をするとき、瞬きを三回ぐらいする。そうしたちょっとしたことに気づけたのも酒のおかげだろうかこれは。

 いくら場所が無いからって公園のベンチで話し込めたのは、少なくとも酒が身体を暖めてくれていたからだ。酔っぱらっていたら楽しくなるだけじゃなく体温まで上げてくれる。本当に。言えば良いものがあるのにそれだけは口に出ないあたり、僕はまだ酔っていないのかもしれないけど。

 まだ酔っていないと自己判断できるのにはまだ理由がある。

 寒さを感じてきているのだ。最初にベンチに座ってからよりも明らかに。

 時計を見れば、かれこれ一時間はここにいることになる。いい加減終電も考えなければいけない時間だ。終電には女性を帰らせる。それが男としての僕の義務。だからいくら会話が楽しくてもさっさと彼女を帰さなきゃいけないわけだけど、

「コンビニいかない?」

 先手を撃たれた。

 帰ろうよと言えなくなってしまった。そういうタイミングを逃したのだ。

 だけど、まだ大丈夫だ。

 僕が今までで一番遅い時間に見た電光掲示板はもっと後。あと三本以上は見逃せる。

安心と同時に焦りも生まれた。三本の電車が行ってしまう前に決着をつけなきゃいけない。

 コンビニでホット飲料を探し回っていると四角い箱のコンドームがやけに視界に入ってきた。うん、まだ早い。いつかは来るのか。期待してしまうのは……いいだろ、男なんだから。

 気づかれないようにさっさと飲み物を選んでレジへ持って行き、レジ袋は彼女が断って僕がポイントカードで支払った。

 レシートは奪い取られ、

「うわ、なにこのポイント。キモ」

「要らないなら持って帰るけど」

「は?今から飲もうと思って買ったんだけど」

 やっぱりそうなるんだな。

 温かい飲み物を持ってまたあのベンチへ戻った。

 僕がお茶で。彼女はカフェオレだ。

 僕と彼女の間に二本のペットボトルが置かれる。わずかだが、ズボン越しにお茶の温もりが伝わってくる。

「終電大丈夫?」

 やっと訊けた。訊いてしまった。

 彼女はスマホを取りだして時間を確認。

「うん、大丈夫」

 答えが返ってくるまで時間の流れが遅くなった気がした。

 本当に気がしただけだ。瞬き三回ぐらいの時間しか流れていない。その瞬間に彼女は何を考えたのか。帰るか帰らないか、か。

 終電とか門限とか大学生が吐ける言い訳なんていくらでもあるだろうに。律儀だ。

 大体、今日の飯だって誘ったのは僕だ。

 ここまで付き合ってくれるなんて逆に困る。こっちだってそれなりに準備とか心構えなんかの持ってきている物が尽きてしまいそうで、ここは一端退きたい感もある。

 だけど、彼女は退かしてくれない。 

 会話は途切れないし、なんなら時間も確認させてくれない。

 飲み物が空になれば言い出せるきっかけにもなるのだけど、彼女はさっきから一度も口を付けていない。見過ごされているのかと考えてしまうのは期待の表れか。

 なんだろうかこれは。

 僕たちの間にあるのは時間だけなのか。

 僕が彼女に対して抱いている感情は僕だけで。

 今日の飯を誘ったのだって僕からで。

 やっぱり、それだけなのか。

 考えれば考えるほど訳が分からなくなってくる。僕はいったい何に問題を感じているのだ。答えはどこだ。どこに着地したい。

 ぐちゃぐちゃになってきて彼女の顔も見られない。かと言って俯いて彼女の太ももを見てしまうのもがっつきすぎだ。仕方が無いので顔を見ることにした。

 彼女の顔の前に白い綿が落ちてくる。

 雪だ。

 それもその一粒だけじゃない。

 ゆっくりと。だけど確かに。街灯の光を反射しながら何粒もの雪が風と重力に従って僕たちのところまでやってくる。

「雪なんて……。そりゃあこんなに寒いわけだよ」

 彼女は自分のカフェオレを取り、身をこちらにわずかに寄せて、

「こんなに冷たくなってる」

 それを渡してきたので、受け取る。本当だ。かなり冷たくなっている。

 彼女に返すと、彼女はそれを元あった場所──僕と彼女の間──ではなく、彼女の外側に置いた。つまり、僕と彼女の間に今あるのはペットボトル一本だけである。大変嬉しいことに、身体を寄せた距離も戻されていたりはしない。

 僕と彼女にある距離はペットボトル一本分だ。太ももに感じる温度はまだ冷たいけれど。

 僕たちの間にあるのは時間と距離だ。時間は時計やストップウォッチで計れるものではないし、距離は定規やメジャーで定められるものではない。非常に曖昧な僕たちだけの単位が用いられる。

 世界基準で一分が六十秒なら。僕たちの間では一分が瞬き三回分。

 世界基準で一センチが十ミリなら。僕たちの間ではペットボトルの本数が基準値になる。

 だとするなら、僕たちの距離は一単位ほど縮まった。今はこれを答えとしよう。着地点はまだ先だ。まだ、始まってもいなければ終わってもいない。

 僕の感情はたいへん確かなことがわかった。だって、ペットボトル一本分の距離が縮まったことがこんなに嬉しいのだから。

 それを僕だけの独りよがりだとは考えたくない。

 思い返せば、今こうやって喋っているのは彼女が誘ってくれたからだ。そうしてくれなかったらきっと、お店を出た後解散していただろう。

 彼女は僕の気持ちに気づいているのだろうか。わからない。

 彼女の気持ちは果たして僕の望んでいる物なのだろうか。それもわからない。

 確かめてしまえば終わる。終わってしまっては今こうしている時間は二度と訪れない。

 ならば、このままでいいだろう。

 終わらなければ次がある。

「終電やばいしそろそろ」

 立ち上がり、彼女を促す。

 手は差し出さない。まだそこまでの距離じゃない。

「今度は何食べたい?」

 次を誘えるぐらいの距離だ。思い上がりかもしれない。それでも乗ってくれたら次がある。

 彼女の気持ちはわからない。怖くて訊けない。だから、なかなか着地できない。

 情けない話だが彼女に気が付いてほしい。僕の感情に気が付いて着地点まで連れて行ってほしい。

 雪たちは地面に着地したら簡単に溶けてなくなっていく。

 僕たちはどうだろうか。

 着地した先で、溶けてしまうのは僕の恋慕か。

 それとも何も溶けずに続いていくのか。まだわからないがとにかく今は楽しもう。

 ペットボトル一本分の距離を楽しみたい。今はただそれだけだ。

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