第五十三話 ジムの町

 シリズ・バーゼ王は、自らの功績として、各地に派遣した勇者たちの力で魔物を絶滅させたことを誇っていた。


 だが、シリズ政権打倒後にほどなく、魔物たちも復活を遂げた。人と動物を創った天使と対になる悪魔の眷属けんぞくであり、クリサリアに色濃くある魔力を存在の源泉とする怪物たちが、本当の意味で絶滅することなどなかったのだ。


 現クリサリア民主政権にとって、魔物から人々をどう守っていくのかということは、喫緊きっきんの懸案事項であった。


 何故なら、シリズの政策が、民衆の戦う力を根本から奪ってしまったからだ。


 魔物の襲撃から庇護ひごされる代わりに、勇者から抵抗する力を簒奪さんだつされ、牙を失くした家畜も同然の人々が、再び自ら武器を取って魔物と対峙していくのは、非常な困難を極める課題だった。


 そして今も、辺境の町は、魔物の絶え間ない襲撃と包囲に晒されている。勇者コーザと勇者ピリスを隊長とした部隊が各地に派遣されてはいるが、明らかな戦力不足であった。


※※


 荒野のとあるさびれた町・ジムの酒場に、黒の中折帽を被った男が来店した。


 昼間から酒盛りに興じる者たちで半分ほど埋まったテーブル席を抜け、帽子を取り、カウンターに座る。帽子の陰になっていた素顔が露わになり、すっきりとした鼻梁びりょうと、怜悧れいりな輪郭を持った白い肌を認めた数人の女性客と店員が、好奇の眼差しを向ける。


「よくぞこんな辺境まで来れたもんだな。砂鮫サンドシャーク共は、いなかったのかい?」


 店主が注文を取るついでに話しかける。まだ初老といった年齢だろうが、顔じゅうに年輪の如く刻まれた深い皺が、この街で暮らす苦労を思わせる。


「ミルクを二杯。俺と、もうすぐ来る連れの分だ」


 長身を畳むように座った男が、店主の質問には答えず注文だけを済ませる。店主は軽く鼻を鳴らしただけで客の無礼を償却し、奥に引っ込む。


「よぉ、あんた見ねぇ顔だな」


 その背後から、こちらは横に大きな男が酒臭い息を漏らしながら絡んでくる。


「なんて名だ」

「名はない。好きに呼んでくれ」

「なんだ、てめぇ、名無しか」

「そういうことでいい」

「ふん、なら名無しよ、とっとと出て行きな。この町によそ者が飲める酒は一滴もねぇんだ。勇者様がいなくなってからこっち、魔物が増え続けてやがる。この町はとっくに干上がっちまってんだよ」


 名無しは男と目を合わせることなく言う。


「それは、お気の毒だな。だが、ならアンタが魔物を討伐しに行けばいいんじゃあないか。町の男が揃いも揃って酒場にしているのじゃあ、全滅だろう」


 皮肉交じりの正論に、男の表情が憤激に歪む。


「それに、頼んだのは酒じゃなくて、ミルクだ。連れが仕事を終えたら出て行くさ―――ぐっ!」


 名無しの首に、男の太い手がかかった。酔っ払い男の、理不尽な怒りに満ちた目が名無しのやや青みがかった目と正対する。


「偉そうな事言いやがって。なんで俺がそんなことしなきゃあ行けねぇんだ。

 勇者共がいる間は良かったぜ。定期的にいくらかの金と女を差し出していれば、魔物を退治してくれたんだからよ。そいつを腐れ賞金稼ぎ共が殺しちまって、俺たちはまたに逆戻りだ。

 挙句の果てに、どっかのバカがシリズ王まで殺った。余計なことしやがって!」


「余計な事、か」


 名無しが、切れ切れの声を喉から発する。


「はっ。でけぇ図体してる割に、腕っぷしは大したことなさそうだな。いや、そもそも振るう腕が片っぽねぇんだな。女には困らねぇ顔してるが、そんな身体で、世の中渡っていけると思ってんのか」


 それはどこか、衆目の視線を集める名無しの美貌への嫉妬を多分に含んでいるような言いがかりだった。首を締めあげられながら、それでも名無しは決して抵抗しない。代わりに、口を動かす。


「……行ける、さ。もう、そういう時代じゃあ、ない」

「はぁ?」


 男が訊き返した瞬間、両開きの扉がけたたましい音を立てて開き、砂ぼこりとともに、一人の少年を滑り込ませた。


「兄貴、仕事済みましたよ。なに遊んでるんスか」


 まるで、単なる日常の一コマとでもいうように、色めき立った暴行の現場を涼しい顔で歩き出す。その足取りもまた、余裕に満ち溢れており、彼が歩くたび、騒いでいた客たちが静まり返っていく。


「ガキ、テメェ……」


 カウンターの、名無しの首を絞める男の腕に、少年が手をかけた。軽く触れる、といったほうが正しい。力はほとんど入っていない。


「何があったかは存じませんが、ウチのがご迷惑お掛けしました。お詫びと言っては何ですが、こいつで一杯やってください」


 柔和に、しかし、冷然れいぜんとした声音と共に、少年は男の手に、幾枚かの紙幣を握らせる。


「……へっ、子分も腰抜けだな」


 男は名無しから腕を話すと、その手を拳で固め、少年の顔を思い切り殴りつけた。床に倒れた少年を見て、得体の知れない雰囲気を感じていた客たちが再び下卑げびた笑い声を上げて騒ぎ出す。


「ギャハハハ、いいぞ、やっちまえ!」

「おいガキ、俺たちにも奢ってくれよ!」


 周囲に煽られ、気を良くしたらしい男が、店主の持ってきたミルク入りのグラスを一つ持ち、少年の顔に、ばしゃり、とかける。


「こっちは俺の奢りだ。毎日飲んでる母ちゃんのおっぱいより美味いだろ?」


 その光景に、さらに笑いの渦が起こる。


「ほら、とっとと―――ん?」


 男が顔を向けた先に、名無しが立っていた。かなりの力で締めあげたはずが、既に息一つ乱していない。それどころか、その双眸そうぼうに、獣の如き獰猛どうもうな光が宿っている。


「なんだよ、てめぇ、まだやる気か?」


 名無しの隻腕が、ピクリと動いた瞬間、耳をつんざく大声が酒場中に響いた。


「ビリー!!!!!!」


 声の主は、少年だった。短い黒髪からはまだかけられた牛乳が滴っていたが、まったく意に介した様子もなく、ビリーと呼んだ兄貴分をいさめる。


「俺は大丈夫ッス。行きましょう」

「……そうだな、ジュン坊」


 再び静まり返った酒場から、ビリーとジュンヤが出て行く。


「二度と来るんじゃねぇぞ、よそ者が」


 男が最後の悪態をつくと、ややあって、再び酒場が喧騒を取り戻す。すると、今度は、顔なじみが勢い込んでやってきた。


「お、おい! お前ら町の外に群れてた砂鮫が全部死んでやがるぜ!」

「はぁ!? 百匹以上いただろうが! この町からはもう出られねぇはず―――あれ?」


 自分の言葉に疑問を覚えた男が、我知らず呟く。


?」


 その日、魔物に包囲され破滅寸前だったジムの町は、名も知られぬ一人の“少年勇者”によって、静かに救われていた。

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