異世界で失恋したけど、〇〇年経った今では悪くないと思っている。

苗字 名前

○○年目のバレンタイン


 なんで、あんな努力をしたのか、私にもわからない。


 当時、カステーラやビスケット、ボーロは存在するのに、チョコレートどころかカカオさえもまだ日本にはなかったのだから、バレンタインチョコの用意なんて出来ないし。

 そもそも。バレンタインなんて概念が生まれたのは大分先の話だったのだから、お菓子の意味なんて、相手に渡したって通じやない。もはや、無駄にしかならないのだ。


 けど、それでも頑張ったのはきっと、多分それほど、あの人が好きだったからだろう。

 変な奴らに、へんてこな存在にされた私はまだ『女子高生』だった自分を引きずっていたのだ。

 人間から人外へ堕とされて、見知らぬ世界へと――といっても、なんか『妖怪』が存在する天明時代の『日本』だったんだけど――トリップを果たした私はまだ『15歳』だった。幼い。親元から引き離され、『裏』の世界を知るにはまだ幼かった。だから、『あの人』に心酔をしていた部分もあるのだろう。

 ずったずったのぐっちゃぐちゃにされて醜くなった私を、最初に肯定してくれたのは『あの人』だった。

 あんなちゃらんぽらんだったけど、でも、なんか光みたいにキラキラして見えたんだよね。だから、好きになってしまった――それこそ、時代錯誤なバレンタインの用意をする程には。


 直接想いを伝える勇気なんて無かったから、誰も知らないバレンタインデーをきっかけにと、きっと、私は頑張ったのだろう。

 だから、チョコレートは作れずとも菓子を作れれば良いと、馬鹿みたいに奔走して、彼方此方に頭を下げて、協力してもらって、長い時間と手間をかけて、そうやって――『あの人』にとびきりの、美味しいお菓子を作った。


「ああ、美味い」


 嬉しかった。見た目の左程よくない『それ』を、なんの戸惑いもなく口にしてくれた貴方が。「美味い」なんて、そんな何て事のない言葉が最大級の褒め言葉に聞こえた。


 そして——そう言った口で、貴方はその夜、別の女と口づけを交わし、情を交わした。


 いや、分かっている。

 色狂いの、女好きのあなたに、期待した私が馬鹿だったんだ。




♢  ♢


 ……と、まあ昔の苦い記憶を思い出してしまったのは目の前の、傘の『妖怪』こと――からかさお化けのせいだろう。

 とある『骨董屋』の隅っこで、私はうんざりとしながら原因の『傘』へと視線を寄越した。


「――というわけでして、バレンタインにはどのようなチョコを玉子さんにプレゼントすれば良いのか、万葉かずは殿たちにはご教授を願いたく……」

「いや、知るか」


 思わず冷たく返した私は、きっと悪くないと思う。

 学校帰りにコンビニに寄って何かお菓子を買おうと思っていた私を、無理やりこの『骨董屋』へと連行したこいつが悪い。

 一緒に連行された後輩の片瀬桐人も似たような気持ちを抱いていたのか、「うんうん」と、ソファにくつろぐ『傘』の横で頷いていた。

 なんだか疲れてしまって、腹を満たすように座卓の上の和菓子を摘まんで、『傘』たちの向かい側に設置されたソファへと、私も深く腰を沈めた。


 ――どうやら、この『傘』は好きな人のためにチョコを用意したいのだが、何を作れば良いのか分からず、何故か我々に相談してきたらしい。


 ……私、そこまでこの『傘』と親しくなった覚えないんだけど。

一緒に連行された片瀬くんは、まあ、一応後輩として親しく(?)してるが、『傘』は片瀬くんの友人であっても、私にとっては赤の他人、もしくは『トラブルメーカー』でしか無い。


 ……あとは、片瀬くんに任せて帰ろうかな。大体●●ピー歳になって、何が楽しくてもう一回『女子高生』を繰り返して、こんな『バレンタイン』の相談に乗らなくてはならないのだ。

 なんだか全てが面倒に思えて、ソファから腰を上げた。


「……悪いけど、私、」


 帰る――そう言おうとした途端、これまた面倒な相手が店の奥から顔を出してきた。


「――そういえば昔、一生懸命つくった菓子を渡して、その夜、別の女子おなごに相手を攫われてしまった幼子がいたな」


 《オザキ》だ――。骨董屋の店主らしく、着物なんて着ている。

 相変わらず異性を誑し込むために作られたかのような、甘く、精巧な顔に微笑を飾りながら、こちらへと寄ってきた。いや、寄るな。


「懲りたのだよな?」


 そういえば、『あの現場』を古い知人であるこいつには見られていたのだと、苦い想いが込みあげてきた。

 胡散臭い笑顔を見せる目の前の《狐》へ、心なしか冷たい視線を送りながら、こちらも莞爾として笑ってやった。


尾崎おざきさん、ちょっと黙っててくれるかしら?」

「ん? ああ、すまない。随分と楽しそうな話をしてたもので、つい、な」


 どこからどう見ても、軽い悪戯心に踊らされたように見えるのは、きっと私の気のせいではないだろう。とりあえず、ここは逃げようと足元の鞄へと手を伸ばす。

 しかし、笑顔を携えたまま立ち去ろうとすれば、一番厄介な『傘』から野次が飛んできた。


「――え、もしかして万葉かずは殿にも、甘いバレンタインの経験が!?」

「……私にも若い時があったんだ。別にあっても良いでしょう」

「ぜ、ぜひ、詳しいお話を――!!」

「お前、今の話を聞いて、よく深く突っ込もうとできるな」

「……からかさ。お前、もう其処までにしとけ」


 思わず『傘』を胡乱な目で見れば、疲れたように、『傘』の隣に座る片瀬くんが奴を止める。

 こちらにはちゃんとデリカシー、というよりは常識があるようだ。どことなく彼の態度がよそよそしく感じられるのは、恐らく『話』を聞いてしまった後ろめたさがあるからだろう。

 話題を転換するように、片瀬くんが『傘』の今回の相談内容に触れた。


「――てか、からかさ。お前、逆チョコ作るにしたって、相手の『玉子たまこ』さんがチョコ平気か、ちゃんと調べたのか?」

「はい。それは、もう万全です! ……ただ、私めのような者から手作りのチョコをプレゼントされて、玉子さんに嫌がられないかと、」


 話の内容を聞いて、少し驚いた。この『傘』にも、まさかそんな事を思う殊勝な心があったとは。


「——いいんじゃない?」


 思ったことを口にすれば『傘』が驚いたような、縋るような眼を此方へと向けてきた。


「本来バレンタインデーは生別に関係なく、好きな異性にバラやお菓子をあげるイベントなんだし」


 我ながら珍しいことに、気がつけば『傘』を応援するような言葉を紡いでいた。

 視界の隅で、片瀬くんも驚いたようにこちらを見ている。


「むしろヨーロッパは男性から、バラの花を贈る方が多いみたいよ?」


 そう締めくくれば、横からなんとも楽しそうな声が飛んできた。――尾崎だ。


「君は欲しいのかい?」

「さぁ?」


 面白いものを見たとでもいうかのような、煌めいた黄金色の瞳をこちらに向けてくる。その視線がなんとも鬱陶しくて一瞬眉を顰めるが、ふと自分が誰かに『想い』を貰えた時のことを考えて、ポロリと零した。


「——でも、そうね。もらえたら、嬉しいわね」


 愛するより、愛される方が、きっと幸せなのかもしれない。

 まあ……そんな色恋沙汰から遠ざかってしまった私には関係のない話なのだが。





◆  ◆

 

 帰り道。やっと『傘』から解放された万葉は片瀬かたせ桐人きりひとと帰路を共にしていた。

 あのやかましい『傘』が居ない道中は静かなもので、骨董屋で精神を大分ガリガリと削られていた万葉にとっては有難いことだった。

 しかし、ふとある少女の姿が脳裏を過って、万葉は隣の少年へと言葉を投げかけた。


「今年も、チョコレートを貰えると良いわね」

 

 何気なくそう言えば、帰ってきたのは少年の苦笑だった。


「……いやぁ、どうだろう。案外、阿魂あごんのこともあって、貰えない気が」

「ああ、いつも傍にいるものね」

「はい」


 『阿魂』という名前が出てきて、万葉も思わず失笑した。

 確かに、あの《鬼》が居ると、貰えそうなチョコも妨害されて貰えないだろう。

 まったく。あのも好きな女の子に付きまとうとか、一体、良い年した男が何をやっているのか。


 隣の少年がなんだか可哀そうになってきた万葉はふとあることを思いだして、口を開いた。


「――そういや、小学生の頃からだっけ」

「え?」

「彼女が好きなの」

「——っえ˝」

「好きだったのでしょう? 彼女のことが」

「なんで、それを……」

「いや、バレバレでしょう」


 まさか、誰にも気づかれていないとでも思っていたのだろうか。

 呆れたような視線を万葉が投げかければ、桐人も薄々と知人たちにも恋心を周知されていたことに気づいていたのか、気まずそうに視線を泳がせた。


 万葉がいう『彼女』とは、片瀬桐人の幼馴染である――『沢良宜さわらぎ花耶かや』を差している。

 『神の欠片』と呼ばれ、妖怪たちに常に狙われている特別な存在――それが彼女だ。

 桐人はもともと陰陽とは縁も所縁もない普通の人間ではあったのだが、幼馴染ということもあり、幼い頃は沢良宜花耶を群がる子妖怪たちから守っていたらしい。『傘』はその縁で出来た知人だ。

 だけど沢良宜が成長するにつれて、彼女を狙う妖怪も自然と危険なものへと代わり、高校に上がる頃には、桐人の力だけでは彼女を守れなくなっていた。そんな時だった――まるで、タイミングを計ったかのようにあの《鬼》が現れたのは。

 

「まあ、俺はもう大分前に、振られてるんで」

「……ごめんなさい。失言だったわ」


 万葉の知る限り、桐人と沢良宜は良好な関係を築いていたように見えたので、何も考えずにぽろりと口に出してしまったのだが、後から失言だったと謝った。

 しまった、あの『痛い思い出』を思い出してしまったからか、思慮が足りていなかった。

 まさか、既に振られていたとは――。


 己の失言を悔やむ万葉だったが、実際にはそこまで桐人は気にしていなかった。

 万葉は知らないが、桐人が沢良宜花耶に振られたのはもう四年も前のことだ。

 中学一年生の夏、阿魂と出会う前から、桐人は既に失恋していた。


 しばしの沈黙を置いて、今度は桐人が口を開いた。


「……先輩」

「なに?」

「……絶対にこっちに振り向いてくれない人を振り向かせる魔法って、ないですかね?」

「……」


 振られていたといっても、まだ失恋を引きずっているのか、そんな質問を万葉は桐人にされた。

 一瞬、どう答えれば良いのか分からず、思わず沈黙する。

 それでも最近の桐人と沢良宜の様子を思いだして、万葉はゆっくりと言葉を紡いだ。


「こっちを意識させる方法ならあるわよ」

「え、」

「知りたい?」


 にっと、ちょっと悪戯っ子みたいに笑って桐人を横目に見れば、返ってきたのはどこか期待するような瞳だった。

 ごくりと、桐人が喉を鳴らす。


「――ボディタッチ」

「……は?」


 要は、『男』を意識させれば良いというのが万葉のアドバイスだった。

 見たところ、沢良宜は桐人を嫌悪しているような気配はなかったし、寧ろ彼を好意的に見ている。ただ、『良い人』止まりの気がまだしなくもないので、其処から進展するには、良くも悪くも刺激を与えた方が良いだろう。


「……というと、手つないだりとか?」

「それでも良いけど、君ぐらい近しい人なら……というか、君の場合」


 沢良宜花耶の意識を変える方法――ちょっと意地悪な気持ちも込めて、万葉は提案してみた。


「脱いだら?」

「——は?」


 あまりにも極端な発言に、桐人が素っ頓狂な声を上げる。だが、万葉は構わず続けた。


「ギャップ萌えよ。ギャップ萌え」

「いやいやいや。それ、ただの露出狂っすよね? 強制猥褻罪で、捕まりますよね!?」

「えー……」


 桐人の必死の形相に、「ああ、まあ、潔癖な彼女なら確かにそうなりかねない」と、ふと思う。だが、そう思ったのは一瞬で、万葉は直ぐに理不尽な思考に切り替えて「大袈裟だなぁ」と、桐人の抵抗を蹴飛ばした。


「お互いの家を行き来しあう幼馴染なんだから、ばったり着替えに遭遇、とかそんなシチュエーションを作って、」

「いやいやいやいやいや。捕まるって。てか、その前に俺、殺されるって――!!」

「大丈夫。君、いい身体してるわよ」


 一見、平凡そうな顔立ちではあるが、その顔の下が結構鍛えられていることを万葉は知っている。

 ここ最近、度重なるトラブルや、事件のような揉め事の中で、桐人の身体は日々逞しくなりつつあった。

 初めて会った時よりも太くなった首に、綺麗な鎖骨。鍛えられたしなやかな身体。色白の綺麗な肌に映えるように残っている数々の過去の傷跡は、一見やわらかい空気を持った彼に、ミステリアスな雰囲気を与えていた。

 穏やかな顔の下に隠れる、危険な男の香りからだ――まさに、ギャップ萌えだ。

 沢良宜の中の桐人のイメージは、未だ「どこか優柔不断で気弱な幼馴染」止まりなところがある。

 最近、勇ましくなりつつはあるが、以前の桐人にはどこか気弱そうで、貧弱なイメージが纏わりついていたからだ。

 だがあの肉体美を晒せば、恐らく桐人に対する意識を変える大きな武器になるだろう。

 

 ちょろっと「自分が一番知っているはずなのに、知らない彼」の部分を見せれば、それだけで沢良宜は桐人を一気に意識するようになるはずだ。

 ——うん。ちょっと、想像してみたが。


「イケる」

「イケねぇよ!!」


 案外、的外れではないかもしれない万葉の案は……桐人の盛大な怒鳴り声によって、却下された。




◆  ◆


 翌日、放課後。とある商店街通り。


『――セール!! 義理に如何が? 珍味チョコ』


 「今夜は夕飯を作ろう」と一人暮らしのマンションからやってきていた万葉は、店頭に置かれたチョコレートの山の前で、ぼーっとしていた。


(……ラムネ味)


 なるほど、これは確かに珍味だ。だが、嫌いじゃない。

 ラムネの粒が混ざっているのではなく、チョコレート自体がラムネ色になっているのを見て、万葉は僅かに瞳を輝かせていた。

 大の炭酸、ラムネ好きである。年の割には、随分と子供っぽい好みを持っていた。


 お酒と一緒に摘まもうと、ぽいぽいと気になるチョコレートを放り込みながら、万葉はイチゴ味のチョコレートを見つけた。

 ――桐人の好きな味だ。


「100円……」


5センチサイズの箱を手に、ふと思案する。 


(……偶には、こういうのをやっても良いかな)


 長年、このようなイベントに関わっていなかったが、偶にはこういうのも良いのかもしれない。ついでに世話になっている妖怪たちにも何個か見繕ってやるかと、5、6箱くらいのチョコをかごへと放り込んだ。

 若い子たちと一緒に騒ぐだけで、なんだか若い気分になれそうだし。うん、良いかもしれない。


(慰め代わりに、なるかな)


 例の《鬼》に今年は邪魔されそうな少年を思って、もしもの時のために、珍しく万葉はチョコを購入した。

 

 

◆  ◆


 そして、翌日。学校にて。


 午前の授業が終わり、昼休みに入った校舎内はどこもチョコ騒ぎで満たされていた。

 万葉の居る三年の校舎は一、二年と比べると大分静かではあったが、それでもどこか浮きだった雰囲気があった。

 バレンタインとはこれほど盛り上がる行事だったかと、万葉が首を傾げるくらいだ。

 

 とりあえず何処か静かな所で昼食を済ませたいと、屋上へ向かう。

 すると、見慣れた影を見つけた。万葉が居る三年の校舎の向かい側――二年の校舎の窓越しに、黒いぼさぼさ頭が視界に映った。――桐人だ。


(あら。外以外で見つけるなんて、めずらし)


 普段、《妖怪絡みの事件》に巻き込まれがちな桐人と万葉が顔を合わせるのは大抵、外だった。

 久々に校舎内で見つけた姿に万葉は僅かに目を瞬いて、目を細めた。


 隣に立つ『彼女』――沢良宜花耶を見つけたからだ。


 無邪気に桐人に笑いかける少女は、相変わらず人目を惹く容姿をしていた。可憐な面差しをしているが、彼女の長い黒髪を結ぶ赤紐が、凛とした印象を足して彼女を高値の花に見せている。

 純粋無垢、かつ、強気な印象がある沢良宜から、万葉は横の桐人へと視線を戻した。

 見れば、少年の腕には綺麗な赤い箱が、大事そうに抱かれていた。

 箱を見ては、照れたように俯く顔を見て、万葉はふっと溜息を吐いた。


「……余計な心配だったか」

 

 沢良宜が立ち去った後、桐人の背後から何やらクラスメイトたちが顔を出してきた。からかう友人たちからチョコレートを庇うように必死に抱きしめ、怒鳴る桐人を傍目に、万葉は静かに屋上へと再び向かいだした。

 

 先ほどまで目にしていた少年は、真っ赤な顔をして、むず痒そうな表情をしていた。照れもあったのだろうが、そこに間違いなくあったのは喜びだろう。


「……」


 馬鹿馬鹿しい。

 よかったね、と桐人に思うと同時に、万葉はなんとも形容しがたい感情を覚えた。

 自分が用意などしなくとも、毎年必ずちゃんとチョコレートを用意してくれる子が、桐人には居たのだ。


(そりゃあ、幼馴染だもんな)


 いくら、あの《鬼》がうるさいからと言って、心のしっかりとした彼女が渡さないわけないのだ。

 それに、よくよく考えてみれば、あの少年にチョコレートを渡す存在は万葉や沢良宜以外にも、沢山居るのだ。久々のバレンタイン気分に浮かれて、そのことをすっかり失念してしまっていた。


 片瀬桐人は意外と顔が広い。そして、モテる(――妖怪に、だが)。

 優柔不断でお人好しな性格によって、彼の交友関係は異常なほどに広いものになっているのだ。義理でもチョコレートをくれる人は沢山いる。

 だというのに、なにを勝手に決めつけて、張り切っていたのだろう、自分は。


(……やめとこ)


 今更、思い出した桐人の広い交友関係を考えて、万葉はチョコをあげるのをやめた。

 実際に見なくとも、意外と沢山もらってる桐人の姿が容易に想像できたのだ。『傘』然り、本当に本当に、数え上げれば切りがないほどに沢山いた。

 万葉がチョコレートを渡したところで、他のものを食べきらなくてはならない桐人にとっては、苦痛にしかならないだろう。

 馬鹿みたいに律儀な性格をした奴のことだ。胸やけを起こしたり、胃を悪くしても、必ず食べきろうとするに決まっている。


 無理をさせるわけにはいかない。と、万葉は制服のポケットにしまっていたラムネ味のチョコを一つ、摘まんだ。


 なんだか、甘いような苦いような、そんな微妙な味がした。




◆  ◆


 午後。一、二年生と違って、もうすぐ卒業となる三年には殆ど授業がなく、万葉は図書館で読書に勤しんでいた。

 気がつけば壁時計の針がいつのまにか三時を指しており、外の廊下が騒がしくなっていた。

 もうじき、この図書館にも人が来るかもしれない。今日の図書当番である万葉の仕事が、始まる時間だ。

 そう思って万葉は本をカウンターに置き、体を伸ばした。長い間同じ姿勢を取っていた背中や首回りがパキリと鳴る。随分と凝っていたようだ。

 

「――あの、すみません。本を返したいのですが」


 なんだか、聞き覚えのあるソプラノボイスが万葉の鼓膜を揺らした。

 見れば、昼休みに二年の話題の中心となっていた沢良宜花耶が、そこに本を抱えて立っていた。


「はい。受けたわりました。では、こちらのカードにもう一度サインをお願いします」

 

 白いカウンターの上へと図書カードを差し出しながら、受け取った本を壁際のトレイへとしまった。


「ありがとうございます……」


 正直に言うと、万葉と沢良宜花耶の仲は良くない。というよりは、語るほどの仲がない。

 万葉は沢良宜花耶を嫌いでもなければ、好きでもなかった。ただ、「関わりたくない」とは常日頃から思っている。

 対して、沢良宜花耶も……万葉に対してさほど好感を抱いていないようだった。

 

(これで、よし)


 義務的な言葉を交わせばこれでもう終わりだろう。

 本とカードを片付けた万葉はそのままカウンターに腰かけて、次の客人を待とうとした。


「……あの、」


 が、沢良宜がそうはさせてくれなかった。

 まさかの向こうからのコンタクトに、万葉は一瞬の間を置いて、相手の様子を伺った。


 カウンターを挟んで、沢良宜花耶がおどおどとしながら万葉に問いかける。


「佐々木さんは、チョコレート。誰にもあげないんですか?」

「——そんな相手、私にいると思う?」


 咄嗟に返した答えがどこか突き放すような冷たいものであったことは、仕方がないだろう。

 万葉は、少しだけ、ほんの少しだけやさぐれていたのだ。


「そ、そうですか」

「でも、あげたことはあるわよ」

「――え?」


 小さな声で落とされた呟きを、沢良宜は拾えなかったのか、万葉を見た。


「……そういう貴方は、あの《赤鬼》さんにチョコレートをあげられたのかしら?」

「え、あ、いや……あの「変態」には、ちょっと、まだあげてないです」

「そう」


 ――あの人を、「変態」呼ばわりか。


 かの《鬼》――『酒呑童子』と恐れられる阿魂を、まさかその様な呼び方をするとは、なんとも見上げた根性だ。

 普段から彼に守ってもらっているくせに、その扱い方はないのではないだろうか。……いや、あのちゃらんぽらんも悪いのか。確かに、あの人の行動には目に余るものがある。

 それに沢良宜も最近、自分で自分の身を守れるようになっているようだし、「守ってくれているから」と言って、なんでもかんでも彼のことを真面目に受け止めるのは可笑しいのかもしれない。


(あ、駄目だ。なんか、一昨日に続けてダメージが……)


 湧き上がる痛みに、万葉は思わず胸を押さえそうになった。

 心の奥底に閉まっていた『記憶の箱』が再び開きそうになっていた。


(ほんとになんで私、あんな人を好きになったのか……)


 ――あんな、女子の想いを無意識に土足で踏みにじって、置いていった男を。


 万葉が昔、バレンタインのプレゼントをあげた相手は――沢良宜花耶を守護する《鬼》――『阿魂』だった。

 万葉と出会った当時、彼はまだ沢良宜とは出会っておらず、とんでもない色狂いの酒好きのダメ男だったのだが、万葉の心を救ってくれた人物でもあった。

 人間ではなくなってしまった自身を疎む万葉を、初めて「好ましい」と言ってくれた男。その男は人ではなく、決して一人の女には留まらないクズではあったが、何故か魅力で溢れていた。万葉の目が節穴だったのかというと、そうでもなく、『酒呑童子』と名高い大悪党――阿魂は、色街である『裏吉原』でも評判の色男だった。

 ……いや、色街で評判ということは結局は「クズ」だ。

 だけど、沢良宜花耶――の前世になる美姫に、数百年前に出会ってからは男は確かに変わった。


(……ちゃらんぽらんだけど、でも、確かに少し変わったのよね)


 それまでは、万葉の運針の『想い』を受け取っておいて他の女と寝る男だったが、沢良宜花耶(前世)に出会ってからは、女を抱かなくなった。――あの色狂いが、だ。


(その時にお菓子、プレゼントしてたら何か変わってたのか……いや、そもそもバレンタインの意味通じないし、あの鬼にそれは関係ないか……)


 どの道、菓子は食ってただろう。あれは、そういう男だ。

 万葉はふと吐きたくなった溜息をぐっと堪えて、目の前の沢良宜花耶へと視線を戻した。見れば、急に黙った万葉を不思議に思ったのか、難しい顔をしていた。


 『――でも、あげたことはあるよ』


 心の中で、万葉は先ほどの言葉をもう一度反復した。


(そう、あげたことはあった。貴方が「変態」呼ばわりしている、あの《鬼》に)


 ――すぐにその想いは、最悪な形で踏みにじられたが。

 

 脳裏に、過去の残像が蘇った。

 そういや、『美味い』とは言ってくれたけど……沢良宜に見せるような、あのような阿魂の笑顔は見たことがなかったな。

 ふと、自嘲しそうになった。

 あの時も、あれからも、阿魂に関わらず、長い年月の中で度重なる不幸や他者による裏切りによって、万葉はいつしか誰かに期待することをやめていた。

 そう。だから、


「——誰かに『気持ち』を差し出すのはとうの前にやめた」


 気がつけば、そんな言葉が口から零れ落ちていた。


「――え?」


 沢良宜花耶が怪しむように、こちらを凝視する。

 その視線を振り払うように、万葉は別の話題を挟んだ。


「他の人には、もうあげたの?」

「あ……え、えと」

「……まあ。とりあえず、頑張って。お疲れ様」


 その言葉を最後に、二人は会話を打ち切った。



◆  ◆


「――ああ、もう嫌だ」


 沢良宜花耶が立ち去ってからどのくらいの時間が経ったのか、万葉は数えてもいない。先ほどの自分のなんとも哀愁まみれた発言に嫌悪して、誰もいないのを良いことにカウンターに突っ伏していたのだ。

 傍から見れば、図書当番が仕事をさぼって居眠りしているように見えることだろう。

 そんな万葉に、おそるおそると声をかける影が居た。


「――佐々木先輩」


 聞きなれた声に、ふと意識が浮上し万葉は顔を上げる。

 カウンターの前に立っていたのは、桐人だった。


「何か本を借りに来たの?」

「あ、いや……そうではなくて」


 いつにも増して余所余所しい態度に万葉は首を傾げた。


「なに。また、何かあったの?」


 再びの《妖怪トラブル》かと、万葉はげんなりと顔を歪めたが、どうやらそうでもないらしい。

 桐人が慌てたように赤い箱を鞄から取り出していた。


「こ、これ……本当は昼休みに持っていこうとしたんですけど」

「……ああ、そういや今日もらってたものね」


 無事、万葉の策が功を成したことでも報告しに来たのかと、納得したように頷いた、時だった。


「――かったせどのぉぉぉぉおおおおお!!」


 桐人の背後から、図書館の窓を潜って侵入したのか、『傘』が突撃をかましてきた。


「――ちょっ!!」

「――あ、」


 べしゃり。『傘』が飛びついた勢いで桐人は広いカウンターの上へと倒れこみ、べしゃりと何かが潰れる音がした。

 音の原因は桐人とカウンターに挟まれた『赤い箱』――見れば、無残に潰れて、中身のチョコレートケーキが零れ出ていた。


「……あーあーあー」

「あっ、あー!!?」


 なんとも悲惨な光景に、万葉は同情するように声を漏らし、桐人は悲鳴を上げた。

 そんな二人に気づかず、『傘』はどうやら愛しの『玉子』さんに振られたようで、なにやら泣きわめいていた。

 

「からかさっ!! おまっ、ふざけっ……あー、もう!!」


 言葉が出ないらしい。嘆くように桐人が頭を抱えた。

 それは、そうだ。大好きな幼馴染から貰ったケーキが潰れてしまったのだから。

 からかさも、桐人の嘆きにようやく気がついたのか、潰れた箱へと目を向けると、こちらも真っ青な顔をして悲鳴を上げた。


「どうされっ……あ、あー!! 片瀬殿のケーキがぁぁぁ!?」

「――いや、あんたがやったんだけどね」


 桐人と一緒にオロオロとする『傘』に、万葉は冷たい視線を向けた。次いで、一つ溜息を吐く。

 可哀そうだとは思うが、いつまでも嘆いていたってしょうがないだろう。なってしまったものは、なってしまったのだ。ここはケーキを箱へ戻して、持って帰って食べればいい。潰れたって何したって、食べればみんな同じだ。

 そこまで、悲壮な顔をすることはないだろう。


 そう言って、万葉はカウンター横からティッシュを二、三枚とって、ケーキを救い上げようとした。が、その前に桐人も正気に戻ったのか、「そんなことは先輩にさせられない」と、急いで自分の手でケーキを掬い上げる。

 いや、素手……とは、思ったが万葉は敢えて気にせず、床に落ちたカードに気がついて、それを拾い上げた。

 そして、一瞬、目を疑う。


 ――『佐々木先輩へ』


 箱から飛び出たのであろう――チョコレートまみれのカードに、見覚えのある名前が綴られていた。

 『佐々木』は、万葉の苗字であり、いつも桐人が使っていた万葉の呼称だ。


「……これ」


 ぽつりと、零れた万葉の呟きに反応した桐人が、彼女の手に握られたカードを見て慌てたように口を開こうとした。


「え、あ――! いや、えと、いや、これは、その、違くてっ……いや、違わないんすけど、」


 少年の口から、言葉がうまく出てこない。それでも、一生懸命にそのカードと目の前のチョコレートの意味を伝えようとした。


「か、からかさが、バレンタイン用のチョコレートを作るからって、無理やり手伝わされて、それで、なんか、気がついたら、俺も一緒に作る流れになってて……」


 段々と落ち着いてきたのか、やっと言葉がまともなものになった。


「その……先輩、甘いもの好きだし。いつもお世話になってるし」


 照れたのか、最後の言葉は尻すぼみになり、少年の耳は真っ赤になっていた。

 赤くなった顔を誤魔化すように逸らしながら、桐人は続けた。


「と、とりあえず、このケーキは持って帰ります。多めに作って、まだ残ってるのが家にあるんで明日、また持ってきます」


 ふっと、息を吐いて、緊張したように次の言葉を、少年は懸命に紡ぐ。


「だから……、その」


 ――受けとってもらえると、嬉しいです。

 視線は決して合わないけれど、なんだか彼自身の切実な気持ちが伝わってきた気がして、万葉は小さく笑った。

 なんだか、嬉しかったのだ。

 久々に湧き上がってきた暖かな感情に心を委ね、そうして彼が用意してくれたというケーキへと視線を移した。 


「これは?」

「え?」

「これは、どうするの?」

「え、えっと……これは、中身でちゃったし、ぐちゃぐちゃになってるんで」

「――もったいなくない?」


 万葉は素直にそう思った。

 じっと、桐人の手に乗るぐちゃぐちゃのチョコレートケーキを見る。

 クリームまみれの手に乗るスポンジに、ゴミがついている様子はない。

 落として崩れてしまったといっても、落としたのは床の上ではなく、机の上なら、まだキレイだろう。


 ——それに、


 クリームまみれになって、汚れてしまったカードを万葉は見た。

 ぶきっちょな字で、けれど丁寧に書こうとしてくれたことが伝わってくる、自分の『名前』。

 手作りのケーキ。絆創膏だらけの手。それらが、過去に自分が作ったあの『お菓子』と重なった気がした。

 あのお菓子は、こんな風に落として台無しにされたわけではないが、それでも、一生懸命に作ってくれたことを明らかに証明してくれる桐人の指は、《あの日のボロボロになった自分》を思い出させた。

 板チョコを刻むときに、間違えて指を切ったのだろう。少年の指先に張られた白い絆創膏が、痛々しくも、いじらしい。


 ――これが、いい。


 ぐちゃぐちゃになっても、汚くっても、彼が一生懸命、丹精込めて、作ってくれたこれが良い。

 多めに作って残った『ついで』ではなく、私のために作ったこれが欲しい。


 らしくもなく、万葉は素直にそう思った。


「先輩?」


 じっと、ボロボロの手に乗るケーキを凝視する万葉を怪しんだ桐人が、呼びかける。

 その声を無視して――意外と太い少年の手首を掴んだ万葉は、気がつけばチョコレートまみれの手に、噛りついていた。


「——っせ、!?」


 先輩、と呼ぼうとした相手の声が不自然に途切れる。驚きで声が出ないようだった。

 口の中に含んだケーキは、形は崩れていても味は変わらず、案外美味しかった。

 一口で食べきれなかったケーキを、もう一口、もう一口と食す。

 それを黙って見ていた桐人は、我に返ったのか、慌ててぐちゃぐちゃのケーキを食べる唇を止めようと、制止の声を上げた。


「先輩!! もう良いです、それ落としたんですよ!? うれしいけど、腹壊しますよ!?」


 ――そんなんで腹を壊すわけないだろう。大体、自分の身体はそんな軟ではない。


 万葉は構わずに、ケーキを完食しようとした。確かに桐人の手から直接食べるのはあれだが、ケーキは完全にボロボロに崩れてしまっているし、桐人の手から掬ってちみちみ食べようにも、その前に「ダメ」と言われて遠ざけられてしまうだろう。

 ならば、こうするしかない。


「せっ、ちょっっま、」

 

 ちろりと、少年の手のひらに噛りついたまま、上目遣いで相手の様子を伺えば、目元を赤らめながら恥ずかしそうに身を捩る姿が見えた。

 気のせいか、少年の息は乱れている。

 零れ出る息を耐えようと、桐人は下唇を強く噛みしめた。


「――……っっ」


 そんな、ちょっと恥ずかしそうにしている少年を見て、不意に、万葉の中で悪戯心が沸いた。

 

「——ちょっ、せんぱっっ!?」


 なにやら咎めるような桐人の声が聞こえたが、構わず嗜虐心に身を任せた。

 桐人の手のひらにべったりと着いたチョコクリームを舐めとるように、赤い舌を尖らせ、つ、と手首から掌の中心を沿って、指の根元まで伝う。

 熱い吐息が、桐人の唇から零れるのが万葉には分かった。


「はっ……、ぁっ」


 一通り中心が綺麗になったら、次は外側へと移り、時折弄ぶように、悪戯でごつごつとした男の手のやわらかい部分に歯を立てた。

 丁寧に丁寧に、色の濃いクリームを綺麗に口に含んでゆく。

 ぴくりぴくりと反応する手から、目線を上げて、何かを耐えるように顔を顰める少年の表情を楽しむことも忘れない。

 逃げようと桐人が手を引くことを何度も試みるが、それを先読みした万葉は、どうやら一番感じるらしい場所を咎めるように噛むと、桐人の手首を更に強く引きよせた。

 ふっ、と下唇を噛んだ少年の口から、息を詰めるような音が漏れる。


「せん、ぱっ、も、じゅうぶんです。も、いいから、はなっ」


 ぐぐっと往生際悪く桐人が手を引こうとする。

 その力に負けそうだった万葉は、こんどはパクリと指先を口に含んだ。


「ちょぉ……!!」


 少年の咎めるような声が上がるが、知ったことではない。

 ちゅっと、軽く指先を吸えば、かさかさした硬い肌が舌に当たる。

 普段はちょっと頼りなさげな印象を残している桐人だが、手は男らしく硬く、ごつごつとしていて、意外と大きかった。

 太い関節まで舌を這わせて、クリーム越しに、かさついた肌を味わった。


「まっ、ほん、と、いい加減に……!!」


 指の股を尖らせた舌で擽れば、咎めるような声が掻き消えて、代わりに息を詰めるような断続的な音が聞こえた。

 指と指の間に赤い舌を挟み、相手に見せつけるように残ったクリームを舐めとれば、少年の赤くなった目元に、僅かに潤んだ眼が見えた。

 苦しそうに息を必死に詰めて、耐えるように歪んだ顔。吊り上がった形の良い眉に、眉間に寄せられた皺、口を噛む八重歯――少年から滲みだす色気に、万葉は目を細めた。


 ――可愛い。


 ああ、どうしよう。

 自分の一挙一動に戸惑い、平静を乱すこの少年が、なんだか愛しくてたまらなくなってきた。


(……やっぱり、なんか可愛いな)


「もっ……!」


(……どうしようかな)


「ほんっっ……っっ」


(もうちょっと、見てたい気がするけど)


「ほん……とっに……!」


(……なんか、まずいかも)


「っっ……に!」


 これ以上進んだら何かが変わって戻れなくなるような気がして、万葉が猛追を緩めた一瞬、べりっと、肩を押されて少年から引きはがされた。


「——っっっいい加減に、しろぉぉぉぉぉ!!!」


 全速力で長距離でも走ってきたのか、というくらいの息を切らしながら、桐人は真っ赤な顔で叫んだ。


「美味しかったわ。ご馳走様」

「あっ、いや。こちらこそ、落としちゃ……って、違ぇぇ!!」


 腹の底から、桐人は怒鳴り声をあげた。

 ……ちなみに隣では、衝撃的過ぎたのか、『傘』が石化を通り越して、灰となっている。

 だが、桐人がそれに気がついた様子はない。むしろ観客ギャラリーが居たことさえも忘れているようだ。


「――確かに申し訳ないし、こっちの方がありがとうだけど、違ぇ!! っっなに考えてんだ、あんたぁっ!?」

「いや、もったいないから」

「だからって、食べ方があるでしょ!? 食べ方が!!」

「美味しそうだったんだもん」

「嘘つけぇぇっ!! 今、もんって、言ったよね!? もんって!! あざとい言い方してる時点で、もう楽しんでるよね!?」

「やだ、なに言ってるの。本当に美味しかったのよ……特に、指についたチョコが」

「掌の部位でチョコクリームの味は変わんねぇよ!! やっぱり確信犯じゃねぇか!!」

「あ、やっぱり指が一番感じたんだ?」

「やめろぉ!! 冷静に分析するなぁ!!」

「だって、ついででも、折角わざわざ作ってくれたんだし」

「だからって……!!」

「嬉しかったから」


 ふっと、万葉らしくない言葉が聞こえて、桐人の思考が一瞬とまった。

 視界に――木漏れ日のような淡く、柔らかい笑顔が映った。


「だから、ご馳走様」


 ――反則だ。

 まさかの笑顔に、桐人は言葉を失った。


「――ちょっと、何してるの!?」


 ばん、とけたたましい音と共に誰かが図書館の扉を開けるが、桐人は聞こえていないのか万葉を見たまま、固まっていた。

 『傘』も同様に、未だに衝撃から抜け出せずにいる。


 そんな二人に構わず、ずんずんと突然登場した少女――沢良宜が、万葉へと指を差しながら迫っていった。


「さ、佐々木さん! 今、外から見えていたんだけど、あ、あ、あなた――!?」


 言葉にならないらしい。真っ赤な顔で、噛み噛みになりながらも言葉を必死に紡ごうとしていた。


 どうやら、外からでも図書館の様子は見えていたようだ。不意に見えてしまったのか、それとも図書館の中を初めから遠くから観察していたのかは知らないが、沢良宜には随分と刺激が強かった様子。

 わざわざ、此処まで先ほどの行為を窘めに来るとは、ご苦労なことだ。

 万葉はただ、「いただいだチョコケーキを食した」だけだというのに。


 ちら、と沢良宜の背後を見れば、《鬼》も其処に居た。

 実につまらなさそうに欠伸をしている。こいつも一緒に見ていたようだ。


 沢良宜と一緒に居る《鬼》を見ても何も感じなかった万葉は、そのままケーキが収まっていた箱とカードを拾いあげた。

 ぎゃんぎゃんと何やら騒いでいる沢良宜へと、作り笑顔を向ける。

 図書館の扉から、別の後輩が驚いたようにこちらを覗いているのが見えた。


「ごめんなさい。私、そろそろ時間だから、行くわ」


 「あとは、宜しくね」と、困った顔をした後輩の肩を叩いて、図書館を後にした。

 そうしてカオスな状況へ置き去りにされた後輩は、おどおどと返還された本を抱えながら図書委員の作業へと移った。


 ――固まったままの桐人が、ついに床へと崩れ落ちる。


「ちょっと、桐人!! どうしたの、大丈夫!? やっぱりさっきの女に」


 沢良宜が慌てたように、桐人へと駆け寄ろうとした。が、後ろで待機していた阿魂によって阻まれ、彼をにらみ上げた。

 にらまれた阿魂は、非常にどうでもよさそうに、初めて一言だけ口にした。


「——察してやれ」


 戸惑う沢良宜の前で蹲る桐人は、そこから動けず、必死に前を隠している。

 耳は相変わらず真っ赤で、額から心なしか汗が滲んでいた。

 苦心に満ちた表情で、少年は己の情けなさに、ただただ泣きたくなった。


「やばい……」


 どうしよう……。


 ――〇った。

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異世界で失恋したけど、〇〇年経った今では悪くないと思っている。 苗字 名前 @Myouji_Namae

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