第2話 名のらない神様

 「神様に、逢ってきたんだ。」

左手の即席写真を持つ手に力が入り、こらえていた涙は頬を伝った。


 私たち夫婦にとって最高の瞬間は、医師の一言により人生最悪の瞬間に変わってしまった。

「残念ながら、お腹の赤ちゃんは、外で生きてはいられないかもしれません。」

私の視界は一回転し、焦点は定まらなかった。

「死産、ということですか。」

「そうなる可能性が高いでしょう。奥様には私のほうからお伝えしたほうが良いですか。」

医師はあくまでも淡々と話を進める。

「本当に助かる見込みはないのですか。」

奇跡に近いでしょうと医師は言った。その後様々な説明をうけた気がするのだが、そのどれもが頭を素通りしていた。私は、一晩考えさせてほしいと伝え、病院を後にした。帰り際、お腹の赤ん坊が生まれてくることを心待ちにしている、妻の元に寄ったのだが、どんな顔をしていたのか、全く覚えていない。

 そんな日の帰り道であった。すぐに家に帰る気になれず、近くの喫茶店に入った。行きつけとまでは言えないが、たびたび利用していた喫茶店で何気なく手に取った大衆紙に、その広告はあった。『寿命、お売りします。』神様までも、自分たちを馬鹿にしているのかと思った。今最も欲しいものを売るなどというふざけた広告を見せられる気持ちにもなってほしい。寿命が買えるのであれば、いくらかかかろうと買いたいに決まっている。それで、あの子が助かるのならば、どんな大金でもはたくだろう。

 私は、その広告の載った大衆紙を投げつけたい衝動にかられた。しかし、それをしなかったのは、このふざけた広告だとしても、一縷の望みをかけたいと考えたからだったからだ。私は広告に書かれた電話番号に電話をかけた。電話はすぐにつながり、受付らしい男性の声が聞こえてきた。

「買取と購入どちらをお望みですか。」

まるで感情のこもっていない機械のような声だった。

「寿命を購入したいのですが、自分のためではなく、子供にあげたいというか……。」

「贈答用のご購入ですね。こちらでは、そのような要望にもお応えしています。まず一度事務所のほうにお越しください。」

そういうと、電話は切れてしまった。やはり詐欺か何かではないかと思ったが、私は、事務所を訪ねることにした。

 喫茶店からさほど遠くはないところに広告に書かれていた住所の事務所があった。小ぎれいで、まるで不動産仲介所のようであった。事務所にはほとんど人はいなった。やはり詐欺集団の事務所なのだろうか。いぶかしんでいると、男性の一人が近づいてきた。

「先ほどお電話をくださった方ですね。贈答用の購入ということで、ご説明いたしますのでこちらにおかけ下さい。」

声から、電話越しに対応した受付の男性ということは分かった。相変わらず機械のような受け答えだ。男は寿命購入手続きの説明を始めた。分割購入と一括購入があり、現在売りに出されているのは、二十代男性の寿命だといった。

 この日のことを思い返せば、どうしてこんなことをしたのかと思う。先刻まで詐欺だと疑っていたにも関わらず、私は、売りに出されているといった。男性の寿命を一括購入した。目に見えない寿命を、しかも、誰かの寿命を購入するなんて夢物語でしかありえない。それでも、私はそれにすがるしかなかった。自分たちの大切な命をそれで救えると信じたかった。

 それから数週間後、奇跡は本当に起きた。医師ですら、ほぼ助からないといった、私たちの赤ん坊は、健康そのものに生まれてきてくれた。私は妻が驚くほどにむせび泣いた。医師までもが目を潤ませていた。そして、この日ほど神様に感謝した日はなかった。

 

 神様との出会いは突然であった。生まれてきた赤ん坊は、健康にすくすくと育っていた。妻と、日課の日光浴をしているときに、飲み物を取りに席を外し、戻ってくると、見知らぬ青年が、妻と赤ん坊の様子を写真に収めていた。明らかに隠し撮りであった。私は出来る限り威嚇するような声で、青年に話しかけた。

「私の家族に何か用ですか。」

青年は後ろに私がいるのに全く気づいていなかったようで、肩を思い切り震わせて、振り返った。二十代前半の優秀そうな青年であった。

「あの子のお父さんですか。隠し撮りをしてしまい、怪しまれるのも、ごもっともです。大変失礼いたしました。赤ん坊と母親の様子があまりに美しく、思わず写真を撮ってしまったのです。」

青年は、早口にそういうと、深々と頭を下げた。青年がとっていたのは、泣く赤子と、それをあやす妻の姿であった。窓から注ぐ太陽光の中で、それは神々しく見えた。

「なにゆえに私の家族を撮ったのですか。返答次第では病院の警備を呼びますよ。」

私は、あくまでも強気に青年に迫った。青年は、困ったように目を泳がせている。まいったなとつぶやくと頭を掻いた。

「信じていただけるとは思わないのですが、僕の命を見届けに来たのです。」

 私は絶句した。青年が寿命を売りに出していた人がとは信じられなかった。ましてや、本当に寿命を売った人がいるとは思っていなかった。寿命の購入も自分の夢物語で、神様が、奇跡を起こしてくれただけであると思っていた。しかし、目の前の青年は、僕の命を見届けに来たといった。確かに購入したのは二十代の男性の寿命であった。本当に私は、この青年の寿命を購入したのか。

「信じます。本当に、寿命を売る人がいたのですね。そして、私があなたの寿命を買ったのです。あの子のために。」

「本当に買ってもらえるとは思いませんでした。でも、良かった。僕の命はあの子の役に立ったのですね。」

青年は、朗らかに笑った。満足そうに何度もうなずくと本当に良かったと繰り返した。

「あなたは、私たちの神様だ。死産だと医師に言われた帰りに、私はあなたの寿命を買ったのです。本当に、元気に生まれてきてくれた時、私は神様に心から感謝しました。でも、感謝すべき神様がこうして目の前に現れるとは思ってもいませんでした。ぜひ、妻と赤ん坊にも会ってはくれませんか。」

青年は首を横に振った。

「それは、遠慮させてください。実際、あなた方にはお会いするつもりはなかったのです。実際に会ってしまえば、気を使わせてしまうと思ったものですから。それに、神様が起こした奇跡としておいたほうが格好がよいではないですか。」

私は青年の言いたいことが分かり、同時に自分のしたことがとんでもないことだと気がついた。

「どうか、寿命を買ったことに罪悪感を覚えないでください。僕は、もう一年以上も前に自分の寿命を売ったのです。その日から僕の余命は決まっています。あなた方が、購入されたとき、たまたま僕の余命が残っていて、会いに来てしまっただけのことですから。奥様には僕の存在を伝えないほうがよいでしょう。神様の起こした奇跡、それが一番です。」

 青年の話で、私は、人の寿命を買った重みをようやく実感した。そして、青年の言う通り、妻には話すべきではないと思った。

「男同士の秘密ということにしましょう。」

青年はいたずらっぽく笑った。私は涙をこらえて何度もうなずいた。

 「写真を、譲ってはくれませんか。もちろん妻にはあなたのことは言いません。でも、私の中で、あなたという神様がいたことを覚えておきたいのです。」

青年は快く、撮影した即席写真を見せてくれた。その中で、妻が涙を浮かべ、我が子を見つめる写真を選んだ。

「一枚でよろしいのですか。隠し撮りしていた僕に非がいるのですから、すべて選んでいただいてもかまいません。」

「この一枚で十分です。一つ我儘を言わせていただけるのであれば、写真に一言書いてはくれませんか。いつかは、あの子が大きくなってこのことを十分に理解できるようになるその時に、この写真を渡してあげたいのです。」

そんなに大それたこと書けるかなと、青年は頭を掻いたが、しばらく考えたあと、万年筆で写真の裏側に短い文を書いた。それを見て、こらえていた涙が堰を切ったようにあふれてきた。

『僕の命は君のため、君の命は愛のため』

「これで、良いですかね。随分と気障になってしまいした。」

青年は照れた顔で写真を渡してくれた。

「このご恩は一生忘れません。あの子の命の恩人です。」

青年は顔の前で手を横に振った。

「僕のほうからも一つ聞いてもよいですか。親にとって自分の子供の価値とはどのようなところにあるのでしょうか。」

「そこに生きていることですよ。」

私は即答した。死産と言われてなお、生きて産まれてきてくれた我が子にこれ以上求めるものなどなにもなかった。

「特別なことは何もなくてよいのです。五体満足でなくたっていい。生きて存在してくれることこそが、素晴らしい価値なのです。親になってみないとわからないことでしょう。しかし、いくつになっても自分の子供は存在こそが価値あるものなのです。」

青年は何か大切なことに気づいたようだった。

「やはり、あなたにお会いできたのは奇跡だ。お会いできてよかった。僕のやり残したことを気づかせてくれました。本当にありがとうございます。」

青年は深々ともう一度頭を下げると、そろそろ失礼しますといった。

「お名前をまだうかがっていませんでした。」

帰ろうとする青年に私はあわてて声をかけた。

「名乗るほどの人間じゃありませんし、名前がないほうが神様らしいではないですか。」

青年はまたいたずらっぽく笑い、軽く頭を下げると帰っていった。

 私は、受け取った写真をもう一度見つめた。愛しいわが子とそれを涙ながらに見つめる妻の姿は、それは美しかった。そして青年の残した言葉に再び、涙があふれてきそうになった。涙はぐっとこらえ、私は、窓際で待つ家族の元に向かった。

 遅かったわねと、妻が赤ん坊を抱きかかえながら言う。パパが帰って来たよと、私の顔が見えるように赤ん坊をこちらに向けた。目が合うと、私を認識したのか、笑って見せた。私の視界は、涙でどんどんぼやけていった。

「あらあら、パパのほうがよっぽど泣き虫ね。何かあったの。」

妻は楽しいそうに尋ねてくる。写真を掴む左手に無意識に力が入った。言ってしまいたい衝動を抑える代わりに、涙があふれ頬を伝った。

「神様に、逢ってきたんだ。」

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