僕の命は君のため

桜河 朔

第1話 優等生の最期

 「俺は、あと二年で死ぬことにした。」

今日の夕飯の献立を決めるかのように彼は言った。僕は、箸でつかもうとしていた魚の煮つけを取り損ね、口に届くことなくぽろりと落ちた。

 年の瀬の迫る昼下がりに、僕と彼は行きつけの喫茶店で遅めの昼食をとっていた。僕は好物の魚の煮つけを、彼は軽食と珈琲を注文した。僕は彼の言葉の意味を理解できず、何度も煮つけを取り落としているというのに、彼は悠然と珈琲を口に運び一口飲むと、もう一度同じことを言った。

「俺は、あと二年で死ぬことにした。」

「学校はどうするつもりなのだい。」

僕の口から出たのは、あまりにも的外れな問いかけだった。ほかにもっと聞くことはあるだろうに、頓狂な彼の宣言に対し、真っ先に浮かんだのは、来週末の期末試験のことであった。期末試験の勉強のし過ぎで少しばかり頭がおかしくなってしまったに違いないと僕は考えた。

「試験のことは心配ないだろう。君はなんだかんだ言っていつも優をとっているではないか。」

僕はようやく魚の煮つけを口に運ぶことができた。彼は押し黙ったまま首を横に振った。

「俺は決して期末試験を憂しているわけではない。これは、俺の人生の大きな転換期として死ぬことにしたのだ。単位を取る、論文を出すために研究にいそしむという時間は、もはや無駄でしかなくなってしまった。」

彼の口調は馬鹿真面目であったが、僕には、彼がからかっているとしか思えなかった。

「時に、君は何かの病に侵されてしまったのか。」

先刻より僕は彼の言い方が気になっていた。病により余命いくばくもないというのなら、彼は死ぬことになった、というはずである。しかし彼は、二回とも死ぬことにしたといった。見るからに健康な若者が時限爆弾のように二年で死ぬことなどあるはずがない。

「いや、俺はいたって健康だ、今から箱根の駅伝を任されようとも、十二分に走り切れるだろう。」

「ならば、やはり僕をからかっているのだな。健康な人間が、あと二年でぽっくり死ぬものか。そんなご都合主義、空想小説でもありえないぞ。」

僕はいかにも憤慨だと言う顔をした。彼も黙ってうなずいている。僕は彼が今にも笑い出し、やはり騙されなかったかと、言い出すのを待った。しかし、笑い出す代わりに彼が出したのは、新聞広告の切り抜きだった。

「その空想小説はどうやら存在するようなのだよ。」

折りたたまれた新聞広告を広げると、そこには大きく目立つ文字で『あなたの寿命買います』と書かれていた。

「なんと、まさかとは思うが君のような聡明な人間が、こんなうさん臭い広告を真に受けたというのかい。」

 僕はいよいよどうしてよいかわからなくなってしまった。普通の人間ならばこのような広告を目にとめることはあっても本気にはしないはずである。

「金に困っているのなら、何時でも言ってくれ、そりゃあ、お互い学生の身であるから、大金を貸すことは出来ないが、生活を助けることぐらいはできるはずだ。」

僕は大真面目になってそういった。

「心遣いは大変うれしいが、俺は金に困って身売りをしようとしているわけではない。」

「ならば、どうしてあと二年で死ぬなどと冗談を言うのだ。」

「冗談ではない。俺は、本当にあと二年で死ぬのだ。広告を見つけてから、俺は熟考に熟考を重ねた末に死ぬことにしたのだ。」

 きっかけは半年ほど前のことだったと、僕を諭すように静かに彼はつづけた。

「俺は、自慢ではないが、勉学に関して苦労したことはない。そしておおよそのことはそつなくこなしてきた。そのおかげで、世間的にも有名な大学に入り、著名な教授の元、研究活動にいそしんできたわけだ。しかしだ、ある日突然自分は何のために生きているのかわからくなってしまった。自分で望んで入った研究室だったが、今の環境では、幼いころからあこがれていた職に就くことができない。長年目指してきたものがなくなった時、急に足元がおぼつかなくなった。過去の自分を責めるつもりはない。あの時は、この選択が最良であったことは間違いない。しかし結果として、安定の代わりに夢を捨てることになった。一度そのことに気づいてしまうと、あとは転がるように様々なことが分からなくなっていった。人生に絶望してはいたが、このときはまだ自分が死のうとは微塵も考えていなかった。こんな俺でも、いや、こんな俺だからこそ、誰かの役に立ちたいという思いがあったのだ。このご時世、死んで悲しむに人は多くとも、困る人などいやしない。ならばせめて誰かの役に立ちたいと思ったのだ。」

彼の言葉は、彼の意思を示しているようにも、彼自身に言い聞かせているようにも聞こえた。

「そんな時に見つけたのが、この広告だったというわけかい。」

「そうだ、もちろん始めは俺とて怪しいと思ったさ、しかし、うたい文句はあまりにも魅力的だった。自分の命に価値をつけてくれる。そして、自分の命と引き換えに誰かを救えるのだと思うと、いてもたってもいられなくなった。俺は、すぐに広告に書かれた住所に向かい、説明を受けた。そして、寿命の買い取りに申し込むことにしたのだ。凡人極まりない俺の命で、将来の才能あふれた者が救われるんであれば、それがよいと思った。」

「本当に二年で死ぬのかい。馬鹿げた新興宗教のたぐいで、実は死にませんでしたということになるのではないか。」

「それならば、それでも良いと俺は思っている。二年後に死ぬとわかっている中で、やりたいことを思い切りやるのだ。万が一、二年後に死なないとなったら、その先のことはその時に考えるさ。」

 彼は、目の前の珈琲に手を伸ばした。すっかり冷めてしまっているはずなのに、それでもうまそうにそれを飲んだ。

「君の言い分から察するに、もう後に引く気はないようだ。君が半年も悩み下した決断というなら、僕としても、異を唱えるつもりはない。一つ恨み言を言わせてもらえば、なぜ、もっと早くに、それこそ、広告を見つけるよりも前に、僕に話してくれなかったのだ。恥を承知で言うが、僕は君とは一番の親友であったと自負している。もちろん君と違って頭が良いわけではないが、話を聞くぐらいならできたはずだ。そうすれば、もっと他の、二年後に死ぬという選択以外を見いだせたかもしれないではないか。」

「確かに、君の言うとおりだ。誰かに相談していれば、他の選択もできたと思う。しかし、それができないほどに当時の俺は思い詰めていたのだ。恥ずかしい話、この半年間、俺の生活は怠惰そのものだった。朝から体が重く起きかがれない。掃除、洗濯、部屋の片づけに至るまで、何も手を付けられない。普通の人ならば難なくこなすことが全くと言っていいほどできなかった。食事すら気力がわかない。というより、何を食べたいのかがわからないのだ。店の商品棚の間をただひたすらさ迷い歩くだけで何も買わずに帰ることなど日常茶飯事であった。かと思えば、目の前にある食べ物は際限なく口に入れた。腹は膨れているのに、食べることをやめられないこともあった。」

僕は彼の言うことが信じられなかった。大学で知り合ってからの彼は、真面目で、何事にも一生懸命に取り組んでいた。自分を持ち、優等生そのものであった。しかし、彼の話から見える彼は正反対のだらしない印象が強い。

「驚いたかい。そうだろう、俺自身が最も驚いていたのだからな。日に日に眠りが浅くなり、気力と体力がどん底に落ちたとき、人は本当に死を選ぶのだ。そんなになるまでは、俺も、頑張れば立ち直れると思っていた。それこそ周りの抱く俺への期待や優等生像を裏切りたくなかった。周りの人ができることならば、自分にできないはずがないと思っていた。否、出来なければならないと思っていた。その考えは、さらに自分を苦しめた。誰にも話せなかったのは、自分の中のくだらない自尊心からだろう。皆の前では優等生でい続けたかった。だからこそ、誰かのために自らの寿命を売るということは、優等生の最期としては理想的であったのだ。偽善と言われようと、誰かのために死ぬのは俺らしいだろう。」

自慢げに笑って見せるが、どことなくさみしさが漂っていた。

「後悔はないのかい。」

「今は、実感がないせいかもしれないが。」

「僕は何ができる。最期に君にしてやれることはあるのか。」

「今この時の話を、二年後俺が死ぬときに思い出してほしい。少しでも変わっているところがあったら教えてくれ。それがきっと、俺の生きた価値になるはずだ。そして、俺が死んだあとは忘れてしまってくれて構わない。死んだ人間にとらわれる人生ほど無意味なものはないからな。」

 僕は、黙ってうなずいた。彼は満足そうに笑うと、伝票を手に取り席を立った。

「君は、俺を一番の友だと言ってくれたが、それは俺も同じだ。君は俺にとって最初で最期の最良の友だ。荒唐無稽な俺の話に耳を傾けてくれたおかげで、自分のことを話すことができた。心から感謝しているよ。それでは、来週の期末試験お互い頑張ろうではないか。」

「なんだ、試験は受けるのかい。」

「人生最期の記念だからな。」

彼は、片目を閉じて笑った。

 

 しかし、この日以降、彼が大学に来ることはなかった。再び、彼に会ったのは、あの日と同じ喫茶店だった。二年ぶりの彼は大して変わっていなかった。晴れ晴れとした表情で、あの日と同じ珈琲を注文した。

 彼からの電話を受け、僕はあの日から二年たったことに気づかされた。忘れていたわけではないが、思い出す機会は格段に減っていた。

「急に呼び出して悪かった。来てもらえてうれしいよ。」

二年前に戻ったような気持ちになる。やはり彼が死ぬというのは冗談なのではないのかと思った。

「明日でちょうど二年になる。俺は明日死ぬよ。」

あの日と同じ、今晩の献立を決めるように彼は言った。僕は、心のどこかで、彼が死を回避して帰ってくることを期待していた。

「そうか……。」

かすれかけの声でそう答える。僕はごくりとつばを飲み込んだ。

「生きた価値は見つかったようだね。」

店に入って来た時の彼の表情は、何かをやり切った人間の顔をしていた。二年前、僕に余命を宣告した時のような、生きる価値を見出せない不安さは感じられなかった。

「素晴らしい経験をさせてもらったよ。この二年間、知らない土地で、知らない人たちと出会い、いろんな価値観を見つけた。いかにに、あの頃の自分が狭い世界の中だけで思い悩んでいたかを実感させられた。短い人生ではあるが最も充実した二年であったと思う。しかし、わかったのは、二年前の自分の選択が最善かつ最低なものであったということだけだ。」

「後悔しているのか。」

「していないといえば、それは全くの嘘になる。やり残したこともまだある。しかし、それ以上に希望にも満ち溢れている。俺の命は、誰かの人生を救い、その新たな命が俺の分まで夢をかなえてくれるのだから。」

「僕がもし、君と同じ選択をしようとするならば。君は止めるかい。」

彼は口に手を当て黙り込んだ。

「君の意志を尊重するとしか言えない。だが、一つ確かに言えることは、この世界は自分たちが思う以上にもっと広く、優しさにあふれているということだ。二年前に君が言ったとおりだ、誰かに話すだけでもいい、周りが見えなくなるその前に声をあげるのだ。そうすれば、手を差し伸べてくれる人はきっといる。狭まった視野に光が差し、新たな選択肢が見えてくるのだ。」

「それが、君の見出したものか。」

 僕とて、何時彼のようになるとも限らない。それほどにこの世界は、重圧と悪意に満ちている。しかし、僕には彼の残した言葉が、生き方がある。この二年で彼に関わった人たちにとっては、彼の生き方は、手本であり、教訓であるのだ。どん底に落とされたとき、暗闇で一縷の光を見出すきっかけになるのだ。

「そろそろ行くよ。明日の支度をしないといけないからね。」

彼はあの日と同じように伝票をとって席を立った。

「まるで遠足にでも行くみたいだな。いつ帰ってくるんだい。」

僕は、急に彼の死を実感し、強がりに冗談を言った。

「そうだな、遅くとも盆には。」

悔しいが洒落が効いている。

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