第26話 神父夫妻
「ハーディー神父」
テス教会の入り口に鍵をかけていた神父に、ベアーは声をかけた。
「ああ。君か」
振り返った神父は、教会の階段の下で見上げているベアーと目が合うと微笑んだ。
「どうしたね。寒いのに」
微笑みを浮かべながら、ハーディー神父は階段を下りてくる。
「裏へ来なさい。ルーシーが今日作った夕食のシチューが残っていたと思うよ。すまないが、今日はそれを食べたら帰ってくれるかな。今から、わたしは出かけるんでね」
「今から? どこへです」
「前に話したろう。ルーシーの体調が思わしくないと。西オルガン国境沿いに別荘を買ったんだ。あそこは空気がきれいだ。しばらく、ルーシーをそこで養生させようと思ってね、明日には帰るよ」
ハーディー神父は、ベアーの背中を押しながら教会裏へと歩いた。
「まあ、しばらく私ひとりで自炊しなければならないな。良かったら、君、手伝ってくれないかね? 聞いてるよ。君は器用で、料理も上手だと」
「……構いませんが。誰に、お聞きになりました? エルザですか」
「ああ、そうだと思うね。彼女は、あれからどうしたんだい? 見つかったのかな?」
「いえ、まだなのです。ダニーとサラが心配しています」
「かわいそうに。安全なところにいればいいが」
「……エルザが妊娠していたことは、神父さまはご存じでしたか」
ハーディーはベアーの言葉に立ち止った。
「……ああ。彼女から相談を受けていたよ。かわいそうに。あんな若い身で。だからなおさら、いなくなったエルザのことが心配だ」
「彼女は、最後に神父様のところを訪れたとき、なんと言っていましたか」
「悩んでいたよ。……ダニーの将来についてだ。自分と子供が、ダニーの将来を潰すのではないかと。彼と別れて、子供と二人で生きて行く方法もあるのではないかと、私に言った」
「この街から、去るつもりだったということでしょうか」
「はっきりとは断言できないが……姿が見えない今、そうかもしれないね。私にできることなら、なんでも手を貸そう、と彼女に言ったのだが。保護者のいない彼女が、子供を一人で育てるなんて大変だろう」
「誰なの?!」
光のもれる教会裏の勝手口から、鋭い女性の声が飛んだ。
開いた勝手口で仁王立ちしているのは、ハーディーの妻、ルーシーだった。
「ルーシー。ベアーだ。よく、炊き出しで会うだろう。……今日は寒い。夕食のシチューの残りを彼に」
「ないわ」
ルーシーは即答した。
「今日は何も残っていないの。ごめんなさい。帰ってくれるかしら、ベアー」
「そんな。なら、パンでも持たせてやりなさい」
「無いの。ひとつもよ……明日、あなたが買い出しに行って、彼に与えて」
炊き出しで会ういつも微笑みを絶やさない彼女とはちがって、今日のルーシーはつっけんどんな印象だった。
「それに、今出かけるところだったのよ。ベアー。ごめんなさい。お相手できなくて」
「じゃあ、毛布。毛布が一枚、余ってただろう。彼に持たせてやりなさい」
「……わかったわ。待っていて」
ルーシーが室内へとひっこんだ。ハーディーは苦笑した。
「すまないね。体調が悪いと、機嫌も悪くなるみたいでね。……また、体調が良くなったらいつものやさしいルーシーに戻って、炊き出しに参加しよう」
「いえ」
ベアーは答えて、近くに停めてある乗用車を見た。
「お車で? いまから出発されるのですか。明日の朝では、礼拝に間に合わないからですか」
「そうだね。礼拝を休むわけにもいかないからね。私の代わりの者がいればいいんだが。……君に頼めるならしてもらいたいところだが、そうもいかない」
笑ってハーディーはベアーを見上げた。
「君は聖職者に向いてるかもしれないな。もし、君さえよければ教会本部に神学校への入学を推薦してもいいよ。特別措置として、在学中の寮費、食費、学費は免除されるかもしれない」
「ありがたいお言葉ですが。それは、結構です」
「そうかね? 今の生活を続けるよりはどうかな」
「そんなに不自由はしておりません。お気づかいなく」
ベアーは答えると、乗用車に近づいた。
「? どこに行くんだね」
「いえ。懐かしい車でして」
年代物の深緑の車体。
思わず、ベアーの頬が緩んだ。
「何十年か前に、テス教徒の神父たちに配布された型だ。まだ、長持ちしているよ」
「そうですか。私の知っていた車もかなり古びていましたが……よく、走ってくれました」
ベアーは愛おしむように、トランクの上の車体に手のひらを滑らせた。
「車から離れて!」
戻ってきたルーシーがベアーに大声で言った。
「……中に……何か、ネコでも?」
手に振動とかすかに聞こえる声のようなものを感じたベアーは背後のルーシーを振り返る。
「……あなたが、さっさと彼を帰さないからよ」
ベアーを見るルーシーの手から毛布が落ちる。
その手にはナイフが握られていた。
「よさないか、ルーシー!」
「早く、ここから、去りなさい! ベアー! 帰って! 帰りなさい!」
ルーシーが金切声をあげた。
「早く!」
「やめなさい!」
彼らの背後で事態を見守っていたエバンズは銃を構え、叫んで姿を現した。
ルーシーに銃口を向けるエバンズに、ハーディーとルーシーは驚いて目を見開いた。
「ナイフを離しなさい、ルーシー!」
エバンズはルーシーに告げる。
「ルーシー、だめだ。あきらめよう。やっぱり、だめだったんだ」
ハーディーがルーシーに近づいた。
「いやよ! わたしたちの赤ちゃん……!」
「わたしたちの赤ちゃんじゃなかったんだよ。神が授けてくれたと思ったのは間違いだったんだ」
「そんな……ハーディー」
力なく、ナイフを下すルーシーの手からナイフを奪い、ハーディーはエバンズの足元に投げてよこした。
「銃をこっちに向けるのはよしてくれ!」
エバンズは銃口を彼らに向けたまま足元のナイフを拾い、背後のダニエルに合図した。
「エルザ!」
後ろで控えていたダニエルは、車に向かって駆け出した。
すでに、トランクを開けていたベアーが中から一人の少女を抱き起す。
身体をロープで巻かれ、さるぐつわをされていたのはエルザだった。
「エルザ!」
ベアーにさるぐつわを外され、大きく息を吸い込んだエルザはダニエルの姿をとらえて叫んだ。
「ダニー!」
ダニエルはエルザを抱きしめた。
「良かった!」
再会を果たした二人はお互いを見つめ、確認し合うように身体を撫であう。
「……彼女が私たちに頼んだのよ!」
ルーシーが抱き合う二人に叫んだ。
「よさないか」
「彼女が先に私たちに子供を授けたいと言ったのよ……! 私たちなら、赤ちゃんを安心して預けられると、彼女が言ったわ」
「ルーシー」
「……それなのに、今更なかったことにするなんて……。赤ちゃんのベッドも服もおもちゃも全部用意してたのよ! とびっきり愛してあげるつもりだったのに……!」
ハーディーが叫び続けるルーシーを抱きしめた。
「不公平だわ! どうして神様は彼女に赤ちゃんを与えて、私には与えてくれないの。 私の方が彼女より、ちゃんと子供を育ててあげられるのに!」
「……ごめんなさい、ルーシー」
ダニエルの腕の中、震える声でエルザが謝った。
「私が悪かったわ、ルーシー。ごめんなさい。許して」
「……赤ちゃんを返して、エルザ」
ルーシーの目に涙が盛り上がる。
「お願いよ。エルザ。その子は私の赤ちゃん」
エルザを見つめたまま、ルーシーは膝を折って、ハーディーもろともその場にへたりこんだ。
「……私の赤ちゃんだったのよ」
ルーシーは顔を手で覆うと、低い声で慟哭した。
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