Killer Likes Candy 5

 バスマットに水滴が落ちる。

 湯気に浮かび上がるルイーズの肢体。暖色の照明に照らされる濡れた身体は、曇天の心模様など関係なく燦爛さんらんと美しい。

「あ……」

 獣人用に備え付けられた専用のドライヤーで毛皮を乾かした後で彼女は気が付いた。隠れるように浴室に飛び込んだせいで着替えを持ってくるのを忘れていたのである。ヴィンセントに……頼めるわけもない。

 自分の家だ、なにを恥ずかしがることがある。そう言い聞かせて、ルイーズはバスタオルを身体に巻き、リビングへ続く扉を開けた。歩くごとにルイーズの尻尾が揺れ、お尻にかかっているタオルをずり挙げた。一歩ごとに露わになる引き締まった臀部。だが大事になっているにもかかわらずルイーズは隠そうともしない。それどころではないとも言える。自室に行くにはリビング通る必要があり、そこにはヴィンセントがいるからだ。――そのはずなのだが、がらんとしていてどこにも彼はいない。

「ストリップか?」

「――――ッ⁉」

 不意に声を掛けられルイーズは危うく悲鳴を上げるところだった。ヴィンセントはずっとそこにいたのだが、ルイーズからは死角になっていたのである。

「服着てきたらどうよ」

「アラ、感想の一つもないの? ――ほら、どうかしら?」

 艶めかしく腰に手を当てて――くびれを強調するように――ルイーズはポーズをとった。

「ん~、ノーコメントで」

「なによそれ」

「一々騒ぐほどガキじゃねえって、いいからなんか着てこいよ」

「フ~ン、はたしてそうかしらネェ?」

 くるりと振り向き寝室の扉を開けるルイーズ。背を向けた瞬間に彼女の臀部を直視したヴィンセントは咳き込むほどに動揺したのだがルイーズは気付かず寝室の扉を閉めた。一人になった途端、変な汗が噴き出してきて、シャワーを浴びた意味がなくなってしまった。

 精一杯意地を張ってみせたのである。ルイーズは部屋着に着替えて一息、心臓が落ち着くのを待ってからリビングに戻れば、ヴィンセントが山盛りのサラダをテーブルに運んでいるところだった。

「台所勝手に借りたぞ。座っててくれ、すぐ支度終わっから」

 テーブル座り、そこにある料理と台所を行き来するヴィンセントを、戸惑いながらルイーズは何度か見た。

「野菜だらけ、わざわざ作ったの? あなた」

「そりゃ料理くらい出来るさ、アルバトロス(ウチ)のクルー誰だと思ってんだ、俺とダンの男所帯なんだぜ? 料理は当番制。それに世話になりっぱなしってのも悪いしな」

 質素ではあるが勝手に賑わうテーブルに不思議な気持ちを覚えるルイーズ。山盛りのサラダとトースト。最後にオニオンスープを運んで来て、ヴィンセントも席に着いた。

「よいしょっと、ん? どうしたルイーズ。……ネコ科って、玉葱ダメなんだっけ」

「私は獣人。猫じゃないもの、食べられるわ」

「そうか。……ほら、気分が悪いにしたって、何も食わないんじゃ身体に悪いぜ」

 そう言ってヴィンセントはサラダを取り分け始める。

 ボウルに盛られているのは葉物の野菜と卵だけ、冷蔵庫にあるはずのトマトは何故か使われていなかった。ヴィンセントが気を遣って赤を廃してくれたのかもしれない。

「あなたも、サラダだけで足りるの? わたしのことなら気にしなくていいのに」

「なに、たまにはこういうのも悪くないさ」

 ごっそりと、草食動物よろしく大量のサラダを取り分けるヴィンセントはじつに面白かった。思わずくすりとルイーズは笑い、一切れのレタスを口に運んだ。みずみずしい新鮮なレタスがいい音を立てる。

 おいしい、というのが素直な感想だった。誇張もなく、感嘆の息がルイーズから漏れる。

「どう言えばいいのかしら……なんだか、優しい味」

「大袈裟な。洗って盛りつけただけだぜ? ドレッシングも市販品だ、誰でも作れるって」

「そんなことはないわ、不思議……」

「まあ、キッチンに立たないルイーズさんには難しいか。お前、ほとんど料理してねえだろ、片づいてるけど使用感がまるでなかったぞ」

「少しはするわよ。やめてよ、女性の家をジロジロ見ないでくれない?」

「そいつは失礼」

「でも、ほんとうにおいしいわよ」

 ――とは言ったものの結局食欲は乗らず、トーストもサラダも、ルイーズはあまり食べることが出来なかった。けれどもオニオンスープはおいしく飲めた。その様子を満足げに眺めていたヴィンセントは変わらず「誰でも出来る」と言っていたが、気軽に作ったとは思えないスープの味付けに、女のプライドが少しだけ妬けた。

 残った食材は全てヴィンセントの胃袋に消え、テーブルには空の食器が並ぶ。

 ――と、さも当然のような仕草でヴィンセントは胸ポケットに手を伸ばした。自宅のように寛ぐのは構わないが、駄目なものはダメである。ルイーズはぴしゃりと窘める。

「ヴィンス、煙草は禁止よ。昨日も言ったじゃない」

「ああ、そうだったのか。気ィ抜くと右手がヤニを求めるんだ、わりぃ」

「せめて私の前では遠慮してほしいわ。そんなもの、どこがいいのよ」

「さぁな、俺が聞きてえ」

 ヴィンセントは煙草を――それでも名残惜しそうに――ポケットにしまうと、空になった食器をまとめて流し台へと運んでいく。戻ってきた彼の手には食器の代わりに六本セットの缶ビール。昨晩の記憶が無いのは分かるが、だからこそ学習するべきなのでは? ……そもそもビールなんてあったかしら?

「吞むか?」

 頭を振ってルイーズは断る、酔いたい気分ではない。嘆息しながらルイーズの瞳は優しく凪いでいる。不思議と落ち着いた雰囲気に彼女の尻尾はふら~んと揺れていた。

 ヴィンセントは酒が進み、くだらない話を面白おかしく語った。彼が尊敬するパイロットの話とか、火星にあるという古代文明の、どう聞いても作り話としか思えない噂話や、巨大怪獣の発見談――はいくら何でもと聞き返してみたら、「事実は小説よりも奇なりだよな」と彼は笑って答える。

 短針が回ったのはいつの間のことだったのか、時は知らぬ間に、穏やかに過ぎゆく。

 一つの不安と信頼が、ルイーズの胸の内でその重さを比べていた。天秤に乗った皿は一体どちらが重いのか、思いの揺らぐ瞬間に重量は変化し片側へ傾ぐ。訊くべきか、訊かざるべきか。思考を重ねるが顔には出さず、淑やかな表情で新しくビールを開けたヴィンセントを見つめる。

「ねぇヴィンス、やっぱりわたしにも一本貰える?」

「ああ吞め吞め」

 ズルい気もしたが天秤を鈍らせるにはアルコールの力が必要だった。安いとは言え百薬の長、はたして効果は如何ほどか。ルイーズは慣れない所作で缶を持つと、一口、二口ビールを口に運ぶと、瞳を閉じて効能を祈る。天秤が更に傾く前に――……。

 静かに開くルイーズの瞳。酔いは怖れを鈍らせる、だが心臓は敏感になっていく。

「……訊きたいことがあるのだけれど、いいかしら。ヴィンス?」

「どーぞ」

 訊きたいが聞きたくない。これは致命的な問い、それでも――

 ルイーズの心臓は緊張で潰れそうだった。だが、不安げなルイーズに対しヴィンセントの気楽なこと。彼は手振りをつけて先を促す。

 ルイーズの声からは潤いが奪われていった。

「…………あなたは……わたし、達……。獣人をどう思っているの?」

 本当に知りたいのかルイーズ自身にも分からない。しかし、もう訊いてしまった。天秤が軋み、その音は心を揺さぶる。

 それはヴィンセントも同様なのか。ぽかんと開いた口にビールを運び掛けた右手が中途半端な位置で止まっていた。パトカーのサイレンに似た唸り声を上げて、彼の視線は天井を這う。まるで逃げ回る言の葉を探すように。

「んーー、ンーーーー? どう思ってるか……どう思ってるかって訊かれてもな……。敢えて言うなら何とも思ってねえ、かな」

 ビールを置いてヴィンセントは答えた。

「……どういう意味?」

「そのままだ、そもそも興味がねえ――どっちがどうだとか、獣人も人間も、好きも嫌いも。少なくとも種族で分ける気はねえよ、だからどうでもいい」

「どうでもいいって……」

「ンなもん気にしたって変わるもんでもねえだろ? じゃあ逆に、お前はどうなんだ?」

 聞き返されるとは思っていなかったルイーズは戸惑う。ヴィンセントはそんな彼女にもう一度問うのだった。

「人間をどう思うよ」

「わたしは…………」

「言えよ、どれだけこき下ろそうが気にしねえから」

「……好きではない……わ」

 道を歩いているだけで石を投げてくる相手をどうして好きになれようか。ルイーズはだが、嫌いだと答えるつもりだったが言えなかったのである。

「あなたやダンに関しては、嫌いではない」

 どちらも本心だ、全てを伝えられていないだけ。だがそれでも、彼女が見つめるヴィンセントは、微かに口元を緩めた。

「そうだろ、半端な答えだって出てくる、それでいいのさ。それが普通だと思うけどな、綺麗になんて分けらンねぇよ。種族云々なんてクソ食らえだ、どっちにもいい奴ァいるし悪ィ奴もいる。――見える範囲なんてたかが知れてンだから個人で見ればわりかし楽になる」

「……そんな、ものかしら」

「そんなもんだ、って言っても難しいか。そうだな、……じゃあ例えば、俺とお前の違いってなんだ。尻尾があるか、耳があるか。あるいは職業? それとも性別か?」

 ハッキリしているが言いたくない。

「なによりも全てにおいて。そう……何もかもが、根本から違う。気にしないと言えるのは、それでもあなたが人間だからだわ」

 その通りだと、ヴィンセントは酔いどれながら頷いた。

「ルイーズ、目ェ瞑ってみ」

「え? なによいきなり」

「いいから、目ェ瞑れって」

 少し躊躇ってからルイーズは目を閉じる。視界が塞がるとひどく落ち着かなかった。

「どうだルイーズ、今お前と話してるのは……なんだ?」

 視覚を補うように鋭敏になる聴覚。ルイーズが感じるのは耳に優しい男の声だけ。不真面目のようで真面目で、格好悪い聞き慣れた人間の声だった。――人間? そうじゃない、ここにいるのは……。

「あっ……」

 獣人でも人間でもなく、そこにいるのはヴィンセントだ。静かに目を開けると、ヴィンセントは顔を逸らして頬を掻いていた。

「ま、これは俺の考え方。獣人だろうが人間だろうが嫌いな奴は嫌いだ。どっちだろうが関係ねえ、賞金首だってそうだぜ? 人間でも遠慮なく捕まえてる。ロクデナシは何処にだっているモンさ、よく知ってるだろが」

「……たとえば、あなたとか」

「便利屋で賞金稼ぎってロクデモねえな、改めて。相手が賞金首ってだけで暴力を振りかざしてることにかわりねえ。飛行機飛ばして銃ブッ放す、善玉気取りのカウボーイさ」

「冗談だからね? 情報屋も同じ」

 笑い飛ばしてヴィンセントはビールを飲み干すと唇を鳴らした。酩酊めいていに浸る脳から記憶を探る為に人差し指で中に円を描く。

「ようするにだ、気にするなってこった。あの警官になに言われたか知らねえけど、笑い飛ばしてやりゃあいい『うるせェッ、黙ってろッ(shut the fuck up)!』ってよ」

 ルイーズの表情は、心臓はこれ以上ないほどに強張った。まさかあんな会話を聞かれていたかと思うと背筋が寒くなる。

「聞いていたの……?」

「いんや、そこまで耳は良くない。こんなカマ掛けに釣られるなんてまだまだ甘ぇな」

「……ずるいわよ、ヴィンス」

「お前はお前で、俺は俺。そいつがどう思おうが、誰がなんと言おうが、変わらないし変えられない絶対の事実さ。いくら否定しても結局はてめぇなんだ。だったら誇りゃいいんだ、ルイーズ――お前は人間らしい、あー違うな……人らしいんだよ。あんな警官や俺なんかよりもよっぽど、よっぽど綺麗で輝けるんだ。見た目なんて問題じゃねえ、大事なものはもっときっと別のものだ。神様じゃねえんだから、誰にでも平等ってワケじゃねえぞ? 触れ合っても分かり合えないものもあるって話さ。――凛とあれよ、月みたく」

「……また、酔っているの?」

「どうだかな、起きながら夢を見てる感じだ、いつだって」

「そ…………」

 呂律怪しいヴィンセントはアルコールを払おうと頭を振った。

「そろそろお開きにするか、明日も仕事だ。それに夜更かしは美容の敵とも言うぜ」

 ちょっとだけ。本当にちょっとだけだが、落ち着いた気がする。頷き椅子を引いたルイーズを、だがヴィンセントはもう一度揺るがせた。「一つ確認しときたいことがあった」と彼は言う。

「お前、いま男はいるのか」

 動揺に耳を震わせ、ルイーズは聞き返す。

「ど、どうして? なぁにヴィンス、気になるの?」

「確認しとかねえとさ、夜這い掛けようと彼氏が尋ねてきたところを、泥棒と間違って撃っちまうかも。これでも用心棒なもので」

 男女関係が気になるのかと思えば実に真面目な仕事の話で、なんとも言い表しづらい感情の起伏に踊らされるルイーズは、最終的にがっかりと耳と尻尾を項垂れた。

「いないわよ、特定の相手は。第一、いたなら泊めたりしてないわ」

「それもそうか」

「嬉しい? わたしが独り身で」

 何か言いかけたヴィンセントは答えず立ち上がり、流し台で洗い物を始めた。まるで逃げるようなその背中――だから嫌いになれないのかもしれない。不器用なんだからとルイーズは笑う。

「ヴィンス、こっちを向いてくれる?」

「ん? どうした」

 飾り気のない柔和な微笑はルイーズを、まさに月華のように輝かせる。ヴィンセントが一瞬息を吞むくらいに彼女は美しかった。

「今日はありがとう、おやすみなさい」

「あ……ああ、おやすみ」

 ぶっきらぼうなのに、その声は不思議と優しくて温かい。その声で囁いてほしい言葉がある、もっと近くで、触れ合う距離で。寝室の扉を閉じ、彼女は一人横になる。いつかきっと来る時を信じルイーズは瞳を閉じた。

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