冬のベゴニア、白うさぎ
ぼくらを追うものは何もなかったけれど、ぼくらはずっと、世界の果てを目指して逃げている。
ぼくらが逃げていたのは人間からでもなく、整形セラミックのドローンからでもなく、AIを積んだ球体――先生――からでもない。
決してぼくらの後なんて追いやしないし、きっとぼくらに興味なんてありやしない、けれどずっとぼくらの背中を冷ややかに見つめる、空の上の高いところ、そこにじっと鎮座ましましている、
人間のことなんてきっと大嫌いなのであろう、月からだ。
冬のベゴニア、白うさぎ
温室には、果てがない。それを知ったのは自我が芽生えてからおおよそ二年を過ごしてからのことだった。
「水槽」で育ったという、同い年くらいの少年と出会った日のこと。
少年は水槽から出てこの方ずっと歩き続けて、それでも果てにたどり着かないのだからきっとそんなものはないに違いないのだと語った。
彼の目はぼくがそれまでに見た誰の目よりもきれいな、社会科の授業で見たナントカという、何十年か前に取り尽くされた鉱物のひかりによく似ていて、その日のぼくは温室の果てなんていう
突拍子もない話よりもずっと、その鉱物の名前さえ思いだせれば彼のその目を褒められるのに、ということばかりを考えていたように思う。少なくとも、記憶の記録上はそうだ。
彼、水槽くん――なにせ彼には番号が振られていなかったので、どう呼べばいいか分からなかった――は、この温室を怖がっているようだった。
「ねえ、なんでそんなにここが怖いの。危ないものは何もないし、先生たちも優しいよ。」
ぼくがそう聞いた時、水槽くんはぎょっと目を丸くしたのを、憶えている。
それから水槽くんは長いこと、ここが怖いと言わなかった。すっかり怖くなくなったものだと思っていたそれがそんな理由ではなくて、
ぼくが「怖いと思っていない」ことが「怖かった」だけだと教えてもらえたのも、あの日から随分後のことだ。
「ねえ、ぼくもすっかり、ここが怖くなったよ。」
「ごめんよ、きみまで、ぼくとおんなじ目にあう必要なんてなかったのに。」
月から隠れるために、整形セラミックよりよっぽど原始的な冷たい建物に逃げ込んで、ぼくらはその恐怖を互いに慰めあうように、手を握って、そこに口づけた。
水槽くんは、時々、夢の中でも謝っていた。
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