バイタルサイン
不知央人
で?
「で?」
市立病院にある脳外科病棟のナースステーションで、看護師のぼやくような1文字が、やけに頭に響いた。そのまま頭痛を誘発しそうだった。
「えっと・・・、疲労感があるとのことだったので、予定していた散歩は午後に回 そうかと思います」
担当している患者の体温や血圧を測って、看護師に報告していたのだが、内容が不十分だったらしい。2クール目(1クール=12日間)の実習ともなれば、たとえ1文字であっても、看護師の表情と声のトーンからある程度察することができる。しかし、追加した報告が火に油を注いでしまった。
「患者さんが嫌だって言ったら、それを素直に受け入れるの?それって本当に患者さんのためなの?山下さんってもう安静度フリーだし、転院に向けてもっと体を動かすべきだよね。そう思って散歩を計画してきたんでしょ。ちゃんと散歩の目的説明した?」
学生は実習中に1人の患者を担当させてもらうことができる。もちろん学生だけでケアを行うのではなくて、その日の担当の看護師も手伝ってくれる。私の患者、87歳のおばあちゃんの山下さんは脳梗塞で入院してきたのだが、治療が無事終わり、リハビリ病院に移ることが決まっていた。ずっと寝たままだと筋肉がおちてしまうため、活動量を増やす援助が必要だった。散歩ひとつ行うにしろ、いつどこで行うのか、何に注意するのかを計画して提出し、学校の先生、病院にいる看護師兼学生指導者に許可をもらわないと実施することができない。
「説明はしたんですけど、動きたくないってずっと言ってて・・・」
困った様子を隠し切れない私に呆れたのか、看護師の西舘さんはため息をついて山下さんの病室に向かった。
510号室にはベッドが4つ並んでいて、病室に入って左側の奥に山下さんが横になっている。
「山下さん、おはようございます。今日担当の西舘です」
毎度のことながら、学生の前と患者の前で豹変する看護師の態度には感心する。どれだけ怒っていても電話に出る時は声色が変わる母親のようだ。
「山下さん、体調も前より良くなってるみたいですね!良かったあ。もう動いても 大丈夫なんですよ。おうちに帰るためにも、今からちょっとずつ動きましょう」
「でもねえ・・・疲れてるから・・・」
「学生さんが一緒にお散歩行きたいんですって!せっかくだし行きません?」
「でも・・・」
山下さんが渋る様子を見て、正直なところ安心していた。ここでうまくいったら自分の立場がないからである。
「あ、車椅子乗ってみましょう。それでだめだったら、また横になってもいいです から」
そう言うと西舘さんは廊下から車椅子を持ってきてベッドの横に置く。そして患者の否応なしに、ベッドの頭側を上げ始めた。
ここで私の負けが確定した。そこからはその場にいなくても、山下さんが車椅子に座って散歩に行くと言い出す結果が分かる。逆転なんて見込めない。何しろ山下さんのさっきまでの曇り顔が晴天となっている。
「さ、いってらっしゃい」
あっという間に山下さんは車椅子に座っている。西舘さんは車椅子のハンドルを押すよう私に促し、「お願いね」と笑っている。看護師の笑顔の裏には鬼のようにひきつる目と牙があるのだということは既に心得ている。
車椅子を押しながら、心理的なため息をついた。
普段は1階にある外来にしか用がない自分にとって、長い階段を上がってたどりついた病棟という空間は、どこか異様な空気が漂っていて、呼吸がしづらく感じる。
初めて実習に来た日のことを思い出す。患者が高齢者ばかりの病棟で働く看護師は、私のイメージ通りと言って過言ではないほど、患者に対して優しかった。まさに白衣の天使。私の目指す将来像が目の前にあって、胸を高鳴らせた。そのときめきが、3時間後には皆無である。期待の鼓動は緊張の動悸へ。吐き気を催すほどのプレッシャー。病院において看護学生というのは、カースト制度で最下位にいるという現実を突きつけられた。
しかし私の受容は早かった。受容というより諦めである。現実はこんなものだ、という経験を、また1つ重ねただけである。
若干20歳、理想と現実の相違など、とうの昔にわきまえたつもりだ。
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