第2話 チョコは麻薬

 だんだんと、彼がファストフード店にいる曜日がわかるようになってきた。月木は基本遭遇する。火曜と水曜は流動的だ。

 何度会っても何も言えず、何もせず、どうにか勉強に意識を向ける。そうして今日も時間切れ。私より先に、彼は席を立つ。塾の時間かな。それとも家に帰るのかな。

 後ろ姿だけは、じっと見つめられる。いつか、顔を見て会話できたらと夢みて。

 名前も知らない、声も知らない。参考書から高三であることと、見た目からヤンチャしている風でもなく「普通の人」という感じを受けるくらい。

 週に二、三回、隣に座る関係が一か月続いたが、一向に私は声を掛けることもできずにいた。毎回、先に来ている彼を見て、後ろ姿を見送る。

 今日もそう。イヤホンを外し始めたら帰宅のサイン。どんな音楽を聴きながら勉強しているのかな。と思いながらグレーのコートを着た背中を見つめる。

 しかしその時、彼は振り返る。思いもよらない行為に驚いたけれど、同じように彼も驚いていた。

 ファストフード店の中とは思えない静かな空気感が私たちの間を流れる。それは一瞬なのか、数秒なのか。

 彼は私に対して小さくお辞儀をして、トレイを持ってその場を去った。無意識にお辞儀を返した私は茫然とするだけだった。

 彼の中に、私は存在していた。それだけで嬉しくなるなんて。ぬるくなったカフェラテを口にして気持ちを落ち着かせようとしたが、その日は勉強にならなかった。


 メルを呼び出し、私は自室で事の顛末を話し始めた。文字のやりとりでは収まらない。

 メルは終始、スマホをいじっては机の上に置き、また通知ランプがついたら手にとる、という行為をしながら。

「香菜子の恋バナ初めて聞いたかも」

 年上の友達であるメルは二十八歳。バイト先が一緒だったことから仲良くなった。

「そうだね、私は人間関係に興味がないから」

 興味がない、というのも違うけれど、面倒な交友関係を結ぶくらいなら孤独の方がいいと思っている。実家暮らしで寂しくないというのもあるし。

「隣の席のオトコノコ、ねぇ」

 何か言いたそうにされて、私は少し反発心を覚えた。そういうのはドラマの中の話で、美人でもないのに上手くいくとでも思っているのか、とか。そういうツッコミを入れたいのだろう。

「メルの恋バナも、全然聞かないな」

 話題を変えて言ってみる。親しくなって三年ほどたつが、恋人がいた気配はない。

「そういうの、興味ないし。みんながみんな、恋愛しなきゃいけない風潮って何? って思う」

 ため息をつきながら、眉間にシワを寄せる。

 メル、という名は本名だ。だが、両親ともに日本人だし、顔立ちも日本人。何を考えてこんな名前をつけたんだというのは、メルの言い訳めいた口癖だった。

 髪もきちんとセットしておらず、化粧もせず、ムダ毛は生やしっぱなし。毛深くないから誰も見てないでしょ、とは言うけれど、私は気になる。

 メルの人生だから、口出ししなくていいとは思う。でも、うっすらヒゲが生えていても気にしないって、私には理解できない。

 恋人なんていらないと言いつつ、もし超絶イケメンに「付き合って」と言われたら付き合うのだろう。かっこよくて自分をお姫様扱いしてくれればいい、ってそんなうまい話があるものか。

 恋愛至上主義である風潮はとても生きにくい。恋人もいない、家族のいない人間が土日のテーマパークやショッピングモールにいるだけで、責められている気分になる。

 イベントのたびに、独り身は寂しそうで可哀相だと言わんばかりだ。恋人たちをターゲットにした観光地や、商品が売り出される。

 その代表格であるバレンタインは、今となっては「友チョコ」「自分チョコ」というものが主流になってきているが、それでもやはり、恋人のための日だ。

 まさか、私がその日を心待ちにしているなんて不思議だ。今まで友チョコすら面倒だったのに。

 もうメルとは話が合わないのだろうか。メルと同じ場所にいると思っていたのに、どうやら違うのだとわかってしまったから。それだけに留まらず、いつの間にか批判する部分ばかりが増えてきた。

 同じ新人バンドが好きだったところから始まった友人関係だけど、趣味が変わってしまってライブに行くこともなくなった。価値観も変わった。

 夫婦ってこういうものなのか、と思いながら、私もメルと同じノンアルコールのビールを飲みこんだ。

 部屋には、つまみのポテトチップスの咀嚼音だけが響く。

 こういう状況になると、友達がたくさんいる人がうらやましくなる。恋の話をするのは、恋に興味がある人だけ。アニメに興味がない人に、アニメの話をしても迷惑なのと一緒だ。


   *


 いつにも増しておしゃれに気を使って、ファストフード店へ向かう。今日は木曜日だから。

 フリーWiFiがあるからありがたい。タブレットを持ち込んで動画を見てしまうから、家で勉強しているのと変わりないとは思うけれど。今日は金欠だから、クーポンで購入できる百円のコーヒーMサイズだけ。

 トレイを持って二階へ。席に目を向けると、彼の姿があった。挨拶をした日以来、会うのは初めてだ。いつも以上に緊張しながら席に近づくと、彼は素早く気が付いて顔をあげた。

 心臓が、どくんと跳ね上がる。私の想像通りの展開が待ち受けるかどうか、期待を抑える。

 彼は、私を見て微笑んだ。照れたような、はにかむような、ささやかな笑顔だった。

 瞬間、私の顔が熱で浮かされた。どうしよう、真っ赤になっているかも。飲み物はアイスにすればよかった。

 あれこれ考えながら、ロボットのようにかくかくとした動きでテーブルについた。

 チャンスだ。そう思いながら、少し震える手でコーヒーに砂糖とミルクを入れた。ひとくち飲んで、タブレットを取り出してWiFiに接続した。

 颯斗くんが、私を見て微笑んだ。なるほど。……いや、何がなるほどなのかわからない。パニック。

 どこから会話の糸口を、と頭を巡らせていると、また『チョコレートを作ろう!』という広告が出てきた。

 バレンタインをきっかけに、声をかけようかな。でも、話したことのない女からいきなりチョコをもらっても怖いだろう。その前に、少し親しくなるべきか。

 その「少し親しくなる」方法がわからないから困っている。

 はぁ、とため息をつきながらも、無意識に広告を開いて板チョコで簡単に作ることの出来るレシピを見ていた。美味しそう。

 やっぱり、チョコは人を幸せにする。砂糖は世界最古の麻薬だなんて言う位だもんね。食べすぎ注意。

 甘い世界に浸ってぼんやりしていた私の耳に、声が届いた。

「タブレットって、いいですか?」

 板チョコが割れたかのように視界が広がる。

 自分に向けられたものなのか、それすら曖昧だった。知り合いかと振り向いて、声の主を確認する。

 驚きで呼吸が止まり、瞬きを忘れる。私のタブレットを覗き込んでいたのは、いつも隣にいる彼だ。

「は、い。画面大きいから、いいですよ」

 見てわかることを答えてしまった。頭悪い人っぽい。私のリアクションを見て、彼は慌てたように体を離した。

「怪しいものではありません。あの、俺もタブレット欲しいなって気になっていたんです。すみません、いきなり」

 言いながら、彼は自分の席にゆっくり戻っていった。いきなり話しかけて、引かれた、と思ったのかもしれない。私は慌てて否定した。

「こういう話、好きなんで大丈夫です」

 なるほど、気になっていた商品か。合点がいって、私も落ち着く。愛想笑いをお互いにして、場がようやく和んだ。

「それはありがたいっす」

 今唯一の共通の話題を、なんとしても途切れさせるわけにはいかない。

「動画、遠慮なく見たいですもんね」

「そっすね。あと、勉強にも役立てたいです」

 少しだけしか話してないけど、でも彼の事を知れた。声が低すぎないのに、透明感がある。綺麗な声だな、と思った。それだけの情報が嬉しい。

 私は勢いそのままに切り出した。どこにそんな度胸があるというのか。心臓が高鳴り震えた手をしているのに。

「連絡先、交換しましょう。私でよければどういうタブレットがいいか教えます」

 こういって、彼がどういう顔をするか。私は怖いもの見たさとで凝視した。

「お願いします」

 恥ずかしそうにうつむいて、でも笑顔で受け入れてくれた。私がこの世界に存在していい、という免罪符を与えられた。

 大袈裟すぎるけれど、彼の笑顔にはそのくらいの威力があった。

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