届かぬ血
どろんじょ
第1話
ここは、死人の体液が流れる川
純粋な水なんざ近々お眼に掛かっちゃいない。
すでに赤くもなくなった血が、私の生活用水なのだ。
「あたし、あたしきっともう死ぬんだわ。」
長い睫を地面に伏せるようにして少女は泣いた。
台詞の一つ一つを追うように、一粒宝石のような涙がこぼれ
布団の袂でなし崩しに吸い込まれた。
そばに控える女中と思わしき若い女性が今にも崩れそうな少女の身体を
今にも少女と同じように泣きそうな顔でそれでもしっかり支えていた。
少女の言葉の端々は糸のように細く、はっきりと聞こえたのはこの台詞だけだった。
やけに赤々とした椿が頬に触れうっとおしくも払いのけると女中やらなにやらに
見つかってしまいそうで、椿の朝露が首筋に蔦っても彼女を見続けた。
「あのお若いご婦人はそろそろご寿命らしくって、
あたし可愛そうでねえ、まだあどけない丸顔をした女の子なのよ。」
この辺りは磁場が悪いのか、墓場に埋めたはずの遺体は
必ずといっていいほど次の日に降る雨に攫われて川に流されていってしまう。
それのせいで幾度か墓場の移動も行われたがどこに行こうが葬式の次の日は
雨が降り死体はどこかに消えるのだ。
川の下手に住む人間が上手の人間の死体を食いつくすためだという噂がそこかしこで蔓延っている。
だが、その流れる死体を食いきれるほど下手に人はいない。
今下手に住むのは私一人なのだから。
「やあ、やはり下手は酷く臭うね。
こんなところでよく生活出来るもんだ。」
その男は口布を巻いてこちらを覗き込んだ。
冬は死体が凍らされて、他の季節より幾分か臭わないのだ。
それなのにわざわざ口布を巻くとは上手の人間は鼻が脆い。
返事もせずにただ、死体の一つ一つを漁っていると男はこちらに近づいてきた。
口布を巻いていくら顔の半分を隠そうとその男の下品さはすぐに垣間見えた。
「いやいや、やはり金持ちの考えることはわからないね。
ガラクタになっちまった身体にわざわざ宝石をつけるんだもの。」
男は何がしたいのか冬のおかげで形をなんとか保つ死体だけを漁りだした。
「すまんね。君の一族の土地だろう。
君もおかしいね、こんなとこ捨てちまって上手に潜り込めばいいのに。」
私の横顔を一瞥すると鼻で笑ったのかおかしな音を口布から漏らすと
近くに横たわっていた女のものらしき死体の胸元をまさぐった。
「ああ、君が度々見に来ていたあの家の少女
昨晩死んだよ。十五だったらしい。
今日弔われるらしいが、きっとこの土地には埋めないのだろうね。
ここよりさらに下へ降りる準備がされていた。
きっとここへはこない。」
男は私の眼を一度も見ずに淡々と述べた。
その冷静さがやけに腹ただしく握っていた子供の手首の肉を剥いでしまったほどだ。
「待ってても無駄さ。
上手の人間みんなが君の目的を知っているからこその選択だ。
この土地の風習に娘の死骸のために逆らったんだ。」
この男には私がいまここに冷たくなった血糊の上を這う理由がわかっているのだ。
そしてその行為がなんら意味のないことだと簡単に吐き捨てた。
しかし残念なことに私は彼を罵倒し、問い詰める声を持ち合わせてはいない。
「おかしなものだね。君は。
話せはしないが私の言葉だけは理解出来るんだ。おや。」
彼は一方的に話すことが出来ることに幾分心地よさを感じているのか
頬が緩んでいた。
そして彼は横目で水に膨れた指に納まった真珠を見つけた。
それは汚れも薄く、白くこの汚泥の中で輝いていた。
「これは、いただいてもいいかな。」
彼がその真珠の指輪を引き抜く瞬間ついでに指の肉も一緒に剥げ落ちたが
彼は一瞬眉をひそめただけでそれも払い落とした。
私の素知らぬ間に大分収穫物があったようで大きく膨らんだ巾着にそれをしまい込むと
彼はこちらに向き直った。
「こんな水を飲んでいたらそりゃあ声も枯れるさ。
上手においで。血や腐肉は不味いだろう。
声さえあればあの娘が死ぬのを心待ちにする必要もなかったろうに。」
死体荒らしの蛆虫が、上手に住んでることを鼻にかけやがる。
偉そうなことを言うんじゃない。
声なんざ貴様のように喋りたくるだけの道具なら欲しくない。
あの娘だって、声があったとしても生きてる娘なんて何を言っていいかわからない。
男はこちらを一瞥すると眼の合わないうちに走り去った。
あの探り当てた金品たちは上手ではないどこかで売られるのだろう。
あきらめて血糊だらけの手を合わせて椀の形になるように組み
赤黒い水を救った。
音を立ててそれは私の口の中へと収まっていった。
のどが潤されて、あの名も知らぬ少女を呼ぶことが出来そうに思えたが
やはり声は出なかった。
届かぬ血 どろんじょ @mikimiki5
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