東ローマ皇太子レオの事情
現実世界。
『ふんふんふ~ん。物語で敵が強い展開って燃えると思わない? 下田教授』
魔本「狂えるオルランド」から、甲高い作り物めいた声が上機嫌で響き渡った。
もっともこの声を聞き取る事ができるのは、この世界でたった一人。魔本事件の関係者・下田だけである。
『とってもとっても楽しいね! サラセン帝国オールスターズってとこか。
原典じゃあコイツら、味方同士で仲間割れして殺し合って、戦力をすり減らしちゃってさぁ。
ブラダマンテに惚れてるロジェロを頼みにするしかなくなって。ロジェロ自身、サラセン騎士でも何でもなくてマトモに戦おうとしないのにね。
最終的にはオルランドを含めた最強のメンバー相手に、寄せ集めのような戦力で挑んで惨敗するんだよ。盛り上がりに欠けるよね!』
魔本に宿る意思。本の悪魔
「……話の盛り上がりなんぞどうでもいい。
お前とその件で話を蒸し返す気は私には無い」
苛立ちを含んだ調子で、下田は静かに言った。
『物語の起伏に関する話、興味ない? 残念だな~。
まーでもこれから敵味方の垣根を乗り越えて、王国の平和を乱す野獣オルランドの討伐をするシーンだよね。
普通に考えて胸が熱くなる展開だと思わないかい? 共通の目的の為に、敵同士が手を取り合って立ち向かうんだから。王道展開って感じでさぁ』
悪魔の言い分はそれほど的外れという訳ではないが。
下田教授や魔本に閉じ込められているアイ達にとっては、お世辞にも歓迎すべき状況ではない。
そもそもオルランドは、こんな場面で正気を失ったまま死ぬ運命ではないのだ。両陣営の戦力を合わせた討伐作戦が遂行されれば、物語本来の流れが完全に狂ってしまう事だろう。
「私は私にできる事をするだけさ。
話がここまで原典無視の急展開を迎えたというなら。もう遠慮は要らんだろう。
アイ君に遠慮なく、全力で助言をさせてもらう」
『へえ~? いいのかい? 彼女たちに降りかかる試練が、もっとキツくなっても知らないよォ?』
「現状でも十二分にヘビーだよ。なのにこっちが遠慮する道理はない。
それに原典にない展開になっているなら、ネタバレも何もないだろう」
下田はハッキリと、そして言葉に怒りを秘めて宣言した。
「――貴様の思い通りには絶対にさせんぞ。
『ははッ。いいねェそのドス黒い感情! せいぜい頑張ってアシストするんだね。楽しみにしてるよ!』
耳障りな高笑いを残し、本の悪魔の声と気配はそれっきり消え失せたのだった。
**********
物語世界の南ドイツ。バイエルン公ネイムスの治める都・ミュンヘンにて。
絶世の美姫・
東ローマ帝国の皇太子・レオと名乗る人物。しかも今までの世界線で見たことのない、温和そうな東洋人の青年の顔。
(もしかしてこの人が……
確か名前は……
だがそれも一瞬の事。眼前の皇太子は、彫りの深い黒髪の、ギリシア風の青年の顔になっていた。
(えっ……あれっ? 何、だったの? 今の……?)
アンジェリカの魂もまた、かつて現実世界にいた人物。しかし度重なる物語世界の繰り返しにより、その記憶はほぼ失われていた。
だから皮肉なことに、目の前の青年が自分の実の弟である事に、アンジェリカ――
なのでアンジェリカは物語世界で抱くべき疑問を、東ローマ皇太子に投げかける事にした。
「遠くギリシアを支配する東ローマの皇太子さまが……何故ミュンヘンに?
そもそもどうやってここまで来たんですか?」
彼女の問いはもっともである。バイエルン地方はフランク王国領の最東端。
南に位置するオーストリア・北イタリア地方はランゴバルド王国の所領であるし、さらに東のエルベ川流域は遊牧民族・アヴァール人の支配下なのだ。
質問に対し、レオ皇太子は落ち着き払って答えた。
「北イタリア東端の港町トリエステから、ランゴバルド王国の領内を素通りさせて貰いました。
我が東ローマ帝国は、ランゴバルド王国と懇意にさせて貰っているのです。敵の敵は味方というでしょう? ランゴバルド人も我々ギリシア人も、ローマ教皇とは仲が悪い。何しろ共にラヴェンナの地を、彼らに奪われてしまっていますからね」
8世紀半ば、北イタリアの港町ラヴェンナは東ローマ領だったが、ランゴバルド王アストルフォの侵略に遭い放棄する羽目になった。
そこにシャルルマーニュの父・ピピン3世がローマ教皇からの援軍要請を受け、ランゴバルドの軍勢を駆逐する。
しかしこの時、東ローマの支配下にあった筈のラヴェンナも、ドサクサに紛れてローマ教皇へと献上されてしまった。世に言う「ピピンの寄進」である。
レオの含みのある発言に、パーティに参加していたフランク人たちの視線が鋭くなる。
その様子を見て、皇太子はかぶりを振って冗談めかして続けた。
「何、別に恨んでなどいませんよ。そもそもランゴバルド軍に敗れ、ラヴェンナを放棄する事になったのは我が国の力不足によるもの。
仮にあの地を我らに返還された所で、ロクに維持できず奪い返されてしまう未来は目に見えていましたからね。
そもそも今の我が国の事情はご存知でしょう? とってもじゃあないが、海外の失われた所領の奪還などに動ける状態ではない」
自嘲めいて微笑むレオ。アンジェリカも彼の祖国・東ローマ帝国の混乱ぶりは耳にしていた。
その原因は先代の皇帝・レオン3世――レオの祖父に当たる人物――が発した「聖像禁止令」にある。
キリスト教においては信仰の対象として、聖人の像や絵画が多数存在した。東ローマ帝国の国教・ギリシア正教会ではこれらを
しかし聖像は度々批判の対象に遭い、聖職者の間でも是非を問う議論がしばしば巻き起こった。何故ならキリスト教の原型たる旧約聖書において、モーセの十戒の中に「偶像を作ってはならない」という文章が存在するためだ。
加えてアラビア半島を座巻し、小アジアを脅かしたサラセン帝国の存在がある。彼らもまたクルアーン(コーラン)の教えにより偶像崇拝を禁じており、神や聖人の像を崇めるキリスト教圏を度々批判・嘲笑していた。
聖像論争に終止符を打つという名目の下、皇帝からの徴税・徴兵をも拒否できるほど強大な権限を持っていた教会の力を削ぐため、禁止令は発布された。サラセン帝国との戦争に対抗するため、安定した軍事力と税収は最重要課題であった為だ。
しかしこの聖像禁止令は西方キリスト教会の反発を招き、さらには東ローマ国内の聖像肯定派との対立で国内が割れるという惨事を招く結果となった。
後継の現皇帝コンスタンティノス5世はさらに禁令を強め、苛烈な弾圧を進めているとの噂は、アンジェリカも聞いた事があった。彼は「軍神」と讃えられるほど戦に強く、北の宿敵ブルガリアとの戦いで華々しい勝利を積み重ねている。その為軍人や民衆からの支持は高いのであるが。
「我が父は更なる弾圧政策を国内で進めていますが――それもやがて行き詰まる事でしょう。
苛烈な排斥は根強い抵抗を招き、国を強くするどころか疲弊させてしまいます。
この流れを、どうにかして変えなければならないのです。例え我が代にて、為し得なかったとしても。行き過ぎた弾圧を緩和し、本来の姿に国を正さなければならない」
皇太子レオは穏やかに、しかし内に秘めし情熱を込めて語った。
(なるほど。将来を見越して聖像禁止令を撤廃するために、今の内から西方教会を奉じるフランク王国とのパイプ作りに励んでるって訳ね。
そんでもって、サラセン帝国とのゴタゴタに手を焼いているシャルルマーニュを密かに支援し、恩も売ろうって魂胆か)
アンジェリカの推測は恐らく正しいだろう。現状では皇太子の権限は少なく、面と向かって父と対立する道は取れない筈であるから。
レオの深謀遠慮に感心した
「……なるほど。フランク王国の騎士から逃れる為、恋人と共に祖国に帰りたいという訳ですか」
「はい。いずれその時が訪れましたなら、レオ皇太子殿下にお力添えをお頼み申し上げる事になるでしょう」
放浪の美姫の言葉に、レオは少しだけ眉をひそめた。
「いずれその時――という事は、今はまだ旅立たないのですか?」
「はい。殿下とお会いして興味深いお話を伺いましたので――帰る前に会っておかなければならない方がいる、と思い当たりました」
レオの顔がいつもの世界線と違う。違う顔に見えたのは一瞬だけであったが、気のせいではない強い確信があった。
この事実をブラダマンテ、あるいはロジェロに伝えなければならない。
あの二人が探し求めているのは、間違いなくこの人物であろうから。
「もしレオ皇太子の耳に、女騎士ブラダマンテあるいは異教の騎士ロジェロの動向の情報が入りましたら、お教え下さいませ」
「ほほう――ブラダマンテ、ですか」
女騎士の名を聞いた途端、レオは表情を輝かせた。
「ご存知、なのですか?」
「いいえ。会った事はありません。ですがアンジェリカ姫。もし貴女が彼女と再会する事があれば。
お伝えいただけませんか。『東ローマの皇太子レオ、見目麗しきブラダマンテに是非一度、目通りを願いたい』とね」
レオ――
女騎士ブラダマンテの正体が
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