2 エチオピア王セナプスの悩み

 ここは紅海。アフリカ大陸とアラビア半島の間にある海。

 その両岸を支配する国がある。エチオピア王国――当時はアクスム王国と呼ばれていた地域だ。


 エチオピアは紅海航路を通じて交易で栄えた国で、インドや東ローマ帝国と深い繋がりがあった。

 象牙・鼈甲べっこう・金・エメラルドといった、いかにもな貴重品ばかり輸出しており、その代わりに絹や香辛料、手工業製品を輸入していた。

 なお作者アリオストは原典に堂々と「貴金属も香辛料もエチオピア発祥です!」などと、大恥をかくような記述を残している。彼の頭の中には、インドとの交易という発想はなかったらしい。


 そんなエチオピアの地に、空を飛んでやってきた二人の騎士がいた。


 翼の鞍をつけた魔法の名馬ラビカンに乗ったロジェロこと、黒崎くろさき八式やしき

 空飛ぶ幻獣ヒポグリフに乗ったイングランド王子アストルフォである。


「見てごらんロジェロ君! あの妙に高い柱!

 あれがエチオピアの地にキリスト教を広めたというエザナ王の石柱さ!」


 全高70フィート(約23メートル)はあろうかという巨大な石柱は、確かに空から眺めても目立つ。

 エチオピアは4世紀頃にエザナ王の手で教化され、アフリカ最古のキリスト教国となった事で知られる。いわゆるエチオピア正教会である。


 二人が降り立ったエチオピアの王都アクスムは、交易を行う種々雑多な人々によって大いに賑わっていた。


「あれ? ボクが聞いた話じゃ、エチオピアはキリスト教の国だったのに……!

 イスラム教徒もいるし、仏教徒もいるじゃないか……! これは一体どうなっているんだ……!?」


 アストルフォはショックを受けていたが、黒崎はムーア人(スペインのイスラム教徒)であるロジェロの知識と記憶を得ていたので、至極冷静だった。


「あのなアフォ殿。交易で栄えてる国なんだろ? キリスト教だけを持ち上げて他宗教を排斥なんぞしたら、お得意様が減って自分の首を絞めるだけじゃねーか。

 実際いい国だと思うぜ? これだけ色んな宗教の人間が自由に出入りできるって事は、キリスト教徒にだって市民権あるだろ」


「そんなあ……! キリスト教会の伝説によれば、アフリカの地にはプレスター・ジョンによって作られたキリスト教国があって。

 いざという時、イスラム教国を挟撃してボクたちを救ってくれるって……!」


「どこの世界にそんな都合のいい、お助けキャラみたいな連中が存在するんだよ。

 夢物語にすがらず、現実を見ようぜアストルフォ」


 エチオピア王国はメイン宗教こそキリスト教であるが、他宗教を認めている上、イスラム教徒とも実は懇意にしている。

 経典クルアーン(コーラン)によれば、エチオピアは最初のイスラム教徒たちが聖地メッカで迫害された時、匿ったとされている。

 つまりサラセン帝国との関係は良好であるし、アストルフォが期待するような、背後を刺す同盟軍として動いてくれる可能性は低い。

 キリスト教の伝説「プレスター・ジョン」に認定されるような、キリスト教国と同盟を組んでイスラムに対抗しようなどという王朝はこの当時、まだ存在しないのである。


(つーか……なんで物語世界のくせに、こういう時代的な設定だけ妙に史実に忠実なんだよ!

 オレたちにとって都合の悪い展開をわざと選択して、困らせようとしてる意地悪な神でも存在するのかね?)


 黒崎は内心舌打ちした。原典通りならば、エチオピア王セナプスを悩ませている事件はアストルフォが解決する。

 その結果、月に向かう手段を得て――狂ってしまったオルランドを元に戻す方法を得たり、数万の騎兵や船を作り出す秘法を学べたりするのだが。


(確かエチオピア王は、呪いで盲目にされているんだっけ。

 しかも食事を摂ろうとするたびに、ハルピュイアが乱入してきて食べ物を奪って汚すから、餓死寸前になっているって話だったな)


 ハルピュイアとは別名ハーピーとも呼ばれる。上半身は人間の女性、腕や下半身は鳥の姿をした怪物である。

 ギリシャ神話のゼウスやハデスの手先とされ、人の犯した罪に罰を与えるため、地獄から地上に飛び立ってくるという。


 しかしながら、ロジェロ達がいる王都アクスムは見た目、平和そのものであり――半人半鳥の醜い怪物が跋扈している様子は今のところない。

 ロジェロとアストルフォは市場で交易をしている商人などに聞き込みをし、国王の人となりや様子の情報を得た。どうもセナプス王は別の事柄で頭を悩ませているようだ。


「セナプス王は食事を用意してもまったく喉を通らず、痩せ衰えているって話だ。

 料理を食おうとすると決まって『ハルピュイアが襲ってくる!』と叫び、震えてうずくまっちまうらしいぜ」

「ふざけんなっ! 何だよその展開と設定!?」


 思わず黒崎は地が出て悪態をついてしまった。原典のハルピュイア問題が、国王の幻覚症状にすり替わっている。

 つまりハルピュイアを直接退治するなり、追い払うなりすればよかった筈の問題が――このままでは解決しない。


「ロジェロ君。とりあえずエチオピア王に会って、話を聞いてみる事にしよう」


 アストルフォの提案に同意し、王宮を訪れると――驚くほどすんなりと中へ案内された。

 キリスト教会の神託によれば「空飛ぶ馬に乗った騎士たちが、国王の悩みを解決するだろう」との事で、ロジェロ達はその条件に合致したのだ。


 謁見の間で会ったエチオピア王セナプスは、痩せこけて目も虚ろで、落ち窪んだ瞳はギラついていた。

 テーブルの上には豪勢な食事が並んでいるが、王は恐ろしげに鼻をつまみ、一口も手をつけようとしない。


「……ハルピュイアが……あの汚らわしい怪物のせいで、儂の食事は糞尿まみれにされておる……」


 うわごとののように呟くセナプス王。彼の目は盲いているため、ロジェロ達の姿を認識してはいないようだ。

 勿論、この場にいる誰の目にもハルピュイアの姿など見えない。そもそも盲人であるエチオピアの王に、何故ハルピュイアがいるなどと分かるのか?


(なんだこりゃ……思った以上に厄介な事態だぞ……

 原典みたいにアフォ殿が恐怖の角笛を吹き、ハルピュイアを追っ払って解決ってできそうにもねえじゃねえか!)


 隣に立つアストルフォは、物怖じせず堂々と振る舞っているが――果たして事態の深刻さを把握できているのだろうか。黒崎は目の前が真っ暗になるほどの絶望感を味わっていた。

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