第6章 アストルフォ月へ行く

1 ブラダマンテ、エチオピアへ

 夕暮れ時。女騎士ブラダマンテが再びマルセイユに帰還する直前。

 道端に見知った女性の姿があった。尼僧メリッサである。


「メリッサ! 久しぶりじゃない。どこ行ってたのよ!」


 パッと顔を輝かせるブラダマンテに対し、メリッサは薄く微笑んだ。


「ブラダマンテこそ――ご無事で何よりですわ」

「? どうしたのメリッサ。なんかこう……テンション低いわね。

 何か嫌な事でもあった? それとも体調悪いとか」


 ブラダマンテが気遣わしげにしているのも無理はない。

 いつものメリッサであれば、女騎士の姿を認めるなり、清楚な美人の顔をだらしなく弛緩させ、満面の笑みを浮かべて発情した犬の如くすり寄ってくるのが普通であったが。

 今日に限って妙に大人しい。口調も笑顔もどことなくぎこちない。


「大丈夫です。心配ありませんわ」

「いやホント、全然そうに思えないぐらい冷静すぎるんだけど」


「じゃあ、再会を祝したハグでも致しましょうか」

「…………うん」


 普段であれば提案された瞬間、一も二もなく全力で拒否するのがブラダマンテの常であったが。

 今に限っては酷く心配になった。もし拒絶したら、彼女は二度と自分の前に姿を現さないかもしれない――そう思えるぐらい、夕陽を浴びた彼女の顔は儚く見えたのだ。


 メリッサはそっと近づき、ブラダマンテの腰に手を回す。

 当然ながら女騎士は武装している。冷たい鎖帷子チェインメイル越しの抱擁など、体温が伝わるかどうかも怪しいものなのだが。

 優しくも切ない抱擁は、さながら恋人同士の熱愛の証のようにも――あるいは、家族のような慈しみの顕れにも見えた。


「……いつもみたいに、匂いめっちゃ嗅いだり、お尻まさぐろうとしないのね」

「…………」


「……もしかして偽者?」

「……失礼な。私はメリッサですよ、ブラダマンテ。

 ただ、普段みたいに嫌がったり、抵抗したりしないのを……触ってもね?」


「……あ、そうなの……」


 からかうように言って微笑むメリッサ。特に妙な事態にもならず抱擁は終わり。


「ブラダマンテ。ロジェロ様の居場所が分かりました。

 北アフリカはエチオピアという国に向かっています。アストルフォ様と一緒に」

「……そうなんだ。ねえメリッサ。

 また天馬ペガサスに変身して、ロジェロの下に向かってもいい?」


 ブラダマンテの提案に、メリッサは「もとよりそのつもりです」と答えた。

 メリッサは変身の魔法に長けている。物陰に隠れて服を脱ぎ、呪文を唱えれば――たちまち美しい毛並みの、翼の生えた白馬の姿になった。


 もう何度目だろうか。こうしてペガサスに乗って空を駆けるのは。


「メリッサ。最初に会った時からずっと不思議に思っていたのだけど。

 どうしてわたしに対して、ここまで尽くしてくれるの? 予言だから?

 確かメリッサって、魔術師マーリンがご先祖様よね? で、わたしがエステ家の祖先になるって運命づけられているのだっけ」


 ブラダマンテが言った通りの理由で、メリッサは彼女の従者を続けている事になっている。

 実際は違う。メリッサは本当はマーリンの血など引いていないし、そもそもどこの誰を先祖としているのかも定かではない。

 最初に出会った時に見せた「マーリンの亡霊」も、メリッサの主である魔法使いマラジジが事前に仕込んだ幻影だ。メリッサは命令に従ったに過ぎない。


「ええ、勿論それもありますけれど――」


 本当の事は言えない。「メリッサ」がただの役割に過ぎず、彼女自身には名乗る名すらないという事を。

 彼女は過去に忘れ去られた異民族の隠密集団「アシュタルト」であり、マラジジの命令が絶対であるという事を。

 しかし――メリッサは女騎士ブラダマンテと接している時、自分が道具ではなく「人間」になれたような、そんな気がしたのだ。


「――ブラダマンテが、ブラダマンテだからですわ」

「何よそれ。答えになってないじゃない」


「――そう、でしょうか――」

「そうよ!」


 ちゃんと教えなさい、と食い下がる女騎士に「じゃあ、秘密です」とつっぱねるメリッサ。

 たちまち彼女は頬を膨らませるが――それ以上は追及してこなかった。

 

 こんな何気ない、他愛無い会話でも。メリッサの今までの人生に比べれば、それはとても幸福で。

 たとえ仕組まれたもので、自分が選ばれたのも単なる気紛れだったとしても。

 神に感謝せずにはいられない。メリッサはそう――胸の内で思うのだった。


**********


 フランス中央部、オルレアン近くの農村。

 意識を失ったオルランドが放り投げた、聖剣デュランダルの下に――身の丈7フィート(約2.1メートル)近い筋骨隆々の髭面の巨人が近づこうとしていた。

 彼の名はモルガンテ。オルランドに仕える忠実なる従者である。


 アンジェリカの誘惑の術テンプテーションが解けた後、主を求めてあてどなく彷徨っていたが――ようやく辿り着いたのだ。

 主人が目覚めるまでデュランダルを守護すべく、剣を拾おうと近づいたその時。


 素早く馬が駆け寄って来て、颯爽と飛び降りる東洋風の武者の姿があった。

 彼は目にも留まらぬ身のこなしで、モルガンテが拾い上げようとした聖剣をかっさらう!


「くはははは! これぞまさしく聖剣デュランダル!

 何故こんな所に落ちている? 実に不用心な事だなァ」


 闖入者ちんにゅうしゃの正体は――タタール王マンドリカルド。

 トロイの英雄ヘクトルの武具に執心し、同じくヘクトルの武器と伝わるデュランダルと、その持ち主オルランドをつけ狙っていた男だ。


 主の剣を横取りされ、モルガンテは怒りの咆哮を上げた。

 盗人を誅すべく、大木のような腕を伸ばし、不埒なタタール武者を捻り潰そうとする。


 しかし次の瞬間、巨人の両腕から凄まじい鮮血がほとばしった!

 彼の巨腕は二本とも、肘から先をデュランダルで斬り裂かれてしまったのだ。


(なるほど、噂に違わぬ素晴らしき切れ味よ!

 両刃剣ロングソードに慣れぬ俺様ですら、これほど容易く扱えるとはな。

 オルランドはどこへ行った? 臆病者め。このような名剣を手放して、一体何処に雲隠れしたのだ!)


 凄まじい絶叫を上げるモルガンテ。鬱陶しげにマンドリカルドは聖剣を振るい、瞬く間に巨人の首を刎ね飛ばした。

 主の武器を守ろうとした従者の呆気ない最期だった。


 こうしてデュランダルは、タタール王の手に渡った。

 オルランドが再び目覚め、手のつけられない野獣の如く暴れ回るのは、この二日後の事である。

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