15 海魔オルクの脅威

 美姫アンジェリカはびっしりと吸盤の生えた触手に足首を掴まれ、凄まじい勢いで海中に引きずり込まれようとしていた。

 これは海魔オルクの持つ肉体の一部。このままではアンジェリカは怪物に一呑みにされてしまう!


「冗談じゃないわ……死んでたまるかっての!」


 砂漠の孤島に打ち捨てられた時は、自暴自棄になって死を願うほど絶望した彼女だったが。

 いざ怪物に喰われそうになると、湧き上がったのは生存本能であった。


 どこに隠し持っていたのか、ボロボロの衣服の懐からナイフを取り出し、掴まれている触手に斬りつける。

 ぬめり、弾力のある肉には非力で小さな刃は全く通らず、滑ってしまった。


「ううッ、やっぱりダメか……!」


 アンジェリカは触手に持ち上げられ、宙を舞った。

 砂浜を引き摺られないだけマシではあったが、海に落ちれば終わりだ。


(こうなったら……あんまやりたくないけどッ……!)


 絶世の美姫は、虚空を舞っている間に素早く呪術の印を結び、触手に魔力を押し当てた!

 電撃のようなショックを起こす魔術。殺傷能力には乏しいが、お手軽かつ一時的に敵を怯ませるにはうってつけであった。

 しかし触手とアンジェリカの足首が触れ合っている以上、ショックは彼女自身をも襲う。ビリッと来る衝撃を、涙目になりながら堪える!


「ひぎッ!?」


 全身を鞭打たれたような衝撃に耐えた甲斐もあって、オルクの触手は戒めの力を緩めた。

 アンジェリカの身体はすっぽ抜け、砂浜に投げ出された!


「あッぅ~……」


 満身創痍になりながらも、どうにか海魔オルクの魔手から脱し、フラフラと起き上がるアンジェリカ。

 そこにザッ、と砂を踏む人影が近づいてきた。


「……愚かな娘だ。そのままオルクに一呑みにされておれば、これ以上苦しまずに逝けたものを」


 現れたのはアンジェリカの衣服よりもさらにボロい布を纏った、痩せこけた幽鬼のような表情の老人。

 海神プロテウスに仕える神官の隠者である。


「娘よ。貴様を許す訳にはいかん。貴様のせいで……

 貴様がワシを誘惑したせいで! 我が馬は未来永劫、自力で立つ機会を奪われてしまったのじゃッ!」


 ここでいう「馬」とは、彼の下半身にあるモノの暗喩だ。

 彼はアンジェリカをこの島にさらってきた時、禁を破って欲情した結果……罰を受けてしまった。彼の「馬」は物理的に切断されてしまったのだ。


 血の涙を流さんばかりの老人の形相にも、アンジェリカは怯まず言い放った。


「はン。あなたの馬なんて、どうせ足腰立たない駄馬も同然だったでしょ。

 だったらあってもなくても一緒じゃない! 自業自得よッ」


「にゃ、にゃにおー!? 貴様ァ! 男に言うてはならん事をッ!?

 絶対に許さんぞォこの売女ばいためッ!

 是が非でも貴様を海魔オルクの腹ン中に放り込んでくれるわァァァ!!」


 何とも聞くに堪えない卑猥な悪口雑言の応酬の後──美姫と隠者の醜い取っ組み合いが始まった。


**********


 天馬ペガサスに乗った女騎士ブラダマンテと、幻獣ヒポグリフに乗った騎士ロジェロが、砂浜に駆けつけた時アンジェリカと隠者の格闘の場面が目に映ったが……

 騒がしいのは海面であった。奇妙な大渦を巻いており、その中心に得体の知れぬ巨大な怪物が潜んでいるのが見える。


「アンジェリカ! 化け物には喰われてねえようだが……」


 ロジェロは空飛ぶ馬からアンジェリカの下に近づこうとしたが。


「危ないロジェロッ!」


 海から伸びた数本の触手が、恐るべきスピードでロジェロの乗るヒポグリフに迫っていた。

 すかさずブラダマンテの駆るペガサスが割って入った。そして手に持つ黄金の槍を使い、全ての攻撃を防ぐ!


(この槍、凄いわね……狙ったところに必ず当たるし、当たったモノは何でも弾き返せる!

 アストルフォって人の武器だっけ? 後でお礼言っとかなきゃ……)


 元はアンジェリカの弟の持ち物だった黄金の槍は、馬上槍試合で振るえば絶対に敵に命中し、かつ落馬させるというチート性能を持つ。

 ブラダマンテ──司藤しどうアイは、槍の力の正体には気づいていなかったが、上手い具合に使いこなしていた。


「司……じゃなかった、助かったよブラダマンテ。……それにしても厄介だな。

 アンジェリカを助けようにも、海魔オルクをどうにかしなきゃならん」


 ロジェロこと黒崎くろさき八式やしきは、海の底に潜む怪物の手強さを改めて思い知った。

 海魔オルク。原典の挿絵では大海蛇シー・サーペントのような容貌であった筈だが、今出てきたのは蛸の足のような触手。

 頭部以外に生物らしき特徴はなく、イノシシのような牙が生えているという描写しかない事からも、黒崎の知らない特徴が追加されているのかもしれない。


「黒……じゃない、ロジェロ。あんた原典知ってるんでしょ?

 あの海魔オルクとかいうの、一体どうやって倒したのよ?」


 アイは黒崎に近づいて、小声で攻略法を尋ねた。


「確か……思い出した! オレの養父アトラントの円形楯ラウンドシールド……!

 コイツの魔法の光を使って、目くらましをして退けたんだよ──」


 黒崎はパッと表情を明るくして、左手に持つ赤い布で覆われた楯を使おうとし……愕然とした。


「……海魔アイツの頭部がさっきから出てこねえ!」

「ダメじゃないのそれじゃあ!?」


 魔物の目を潰そうにも、頭が海上に出ていなければどうしようもない。


「う、うっせーな! 原典だと、生贄にされるアンジェリカを喰おうと頭出してる絶好のチャンスがあったんだよッ!

 今砂浜で取っ組み合ってる彼女に、今更囮になれ、なんて言えねえしなぁ……困ったな」

「正攻法でどうにかならないの?」


「無理だな。サイズが違い過ぎるし……そもそもアイツの身体、外皮がものすごく硬いんだよ。

 オレたちの武器じゃ多分、まともに傷つけるのも難しいだろう」

「じゃあ、やっぱりその楯の力を使うしか……!」


 その刹那、天馬ペガサスに変身している尼僧メリッサが警告の声を上げた。


『お二人とも! お逃げ下さいッ!』


 海から再び飛び出した、無数の怪物の触手がブラダマンテ達に襲いかかってきたのだ!

 二人は咄嗟に空飛ぶ馬を駆り、宙に逃れようとしたが……ロジェロの左腕を触手の一本が掠め、頼みの綱の円形楯ラウンドシールドが弾き飛ばされ、海の中に落ちてしまった!


「あっ……やっべ」

「馬鹿ァーッ! 何やってんのよ黒崎のアホーッ!?」


 一瞬の隙を突かれ、アンジェリカを救うどころか怪物への対抗手段を失い、戦況はさらに悪化してしまったのだった。

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