第2章 悪徳の魔女アルシナと海魔オルク

1 ブラダマンテ、待ち人を待ち続ける

 環境大学教授・下田しもだ三郎さぶろうは、心配そうに司藤しどうアイに事の次第を訊いた。

 しかしアイが、ロジェロ役となった黒崎くろさき八式やしきと話し合い、協力関係を築けたのを知り、安堵した様子だった。


『原因は不明だが、ブラダマンテの回想シーンにいたはずの綺織きおり先輩は、この魔本”狂えるオルランド”の管轄外での出来事だったからだろう。

 私も正直、こんな事になるとは予想外だった――本当に済まない』

「……もういいわよ。不本意だけど、いつまでも文句言っててもしょうがないし」


 下田教授によれば、綺織きおり浩介こうすけもまた別の配役で物語に参加している可能性が高いという事。

 そして今「魔本」の中に引きずり込まれているのは、アイを含めて3人だという事を説明された。


「ねえ下田。貴方からは黒崎に助言、直接は送れないの?」

『試みてはみたんだが……やはりダメらしい。

 こうして話ができるのは、アイ君だけだと改めて発覚したな』


 望み薄だとは思っていたが、改めて知らされると少し残念だった。


「……黒崎。仮の話、なんだけどさ」

「……何だよ?」


「アトラントさんが言ってたの。アンタが――いえ、ロジェロがわたしと結ばれるために。

 キリスト教徒に改宗したら、悲惨な死の運命が待っているんですって」

「ああ。その話だったら……オレもアトラントから散々聞かされたよ」


「もしもさ、わたしが――イスラム教に改宗して、ロジェロと一緒になったら。

 死の運命とかいうのも、回避できるんじゃない?」

「……馬鹿な事を言うもんじゃねえぞ、司藤」


 いつになく真剣な表情で、黒崎はアイに顔を近づけた。


「いいか司藤。この話に出てくるサラセン人は、基本的にみんな悪役で、やられ役なんだ。

 ほとんどの奴らは悲惨な目に遭って死ぬ。数少ないマトモな連中は、キリスト教に改宗しちまう。

 ……良い悪いの問題じゃねえ。そういう『物語』なんだよ。

 こんな話で、ブラダマンテがイスラム教徒に転向なんかしてみろ。どんな悲惨な目に遭うか――」


 そこまで話して、アイの驚きと怯えの表情に気づいたのだろう。黒崎は慌てて目を背けた。


「…………悪い、怖がらせちまって」

「……ううん、気にしないで。こちらこそ、ごめんなさい。

 黒崎って――詳しいのね。このお話、読んだことあるの?」

「ん、ああ。大分前だけど……ちょっとばかし、な」


 物語に沿った場合、ブラダマンテとロジェロは行動を共にする事はまだできなかった。

 ロジェロはイスラム教徒であり、サラセン帝国に忠誠を誓う騎士である。異教徒と恋に落ちたからといって、即座に裏切って寝返る訳にはいかないのだった。


「オレの事なら心配ねえ。たとえキリスト教に改宗したとしても。

 その『死の運命』ってヤツは『狂えるオルランド』の最終歌の、さらに先の数年後の話だ。

 この物語が終わってオレたちが脱出できるなら、オレだって助かる筈さ」

「……そっか。ちょっと安心した」


 アイの顔に笑みが戻ったのを見て、黒崎もホッとした様子だった。


「アトラントが捕えていたフランク人騎士たちと共にフランク王国に帰り、シャルルマーニュの指示を仰ぐんだ。

 オレはその間に、お前と合流できるよう手筈を整えておくからさ」

「うん。分かった――待ってるから。

 綺織きおり先輩も探さなくっちゃね。三人で一緒に、脱出できるように」


 未だ行方知れずとはいえ、綺織きおり浩介こうすけもこの本のどこかで生きている。

 黒崎はそれを聞いて「ああ、そうだな」と頷いた。


「そうだ、司藤――あの時は、その、悪かったよ」

「え?」

「お前が……綺織きおりに告白した後で、面白半分に――からかっちまって。スマン」


 いつになく真剣な表情で、頭を下げる黒崎。

 アイはキョトンとしていた。謝罪されるとは思っていなかったのだろう。


「……とっくに済んだ事だし、もう気にしてないわ。

 わたしだってあの時、アンタの事思いっきりブン殴っちゃったし。

 今回色々と助けて貰ったしさ。チャラって事で、いいんじゃない?」

「……ありがとう」


「さっきから、随分としおらしいわね。まるで黒崎じゃないみたい」

「どーゆー意味だよ!?」


 黒崎は思い返していた。

 確かに殴られた時に腹は立ったが――アイの「表情」を見た時、そんな気持ちは吹き飛んでしまっていた。

 自分は、取り返しのつかない事をしてしまったのかも知れない。そう思い、何も言わずに立ち去るしかなかった。


(とにかく、ちゃんと謝れて良かった。

 ひょっとしたら、コレが最後の会話になるかもしんねーし……な)


**********


 ブラダマンテこと司藤しどうアイは、ロジェロやメリッサと別れ、仲間の騎士たちと共に祖国へと帰還した。

 国王シャルルマーニュはブラダマンテ達の無事を心から喜び、また数多くの同胞を解放したブラダマンテの功績を讃えた。

 彼女は地中海に面する交易都市マルセイユの守備隊長に任命され、迫りくるサラセン帝国軍から街を防衛する事となった。


 アイは、ブラダマンテとしての任務を全うするため、日々鍛錬を続けていた。


(歴戦の女騎士に相応しい度胸と、実力を身につけなくちゃ。

 あの時みたいに、恐怖で震えて動けなくなるなんて失態を犯したら、黒崎や皆の足を引っ張ってしまう――)


 アイの必死の決意に呼応するかのように、女騎士ブラダマンテの身体は驚異的なスピードで戦いの勘を取り戻していった。

 平常心でも敵の殺気を見極めるコツ。とりわけ彼女が欲した、必要以上に相手を傷つけず、戦意を喪失させるための槍術や剣術。

 現実世界のアイでは身に着けるのにどれだけかかるか分からない、熟練を要する技術を短期間で修得できる。

 この時ばかりは、チートな実力を誇るブラダマンテに憑依できた事を、アイは心からありがたく思った。


 しかし――再会を約束したロジェロこと、黒崎くろさき八式やしきの来訪はおろか、連絡さえぷっつりと途絶えた。

 当然、不安が芽生える。しかし責務を放り出す訳にも行かず、鍛錬や防衛に心を砕く日々を送った。


 そんなある日、訪問者があった。


「どうした、我が妹ブラダマンテよ!

 そなたの名声は日増しに高まっているというのに、浮かない顔だな!」

「あ、貴方は――リッチャルデット兄さん」


 アイはブラダマンテとしての記憶を呼び起こし、訪れた騎士――二番目の兄・リッチャルデットを出迎えた。

 リッチャルデットは、フランス南中央に位置するモンタルバンの砦の守備隊長だ。


「モンタルバンの守備の方は大丈夫なの? 兄さん」

「うむ――モンタルバンは未だ健在だ。だがそれが、良き報せとは限らない」


 リッチャルデットは、ブラダマンテによく似た端正な顔を曇らせた。


「憎きサラセン帝国軍は、大西洋側に戦力を集中させる方針に転換したらしい。

 我が兄リナルドたちの奮戦虚しく――先日、ボルドーが陥落した」

「なんですって――」


 これまで幾度か、サラセン軍はマルセイユに攻め寄せて来たが、いずれも散発的なもので、特にブラダマンテが奮起しなくとも撃退できる程度であった。

 彼女の采配が優れていた訳ではない。単に敵の主力がこちらを向いていなかっただけの事だった。


「実はな、妹よ。今回マルセイユを訪れたのは、戦況報告だけではない。

 そなたにどうしても会いたいと願う者がいてね。取り次ぐ事にしたのだ」


 リッチャルデットに促され、彼女の部屋に入ってきたのは、見覚えのある二人だった。

 一人はブラダマンテの理解者にして協力者、預言者でもある尼僧メリッサ。

 もう一人は、アトラントの城に捕えられていた騎士。スペイン人のフロリマールであった。

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