7 下田三郎、本の悪魔と対談する

 現実世界。環境大学の講師室。

 大学教授・下田しもだ三郎さぶろうは魔本「狂えるオルランド」の記述を読み進め、思わず念話で叫んだ。


「おいッ! 司藤しどうアイ君! 大丈夫かッ!?……くっ、返事がない。

 谷底に落ちて意識を失ったか、最悪の場合、死んで――?」


 本来の「狂えるオルランド」の展開なら、不実な騎士ピナベルに裏切られてブラダマンテが谷底に落下するのは、必然のイベントである。

 ブラダマンテが真に主人公たるチート女騎士であるならば、この程度で死ぬ筈がない。ないのだが――


 下田教授は魔本の展開と、新しく取り寄せた「普通の」狂えるオルランドの内容を読み比べ、愕然とした。


「……どういう事だ? これは……?

 ブラダマンテに救援を求める王の使者が、ブルネロとかいう泥棒に殺されているじゃあないか……!

 そのせいで裏切りの騎士ピナベルが、ブラダマンテをクレルモン家出身の騎士と知り逆恨みする展開にもなっていない……」


 「狂えるオルランド」の詳細を知らない読者には、いささか分かりづらい話かもしれないが。

 要するに「原典と微妙に違う展開」になっているという事である。


 下田は額に冷や汗を浮かべ、アイが吸い込まれた魔本を一旦閉じた。

 そしてタイトルの文字に向かって呼びかける。


「何なんだこれはッ! どうしてこうなった!? 説明しろォッ!!」


 傍から見ればその様子は、本に向かって怒鳴りつける頭のおかしい中年男にしか見えなかったが。

 下田の言葉に応え、タイトルのイタリア語文字……「Orlando Furioso」のうち「Furioso」の部分が不気味に蠢いた。


 Furiosoフリオーソ。イタリア語で「激しく」「熱狂的に」といった意味を持つ単語だ。

 文字の配列がかき混ぜた絵の具のように動き回り……やがて凶悪な悪魔じみた顔のようになった。


『何も驚くに値しないんじゃあないかい……下田。

 引きずり込まれた人間の潜在意識によって、物語の詳細は毎回異なっていくものなのさ。

 誰がやっても、毎度毎度同じ話じゃあ、つまらないだろう?』


 甲高く不快な、作り物めいた癪に障る声だった。

 下田にしか認識できず、下田としか意志疎通できない。この本に宿る「意思」。

 下田教授がアイを選んだのは、彼の独断ではない。

 この本から聞こえる声に従ったのだ。いや、従わざるを得なかったのだ。


「本の内容が面白いかつまらないかなど、どうでもいいッ!

 私の目的は、本に引きずり込まれたアイ君や綺織きおり君を脱出させる事だけだッ!」


『だったらなおの事、積極的に協力してほしいね。

 こっちの目的は、よりよい物語の過程と結末を見る事なんだからさ。

 ボクが協力的なほうが、話は進めやすくなると思うよォ?

 そうやって怒鳴り散らすばかりじゃあなく、ボクのご機嫌取りをした方がいいんじゃない?

 彼女……司藤しどうアイだっけ? なかなかの逸材じゃあないか。

 彼女をみすみす死なせたくないって点じゃ、お互いの利害は一致するだろう?』


 本の声は、焦る下田を煽るかのように嫌らしく囁いてきた。

 死なせたくない? 恐らく本心ではあるまい。

 下田にはそう確信するだけの証拠があった。


「貴様。そんな風に何人もの人間をこの本の中に引きずり込んで、殺したのか!」


『人聞きが悪いなァ。殺してなんかいないさ。

 失敗した人々の魂は、ちゃんと大事に保管してある。傷ひとつつけちゃいない。

 本の末尾に、名前の一覧が載っていただろう?

 失敗したのに命を取らずに保護してるんだぜ、ボクは?

 感謝されこそすれ、誹謗されるいわれはないと思うんだけどなァ』


 下田は憤りの余り歯ぎしりした。

 本の「声」の言う通り、確かに載っていた。

 本の奥付の下に、見知らぬ男女の名前の一覧が。

 その数なんと45人。念のためインターネットを通じ調査してみたが――皆、行方不明者として何年も、何十年も捜索願を出されている人々ばかりだ。


「……悪魔だ。貴様は――この本に宿る悪魔でしかないッ……!」


『何とでも言いなよ。そんなにボクが気に食わないのなら。

 いっそ、本ごとボクを燃やしてくれたっていいんだよ? それで万事解決だ。

 これ以上の犠牲者は出なくなる。でも勿論……本の中に引きずり込まれた人々は皆、助からずに死ぬけどね?』


「ぐぐぐッ…………!!」


『まあそう、いきり立つ事はない。

 下田三郎。ボクはきみの事は結構気に入っているんだよ?

 何しろこの本に引きずり込まれず、ボクの声を聞ける上、意思疎通が可能な人間なんて、今までいなかったんだ。

 しかもブラダマンテに憑依しているアイと直接会話までできるんだぜ? 凄い事だよこれは!

 きみたちのような好条件に恵まれた”読者”は初めてさ。だからボクも結構、期待してるんだ。

 状況は思ったよりも悪くない。今まで失敗した45人に比べれば――ね』


 本の悪魔は猫なで声で下田に語った。だがこいつが、どこまで本当の事を言っているのやら。下田には見当もつかなかった。


『そんな素敵な下田に特別サービスで重大な情報をひとつ、教えちゃおう。

 物語通りの展開――ハッピーエンドに司藤しどうアイを導きたければ、先の展開の答えを”あらかじめ教える”行為は控えるべきだ。

 今のでハッキリしたけれど――きみが彼女に情報を与えれば与えるほど、物語の展開がご都合主義から外れ、原典よりも厳しい事態に陥る』


「なん……だと……」


 下田は絶句した。

 確かに作中の敵、泥棒の小男ブルネロが賢く立ち回りすぎている。

 彼は原典では、ブラダマンテに嘘をつかれ騙されて、不意打ちで指輪を取られて縛り上げられるだけの、いわゆる「やられ役」に過ぎなかったのだ。


 異世界転移モノで鉄板の「知識のアドバンテージ」が使えない。

 いや正確には使えるが、使ってしまえば物語の難度が上がる。酷い設定である。


『リラックスしなよ、下田? まだ物語は始まったばかりだよ?

 今からそんな調子じゃ、最終歌に至るまで身体が持たないよ。

 それにホラ――先を読んでごらん。

 我らがヒロイン、ブラダマンテこと司藤しどうアイは……

 谷底に突き落とされたにも関わらず、どうにか死なずに済んだみたいだ』


 下田はがば、と身を乗り出し、再び魔本「狂えるオルランド」を開いた。

 ブラダマンテは落下する際、一緒に落ちたニレの木にしがみついていた事が功を奏して、木が山腹の出っ張りにぶつかり、落下の衝撃が幾分和らいだとある。

 彼女は谷底に落ち、したたかに身体を打ちはしたものの大した怪我もなく、僅かな時間、意識を失っていただけだった。


「よかった……無事だったか。アイ君……」

『運が良かったね。今まで14人のブラダマンテが、この落下の時点で命を落として再起不能リタイヤになっていたんだよ』


 知りたくもない情報を付け加える「本の悪魔」。

 心底性格の悪い奴だと下田は心の中で毒づいた。

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