第十一章 そして紡がれる英雄譚(3)






 *




 喜咲が立てた作戦と言う物は実にシンプルだ。


 永久機たる姫乃を使って智貴を覆う『暴食』に穴を開け、本体たる彼に攻撃する。それだけだ。


 しかし言葉で言うほど容易いミッションではない。


 智貴の暴食はまともに食らえばただでは済まない。二回ももらえばほぼ致命傷は確実だろう。そもそも智貴は空中にいるのだ。空でも飛べなければ彼に接触することすら不可能である。


 前者についてはどうにもならない。だが後者については喜咲ならばどうにかできる。


 『禁忌たる世界樹の根ユグドラシルコネクター』。


 魔術機を使わず、世界に直接接続することで超常現象を引き起こす。それがエルフの持つ魔術器官だ。


 喜咲は『禁忌たる世界樹の根』を使い、自身の周囲に風を巻き起こす。


 風は喜咲を包むと、その体をフワリと持ち上げた。風の魔術を応用した飛行魔術だ。魔力の消費は激しいが、幸いなことに永久機は魔力を消費しない。攻撃に魔力を使わないなら、十分間は飛行が可能だ。


「――戦闘に入ると言えないだろうから、今の内に言っとくね。私から出てる白い炎は基本的になんでも燃やすことができるの。それはトモ君の暴食もだけど、喜咲ちゃんにも同じ事が言えるから気を付けて。一応、喜咲ちゃんは私の契約者だから耐性を得てるはずだけど、絶対じゃないから」

「了解よ、姫乃」

「……喜咲ちゃんに姫乃って呼ばれるのはなんだか慣れないなあ」

「なによ、穂群だって呼んでるじゃない。アイツはよくて私は駄目って言うの?」

「うん? ひょっとして喜咲ちゃん焼きもち妬いてる? ラブコメの波動かな? かなかな?」

「な、なんでそうなるのよ! 私は別に穂群のことなんか……!」

「私は別にトモ君に対して、なんて一言も言ってないけどー?」


 墓穴を掘ったと理解して、喜咲が眉を顰める。顔こそ見えないが、声からして姫乃が面白がってるのは間違いない。


 こんな状況にもかかわらず、姫乃はやはり姫乃であるらしい。


『……あー、ガールズトーク中のところ悪いんだけど、こっちの準備は整ったよ』


 どうでもいいことを考えていると、聞き覚えのある通信が二人の会話に割って入ってくる。


 誠二からの通信だ。


 彼にはエルミールと、念のため悠馬も同行させて、いまだ使用可能な機銃のもとに行ってもらっている。


 姫乃が危惧した通り、システムと電源が死んでいて使い物になりそうになかった。その為、エルミールと機銃を接続して使えるよう誠二に作業してもらっていたのだ。


 不幸中の幸いは、電子制御系をエルミールのそれと接続することできたことだ。おかげで、エルミールと誠二がそれぞれ機銃を使うことで、合計二機の機銃を操作できるらしい。


「そ、そう。わかったわ」


 喜咲は頬をかすかに染めながら了解の旨を伝える。


「なら、とりあえず、通信はこのまま繋いでおいて。その方が連携を取りやすいでしょうから。それと戦闘中は会話をしている余裕はないと思うから、そのつもりで」

『了解……ご武運を、神宮さん』

「ええ、ありがとう――行くわよ、姫乃!」


 喜咲は叫ぶように言うと、同時に風の魔術を強める。


 瞬間、爆発が巻き起こった。


 大砲から撃ちだされた砲弾が如き勢いで、喜咲が智貴のもとへ飛翔する。


 そんな喜咲の存在を脅威と感じたのか、あるいは接近する永久機を危険視したのか、それまで無造作に獣の頭を伸ばすだけだった黒い繭に変化が生じた。


 繭の表面に発生した獣の頭。目も鼻もない、耳も形しかない頭がこちらを向く。


 先手必勝とばかりに、喜咲は右手に握っていた『永遠無垢の姫短剣』を振るう。


 振るわれた刀身から、白い炎が波のように広がって繭を襲った。白い炎に包まれて獣の頭が苦しそうにもだえるが、それもわずか数秒のこと。白い炎すら食い尽くして、暴食の獣が牙をむく。


 施設への攻撃を続けつつ、しかし繭から伸びる獣の頭の約半数が喜咲に向かって放たれる。


 ほぼ視界一杯の範囲の攻撃を放たれて、しかし喜咲は飛翔速度を緩めない。


 正面から迫る獣の頭を、進路を下へ取って回避する。更に左、上、回転しながら右、下。バレルロールでギリギリの位置で回避していく。


 更に二十の獣を回避したところで、獣の攻撃パターンに変化が生じた。


 先に喜咲を囲むように獣の頭が放たれ、更に真正面から放たれた獣の頭が爆発する。


 驚いて動きの止まった喜咲を包み込むように獣の頭たちが周囲の空間を駆けて、その体を黒い檻の中に閉じ込める。そして止めとばかりに大口を開けた獣の頭が、檻に躍りかかった。


「神宮さん!」


 誠二から悲鳴のような声が上がるが、予想しうる悲劇が生じることはなかった。


 黒い檻を飲み込もうとした獣の頭ごと、檻の内から生じた白い爆発がそれらを吹き飛ばす。


 『永遠無垢の姫短剣』から生じた炎による爆発だ。


 一瞬遅れて喜咲が白い光から飛び出してくる。しかし休む間もなく黒い獣が再び喜咲に襲い掛かっていく。


 今までは直線的な動きだったのが、カクカクと雷を連想させるような幾何学的な動きに変わっている。 相変わらず単調ではあるが、突然な変化と数十に及ぶ同時かつ全方位からの攻撃だ。いかな喜咲と言えどもさばききれない。


「誠二様、機銃を!」


 エルミールの声で誠二は正気に戻る。慌てて機銃を動かすと、喜咲に群がる獣の頭に向けてトリガーを引いた。


 途端、円状に配置された複数の砲身が回転しながら、轟音と共に凶悪な鉄の獣を解き放つ。


 解き放たれた鉄の獣――対魔王用特殊弾が黒い獣の頭に命中し、その黒い頭部にダメージを与える。


 一発程度では獣の頭もかろうじて怯む程度だが、数発も当たれば拡散させられる。そして機銃は連射に優れたガトリングガン形式だ。


 喜咲を襲う全ての獣を排除することはできないが援護ぐらいにはなる。そうやってできた包囲網の穴から、喜咲が逃げ出すのを見て誠二は思わず胸を撫で下ろすのだった。


 しかしそんな安心も長続きしない。


『遠藤、逃げて!』


 悲鳴のような通信の直後、喜咲を攻撃していた獣の頭たちのうち、いくらかがこちらを向くのが見えた。反射的に機銃のトリガーを引く。


 大量の弾丸を浴びて獣の頭が溶けていくが、しかし溶けながらも獣の頭が距離を詰めていく。


「遠藤!」

「駄目だよ、喜咲ちゃん!」


 誠二の元へ飛んでいこうとして、制止の声がかけられる。


 思わず足を止めたところに獣の頭が襲い掛かってくるが、『永遠無垢の姫短剣』から生じた白い炎がそれを焼き払う。追撃を嫌って、喜咲は即座にその場を離脱した。


「遠藤君の所にも意識が向いてることで、私たちへの攻撃が手薄になってる。今を逃せばトモ君に接近するのが難しくなるよ」


 加えて言えば、ここで誠二を助けに行っても、攻撃元たる智貴を覆う繭をどうにかできなければ、結局は同じことだ。むしろ三人を守りながら飛翔することなど喜咲にはできない。


 つまり誠二たちを助けるには、この場で彼らを見捨てるしかないのだ。


「……行くわよ、姫乃」


 喜咲は歯噛みしてそう言うと、再び智貴に向かって飛翔する。


 再び暴食が喜咲を取り囲もうとするが、さっきに比べれば密度は薄い。隙間を抜けて、喜咲は前へと飛翔する。


 そんな喜咲に対応するように、繭から生じる獣の頭の速度が増す。大きさこそ今までのそれより小さいが、その分身軽になったのだろう。


 振り切るため、喜咲は魔術器官に更なる魔力を込めて加速する。かすかな痛みが走るが、ここが勝負どころだ。


 しかしそんな喜咲の行動を読んでいたように、繭から無数の針が伸ばされた。もはや獣の頭すらついていない。純粋に喜咲を迎撃するための攻撃である。


 前にはまるでウニの針のように密度の濃い攻撃。更に後ろに獣の頭。


 逃げ場はない。故に、喜咲は短剣を握る右手に力を込めた。そんな喜咲の意志を受けて、『永遠無垢の姫短剣』を覆う白い炎の出力が増す。


 自身の体を回転させながら剣を振るい、前後の針と獣の頭を同時に破壊する。そうすれば智貴を覆う黒い繭はもう間近だ。


 喜咲は返す刃で繭に斬りかかる。


 『永遠無垢の姫短剣』の刀身が繭に沈み込む。まるで蜘蛛の糸に絡めたられた蝶が如く、刀身が繭に捕らわれて動かなくなった。


「だ、ダメ。今の私たちの練度じゃこれ以上出力が……!」


 流石に初めて使う魔術機では出力が上がりきらないらしい。


 喜咲を襲う獣の頭は『永遠無垢の姫短剣』から出る白い炎で処理できているが、それもいつまで持つかはわからない。少なくとも誠二が使っている機銃が破壊されれば、攻撃の密度は上がるだろう。それに炎による防御が耐えられる確証はない。


「押して駄目なら――――」


 どうするべきか。喜咲は一瞬だけ逡巡して『永遠無垢の姫短剣』を手放した。そして、


「――もっと押せ!」


 叫ぶのと同時に回し蹴りを『永遠無垢の締め短剣』の柄に叩き込んだ。


 無理やり突き込まれて、刀身が繭を貫通する。


 貫通した瞬間、それに引っ張られるようにして繭の一部がごっそり持っていかれ、中にいる智貴の胴体が露わになった。


 喜咲はすかさず自身の腰に手を回すと、誠二から渡された拳銃を取った。


 それこそが初が誠二を介して喜咲に託した切り札。


 グロック18C。軍隊でも使われていた古めだがごく普通の拳銃だ。だが当然、この場でただの拳銃など持ち出してくるわけがない。装填されているのは学園で精製した対魔王用特殊弾。それが最大装填数である十七発分装填されている。


 喜咲は迷いなくそれを引き抜くと、智貴の胴体にフルオートで全弾叩き込んだ。


 繭がすぐに復元される。しかし獣の頭を出すことなく、まるで苦しむように表面が不規則に波立つ。


 嫌な予感を覚えて喜咲が距離を取った直後、繭が爆発した。


 まるでブラックホールのように全てを飲み込む闇が研究所を飲み込む。喜咲はとっさに飛翔に使っていた風の魔術で防御を試みる。風の魔術は完全でないこそ、ほとんど闇の侵攻を防ぐことに成功した。しかし防ぎきれなかった闇が喜咲の手足を飲み込む。


 予想していたような激痛はない。対魔王用特殊弾のおかげか、どうやらこの闇に『暴食』が持つ脅威は付与されていないらしい。だがその代わりに直接脳内に響くイメージがあった。


 ――腹が減った。腹が減った。腹が減った。

 ――助けなくては。倒さなくては。守らなくては。

 ――怖がらないで欲しい。怖がられるのが怖い。怖がられるのが嫌だ。


 ――どれだけ食べても満たされない。苦しい。足りない。もっと食べたい。

 ――誰を助ければよかったのか。誰を倒さなくてはならなかったのか。誰を守りたかったのか。

 ――傷つけるのが嫌だ。傷つけられるのが嫌だ。傷つけることで傷つくのが嫌だ。


 ――美味いものが食べたい。もっと美味いものが食べたい。量が食べたい。たくさん食べたい。

 ――わからない。誰を助けたくて倒したくて守りたかったのか。

 ――辛いのは嫌だ。痛いのは嫌だ。だから生きているのが嫌だ。


 ――もっともっともっと。もっとよこせ。とにかく食わせろ。

 ――わからないわからないわからない。なにをしたいのかがわからない。

 ――誰かを傷つけるのが怖い。嫌われるのが怖い。生きているのが怖い。


「これ、は?」


 本能的に、それが智貴の心の声なのだと理解した。


 何故そんなものが見えたのかはわからない。そもそも魔王の断片相手に常識を期待する方が間違いだろう。


 彼の苦しみが直に伝わるようなイメージに、喜咲は一瞬胸が締め付けられるような思いに駆られるが、しかしそんな余裕はすぐに失われる。

 脳裏によぎったイメージ。その情報量があまりに過密で頭痛を生じだしたからだ。


「ぐ、あぁぁぁぁ……!」


 思わずうめき声を上がってしまうほどの情報密度。ともすれば気を失いかねないほどのそれを受けて、喜咲は魔術の行使を止めてしまう。

 そしてそこでやっと闇の放出が止まり、喜咲は宙に放り出された。


「く……!」


 咄嗟に気力を振り絞って、風の魔術を再展開。高度を落としながらも喜咲は再び滞空した。


 智貴の方を見てみれば、繭はところどころ剥がれ落ち、中にいる彼の姿が露出している。しかしその意識は戻っていないようだ。力なく項垂れた格好で、智貴は繭の残骸に捕らわれている。


 未だ暴食は完全に消えていないが、手を伸ばせば届きそうな位置に智貴がいる。


 繭の残骸から彼を引っ張り出せば、智貴を助けることができる。


 反射的に喜咲は頭痛の抜けきらない頭で、手を伸ばそうとして、


「喜咲ちゃん、ダメ!」


 繭から新たに発生した獣の頭が喜咲に襲い掛かった。


 警告のおかげで喜咲はかろうじて獣の頭を回避することに成功する。しかし一度回避した程度で諦めるような相手ではない。回避された獣は攪乱するように喜咲の周りを旋回し、そして彼女が反応しきれない位置から喜咲に襲い掛かる。


「こんの害獣め!」


 しかし喜咲の体に触れる直前に、飛来した短剣がそれを阻む。


 複数の花を模した鍔飾りの短剣。姫乃こと『永遠無垢の姫短剣』だ。


 炎を纏った短剣は獣の頭を貫くと、喜咲の傍へ飛来して、白い炎で彼女を覆う。更に三体の獣の頭が喜咲を襲うが、白い炎に触れて勝手に焼け死んでいった。


「姫乃……」

「気を抜かないで、喜咲ちゃん! 次が来るよ!」


 姫乃の宣言通り、繭の残骸から新たな獣の頭が発生する。


 繭が完全だった頃に比べれば、その数は少なく、大きさも小さい。脅威度は下がりこそしたが、それでも未だ致死圏内の脅威だ。


 未だ頭痛は抜けきらないが、それでも時間が経過したおかげでだいぶ楽になった。喜咲は改めて『永遠無垢の姫短剣』の柄を握り、そこで気付く。


 獣の頭が自分たちを狙っていないことに。


 姫乃の炎によって自分たちに攻撃が通じないことを理解したのか、まるで避けるような軌道を取り、獣の頭は下へ向かう。


 一体なにを狙っているのか。そう思って獣たちの向かう先に視線を向ければ、そこには倒れている誠二たちの姿があった。


 おそらく、さっきの爆発の影響で意識を失っているのだろう。完全ではないとは言え、魔術で防御しなかった喜咲と違い、彼らはあの闇を直に浴びている。


 体の一部が闇に接触しただけの喜咲でも、耐えがたい頭痛に襲われたのだ。それを全身に受けた彼らが意識を失っていても不思議ではない。


 そして意識がないということはつまり、獣の頭から逃げる術もないということだ。


「ダメ、穂群!」


 反射的に喜咲が叫ぶ。しかしそんな叫びなど聞こえていないかのように獣の頭は誠二たちに襲い掛かり――――食らいつく寸前に掻き消えた。


「え?」


 なにが起きたのかわからない。


 事実だけを簡単に述べるなら、喜咲が叫んだ直後、繭から生じていた全ての獣が消失したのだ。


「喜咲ちゃん! 今の内に遠藤君たちの所に!」

「え? え、ええ。そうね」


 姫乃に言われて、今が遠藤たちと合流する好機であることに遅ればせながら気付く。


 頭痛が抜けきらないせいで多少ふらつくが、誠二たちの元まで飛んでいくなら問題ない。そうやって誠二たちのもとに辿り着いたところで、智貴を覆っている繭の残骸から再び獣の頭が発生する。そしてそれらが自分たちに襲い掛かってきた。


「姫乃……!」

「任せて!」


 姫乃から迸る白い炎が勢いを増す。喜咲だけではなく、誠二たちも覆い彼らを守る。


 しかしこのままではジリ貧だ。


 守っているだけでは状況はよくならない。


「まずいよ、喜咲ちゃん……! トモ君を覆う暴食が少しづつ回復してきてる!」


 研究施設を喰らってエネルギーに変換でもしているのか、少しずつだが繭の破損個所が修復されている。


 修復されれば地獄変もいずれ起こるのは確実だ。そしてそうなれば、喜咲たちは助からないだろう。


 ならばどうするべきか。喜咲は思考する。


「……喜咲ちゃん、もう気は済んだでしょう?」


 しかしそれを阻むように姫乃が告げる。


「今の暴食なら、私一人でも抑えられる。だから私が抑えている間に喜咲ちゃんたちは逃げて」

「なに言ってるの? そんなことをしたらアナタはどうなるのよ?」

「私は大丈夫。世界崩壊を生き延びた永久機だからね。それぐらいじゃ死なないよ」

「穂群は? アイツは大丈夫じゃないじゃない!」

「そこは諦めてもらうしかないね……実際、もうこれ以上は手がないのは喜咲ちゃんだってわかってるでしょ? それともこれ以上我儘を言って、遠藤君たちを巻き込むつもりなの?」

「だけど」

「わかって。ここが最後の機会なの。ここを逃せば犠牲は私とトモ君だけじゃ済まなくなる。言っておくけど、喜咲ちゃんがあんなことを言わなければ私も安全に逃げることができたんだよ。それができなくなったのは喜咲ちゃんのせい。だからお願い、


 姫乃の言葉に喜咲は言葉を失う。


 彼女の言葉は正論だ。少なくとも喜咲が智貴を助けたいと言い出さなければ、誠二たちが気絶することもなく、ここまで窮地に陥ることはなかったのだ。


 この結果は喜咲が導いた失敗と言える。


 ならば姫乃の言う通り、これ以上犠牲者を出さない内に撤退するべきなのだろう。


 しかし喜咲は頷くことはできない。


 なにかが引っ掛かる。なにかが喜咲の撤退を妨げている。


 そもそも、作戦は本当に失敗したと言えるのだろうか?


 確かに智貴を助けることはできなかった。


 だが彼を覆う繭は損壊し、そこから出る獣の頭は弱くなっている。それに――そこまで考えて、喜咲は一つの可能性に気付く。


 それは万に一つ。ほぼゼロと言ってもいい可能性。


 それに縋ることは普通に考えれば愚行だろう。しかし思いついてしまった以上、考えずにはいられない可能性。


「姫乃。今の暴食なら一人で押さえられるって言ったわよね?」

「言ったけど、それがなに?」

「なら一人でもこの場の遠藤たちを守ることは可能よね?」

「……なんでそんなこと聞くのかな?」


 姫乃の警戒した固い声。その奥にはかすかな怒りの雰囲気すら感じられる。


 喜咲は言葉を選ぶために考える。


 なにも言わずに行動に移すこともできるが、しかしそれをしたいとは思わなかった。彼女が怒っているのは、ひとえに喜咲たちの身を案じているから。本気で案じているからこそ怒っているのだ。


 だからそんな優しい彼女に、不義理な真似はしたくないと思ったのである。


「魔王用特殊弾を撃ち込んだことで、暴食は弱まってる。そうよね?」

「うん」

「なら穂群を叩き起こせば、暴食を制御することもできるんじゃないかしら」

「……なにを言ってるの、喜咲ちゃん?」

「穂群が暴食の力を完全に制御できてない事は知ってる。でもオンオフを切り替えるぐらいはできるって言うのが本人の談よ。現にさっき私の呼びかけに応えるように『暴食』が消えたのも、彼の意志によるものだと思うわ」


 完全に暴食が消えなかったのは、おそらく智貴の意識が完全に覚醒していないからだ。ならばそれを覚醒させてやれば、『暴食』を完全に封じ込めることが可能になるかもしれない。


 確証はないが、可能性は高いと喜咲は思う。


「仮にそうだったとして、だったらなんだって言うの? トモ君は今意識がない。そしてそれが戻るかはわからない……言いたくないけど、暴食がああやって発動している限り、トモ君の意識が戻らない可能性だってあるんだよ」


 智貴が黒い柱門として死都にあった十年間、彼の意識はなかった。暴食の力が完全に発揮されている間は智貴の意識は戻らないのかもしれない。


「それなら本当に打つ手はないよ。トモ君を起こそうにも、トモ君の周りにある暴食が邪魔になるもの」

「そうね。さっきまでの『暴食』だったら、確かに不可能だったでしょうね」

「え?」

「でも今の暴食は不完全だわ」


 智貴を覆う『暴食』の繭は永久機の力と、内側からの対魔王特殊弾により大きく減衰している。繭が復元する前ならば智貴に直接干渉して、起こすことも不可能ではない。


「だから私が直接アイツを叩き起こすわ」

「…………は?」

「今なら繭から顔も出てるし、一発ぶん殴って気付けしてやれば目覚めるかもしれないわ。そうすればアイツを覆う繭も消えるかもしれない」

「…………………………は?」

「ん? わかりにくかったかしら? だから私が穂群の所まで飛翔して行って――――」

「いやいやいや! 意味ならわかってるから! つまり叩き起こすって言うか、要は殴り起こしに行くって言うんでしょ! 馬鹿じゃないの? って言うか馬鹿だよ、喜咲ちゃん!」


 よほど感情が高ぶっているのか、白い炎で人型を作り出し、姫乃が叫ぶ。


「そんなことできるわけないよ! 理屈なんかガバガバだし、そもそもトモ君を殴るのが果てしなく不可能に近いし! って言うか絶対に死んじゃうよ!」

「でも万が一の可能性かもしれないけど、穂群を助けられるかもしれない」

「万が一どころじゃないよ! 兆……ううん、京が一ぐらいの確立だよ!」

「つまり貴方から見ても、確率はゼロじゃないのね」


 なら十分だ、とばかりに喜咲が胸を張ると、姫乃は口をパクパクと開閉させてしまう。

 どうやらあまりのことに言葉も出ないらしい。


 残念ながら姫乃の理解は得られなかったようだ。できればちゃんと説得したかったが、あまり時間をかけすぎて繭が復元されては元も子もない。この辺りが潮時だろう。


「ごめんなさい」


 喜咲は一言だけ謝ると、姫乃を置いて再び飛翔した。


「き、喜咲ちゃん……ああ、もう馬鹿! 死にたいなら勝手に死んじゃえ!」


 後ろから響く非難の叫びを推進剤に、喜咲は加速する。そんな彼女に黒い獣の群れが襲い掛かる。


「今行くわよ、穂群!」


 今度は喜咲の叫びを聞いても獣は消えない。それだけ暴食が力を取り戻しているのだろうか。しかし喜咲は気にすることなく突っ込んで行く。


 しばらく休んでいたからか、頭痛の方は大分楽になっていた。万全ではないが、飛翔してぶん殴るだけなら問題ない。


 右に左に、上に下。縦横無尽に空をかけ、空を埋め尽くすほどに存在する獣の頭を避けていく。


 左肩を獣の頭が掠めていく。一瞬前まで右足があった場所を獣の牙が貫く。


 魔術器官を酷使したせいで背中が痛い。これ以上酷使すれば、使い物にならなくなるかもしれない。だがそれがどうしたとばかりに、喜咲はさらに加速する。


 人体の限界を超えた軌道に意識がブラックアウトしかける。気力で意識を繋ぎとめて更に加速した。


 あと一歩。手を伸ばせば頬を触れられそうな位置。しかしそこまで来て喜咲の動きが止まる。


 違和感に自分の体を見下ろしてみれば、腹から獣の頭が生えていた。


 どうやら最後の最後で届かなかったらしい。


「ゴホッ」


 口から血を吐いて、伸ばしていた腕から力が抜ける。


 そしてそんな喜咲に止めをさすように獣の群れが全方位から喜咲に襲い掛かった。


 終わった。まるで他人事のように喜咲は思う。


 もうすぐ死ぬからだろうか。まるで時が止まったかのように、全てがゆっくりに感じられる。


 そんな不思議な時間感覚の中で喜咲は思う。


 自分は一体なにをしているのだろうか、と。


 エルフを助けたいと言って、その為にチームを作りたいと言って、それらの全てを投げ捨てて智貴を助けようとしている。


 姫乃は手に負えないから逃げろと言った。おそらくきっと、いやほぼほぼ彼女が正しいに違いない。


 きっと間違っているのは自分の方だ。


 自分に課した使命を放り出した挙句、逃げられたのにわざわざ誠二たちをも巻き込んで、こうして智貴を助けようとしている。


 エルフを助けたいなら、チームリーダーならどちらも選ぶべきじゃなかった。


 間違っている。どうしようもないほどに間違っている。


 なのに、何故自分はここまでして智貴を助けようとしているのか。そこまで考えて、喜咲の脳裏に医務室で聞いた智貴の言葉がよみがえる。


 ―――アンタが初めてだったんだぜ。脅迫までして俺に言うこと聞かせようなんて酔狂な奴はよ―――


 ああ、そうか。


 今わかった。やっとわかった。


 自分が智貴を助けたいと思うのは、きっと彼が自分にとっても初めての存在だったから。


 初めて、自分にとって特別だと思えるような存在だったからだ。


 その特別を失いたくないから。


 だからここまで頑張って来たのだ。


 ならば。だったら。それだったら。


 こんなところでまごついている場合じゃない。


 たかが『暴食』に阻まれた程度で諦められるほど、その気持ちは安くはない。


 時間の感覚が元に戻っていく。


 そしてこのままここにいては間違いなく殺される。


 だから喜咲はさらに加速した。


 背中の魔術器官が激痛と言う名の悲鳴を上げる。だけど聞こえない。


 脳がこれ以上の稼働は危険だと警鐘を鳴らす。だけど聞こえない。


 聞こえるものはただ一つ。それは己が心の内から生じる声のみ。そしてその声はこう言っている。


「智貴は暴食アナタのものなんかじゃない。だから……返しなさい!」


 全身を暴食の獣がかすっていく。


 額が切れて目に血が入る。


 魔術器官が限界を超えて、翼のように血を吹き出す。


 力が抜けた右腕に力を込め直して握りしめる。


「ソイツは私の物よ!」


 叫んで智貴に殴りかかる。だがそれを阻むように智貴の顔面を暴食の繭が覆う。


「アンタもいつまでもそんな雑魚の思い通りになってるんじゃないわよ! このチンピラ魔王!」


 最後の無茶。


 喜咲は風を拳に集めて繭を打ちぬいた。そして風と繭で血だらけになった拳が――智貴の顔面を捉えた。


 まるで爆弾でも爆発したかのような音が響き、殴られた智貴が繭を突き抜ける。繭は智貴を失ったことで消滅した。そして肝心の智貴は地面の瓦礫に叩きつけられる。


 よほど威力があったのか、それとも高所から殴ったのが悪かったのか、地面にはクレーターができており、その中心にいる智貴はピクリとも動かない。


「……あ、やば。やりすぎた」


 ただの気付けのつもりだったのだが、予想以上に力が入りすぎた。


 顔面の骨を砕いた手ごたえを思い出して、喜咲は冷や汗を流す。


「い――――」


 ひょっとして永眠させてしまったのではないか。喜咲がそんな心配に駆られていると、そこでようやく智貴に動きが生じた。


「――ってえな! なにしやがんだ、この暴力駄女ルフ! つーか、誰がチンピラ魔王だ!」


 飛び起きるなり、右手の中指を空に向けて智貴が叫ぶ。


 その体は五体満足だ。どうやら暴食を発動させていた影響で、怪我らしい怪我は全部治っているらしい。


 そしてそんな彼の周りの暴食の黒い繭はない。


 どうやら今度こそ、彼を救い出すことに成功したらしい。


 喜咲は安堵し、そしてそこで魔術器官が停止した。喜咲が高所から落下する。


 風の魔術で飛翔を再開させようとするが、魔術器官はうんともすんとも言わない。いや、無理だと抗議するように激痛が走る。


 そう言えば、壊れるのを覚悟で酷使したんだったな、と喜咲は落ちながら他人ごとのように考えた。


 このまま地面に激突すれば無事では済まないだろう。下手をすれば死ぬかもしれない。


 志半ばだが、しかし喜咲はすっきりした気分だった。


 絶望的だと思われた智貴を助けることができたのだ。それだけで十分である。


 そう思って、喜咲は全てを受け入れるように目を瞑ろうとして、その直前に全力で駆け寄ってくる智貴の姿が見えた。


「アホか、テメエえええええええええええええええ!」


 そして地面に叩きつけられる直前、間に入ってきた智貴が喜咲を受け止めた。


「なにいきなり空から降ってきてやがるんだテメエは! あんな高度から落ちたら死ぬだろうが! って、うわ。なんだお前! 血だらけじゃねえか! しかもすっげボロボロだし! お、おい! 大丈夫なのか!」


 受け止めるなり、盛大に騒ぎだす智貴。そんな彼の姿が珍しくて喜咲は目を丸くした後、思わず噴き出した。


「笑ってる場合じゃないだろ! 病院! いや、医者! じゃなくて救急車! って、なんだ。周りがエラいことになってるじゃねえか!」

「穂群」


 周りの惨状にようやく気付いて慌てる智貴。喜咲が優しく声をかけると、智貴は戸惑いながらも喜咲を見た。


「おかえりなさい」

「いや、お前。お帰りなさいって……!」


 智貴は喜咲になにかを叫ぼうとして、しかしそれを飲み込む。そして迷うようにしながらも答えた。


「……おう、ただいま」


 その返答に、喜咲は血を流しながらも満面の笑みを浮かべるのだった。





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