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 札幌にある男の家から小樽天狗山までは車で一時間程掛かった。

 小樽市は札幌市に隣接する市町村の一つである。百五十年程前、蝦夷地えぞちが北海道と名前を変え、札幌がその要と定められると、海に面した小樽は北海道の玄関口として栄えた。そんな歴史の残り香と異国情緒に溢れる港町は、現在は大人も楽しめる観光地となっている。

 夜の見所といえば夜景が有名で、札幌、函館と共に北海道三大夜景とされている。

 緑に囲まれたいびつな坂の町にガス灯の暖かな明かりが揺れる。市街地や観光地の賑わいが海岸線をなぞる。夜景をえぐる暗い海にゆっくりと船の光が行き交う。

 周囲が山になっているため毛無山けなしやまあさひ展望台等、スポットがいくつもあり、ロープウェイのある天狗山はその中でも最も定番といえるだろう。市街地を見下ろす高さにありながらも間近に見られる程良い距離に位置し、展望台が海岸線と正対しているため、街並みと海が視界の先に並ぶ。

 そんな小樽天狗山からの美しい夜景を誰かと一緒に見ることができたなら、仲が一層深まることは間違いないはずだが、見ようと思っていたのに見られなかったなんてことがあれば、引き返す車の中は言葉少なになってしまう。坂道を下る車内で、男はハンドルを握る右手の人差し指で聞き飽きた曲のリズムを取りながら「ああ、確かに風強いよなぁ」とか「雲も分厚くなってきてるな」とか呟き、女は「そうだね」と明るく返すが、会話は続かない。

 どうにか車内を盛り上げようとラブバラードを歌っていたCDも、二人と同じくもうネタが尽きてしまったようで、再び一曲目に戻ってイントロを流し始めた。

 苦し紛れのアンコールを聞いていられなくなった男が、カーオーディオをラジオへと切り替える。

 本州東岸を北上した季節外れの大型台風が強い勢力を維持したまま間もなく北海道へ上陸するとラジオが告げた。

 聞いていて心地の良い低い声は内容とは裏腹に明るい調子で続けた。台風に慣れている本州の人でさえ今年数度目のそれにうんざりしていること、台風が来ないと言われる北海道では対策に慣れておらず影響が大きくなると予想されること、北国は短い夏が終わり既に肌寒くなってきているため外出の際には防寒も必要だということ、可能な限り不要な外出は控えた方が良いだろうことに、女性パーソナリティが丁寧に相槌を打った。普段台風のニュースは他人事のように聞き流してしまうことが多いため、気付けば北海道に近付いてきており驚いてしまう、とスピーカーから唾が飛んできそうな口調でコメントした。リスナーの興味を引くための芝居がかった大袈裟な口調の裏に、番組の段取りを確認している冷静さが見え隠れしていた。

 その感覚は、しかし、「楽しいデート」を取り繕おうとする自分達二人の心理を鏡のように写したものなのかもしれないな、と、男は思った。

 小樽駅が近付いたところで赤信号に捕まり、男はわざとらしく空を覗き込む。灰色の空は夕焼け色に染まることなくそのまま暮れていくようだ。

 台風、タイミング悪いね、と助手席から声が掛かる。

 男が振り返る。が、それと同時に周囲の車が動き始め信号が青に変わったことを悟り、またすぐに前に向き直った。

「さ、もう着くよ」

 坂の途中、住宅の立ち並ぶ中にある小さな駐車場へ車を乗り入れる。一軒家のその店は西洋風の佇まいだが看板が控えめであり、初めて訪れる客は一度通り過ぎてしまいそうな程街並みに馴染んでいた。

「十八時か、お腹空いた?」

「うん、ワインのこと考えてたら段々お腹空いてきちゃった」

 車を降り、吹き付ける風に体を小さくしながら、入り口へ向かうが、そこで二人ほぼ同時に、あ、と声が漏れた。

 扉にはCLOSEと書かれた看板が下げられていた。

 天狗山の駐車場に入った時の嫌な感覚が思い出される。更に歩みを進めると、壁の張り紙に店舗移転のため休業することを詫びる文章が書かれているのがわかった。

 男は唖然としながらも顔色を伺うため隣を見やるが、女は空を見上げていた。視線が合うのを避けられたのかと怪訝に思いながらも女の視線を追って上を見ると、顔へ小さな衝撃があり思わず目を瞑った。人差し指で頬を拭い、それが雨粒だったことに気が付いた。

 顔を見合わせた二人は、重なる不運に落胆している互いの表情を見て、力なく笑ってしまった。笑顔を見て少しだけ救われた気分になった男は、気を取り直して、ひとまず車に入ろう、と促した。肩を抱くその構図はつい先程と同じだった。

 運転席に戻ると男はすぐにスマートフォンを取り出しウェブブラウザアプリを起動する。手早く検索しグルメサイトを開いた。

「このお店」

 助手席から注がれる視線に優しさを感じていても、男の口調は無意識に早くなった。

「イタリアンとかじゃなくて、いわゆる洋食のお店でね。一回だけだけど食べに行ったことがあってさ、滅茶苦茶美味かったんだよ」

 説得するように捲し立てながら、相手にも画面が見えるようにし、一緒に覗き込むため顔をぐっと近付けた。

「定休日は月曜日だって。今度はちゃんと調べたから、ね、大丈夫だ」

 誇らしげな笑顔の端々には、下調べせず続け様に失敗したことを恥じる思いが伺えたため、女は何も気にしていないよとにこやかな表情で返した。

「ハンバーグが美味いんだよ」

「好きだもんね」

「あ、オムライスも美味いらしいよ。ミーちゃんが好きなオムライス」

「ほんと? 食べたいな」

 男は、相手の笑顔に真実味を見た気がして、よおし、と意気込みエンジンをかけた。

「小樽築港の方だから、またちょっとだけ走るよ」

 既に雨粒はフロントガラス全面を濡らしていた。ワイパーを動かして見えた街は一段階明るさを落とし、雨に濡れ、表情が変わっていた。拭われた窓に再びぽつ、ぽつ、と雨が落ち、灯り始めた街灯の光を滲ませた。

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