ぼく

@Kaquri

夜の暗い道を家に向かって歩いている時、向かいから人が来ると、嫌な緊張感を覚えたりしないだろうか。

すれ違いざまに手に持っている荷物を盗られたり、酷ければ刃物で斬りつけられたりするかもしれない……そう思って道路の反対側に体を寄せてやりすごす人はぼく以外に少しぐらいいてもいいと思う。


その日も同じだった。もう月がすっかりと夜の支配者になった頃、疲れきってダラダラと体を引き摺るようにして歩いていたぼくの前から人が歩いてくるのが見えた。若い男。二十にならないくらいか、スポーツでもやっているのだろう。服を着ている上からでもその精悍さが分かる。

ぼくは彼が突然に襲いかかってくる様子を想像し、心臓が冷えるような感覚を覚えるといつものように彼と反対の壁に出来るだけ近づいてすれ違いをやり過ごした。彼はぼくなんか全く気にしたりはしないだろう。

彼とすれ違って少ししてから、ぼくはスッと後ろを振り返った。その行為に大した理由は無い。ただ少し、彼がすれ違ったあとこちらを見ていたらとても怖いなと思っただけだ。





ぼくの些細な心配は杞憂に終わった。

そう締めくくってこのくだらない空想を終わらせようとしたぼくの目論見は、思いがけなく裏切られた。

ぼくがフッと後ろを振り返ったとき、ぼくは彼がこちらに目をやるのを見た。ぱったりと視線が合ってハッとしたぼくは走り出した。走り出した僕の目の前に突然彼の姿が現れアッと思った瞬間、僕の視界は黒く塗り潰れされた。

何かが僕のなかに入るような、もしくは中身が引き摺り出されるようなぐるぐるした感覚に吐き気を覚えていると、突然にぼくの視界は元に戻った。身を守る形で咄嗟に構えていた腕をゆっくり下ろし、ぼくは辺りを見渡した。誰もいない。用心深く何度も周囲を確認し、ようやっともう何も無いと結論を出したぼくは、嫌に軽い体で家への道を急いだ。




次の日の朝、途方もない体のだるさに目が覚めた。

―――昨日あんな事があったのに不思議と元気だったぼくの体は、家に着いた途端に違和感を伝えた。熱が出た時のように体の節々が痛く、倦怠感がじわじわと広がってゆく。胃から何かがこみ上げて来る感覚があったが、耐えられない程では無かったので布団についた。―――

今朝はそれとは比べ物にならない程の倦怠感と吐き気がぼくを襲っていた。

ぼくはこの吐き気に身をゆだねてはいけないと思った。ぼくの中の何かがしきりに吐き出してしまえと言っているような気がするが、この声に従おうとすると、僕がぼくでなくなってしまうような、途方もない恐怖を感じ、そこまで来ているものを無理矢理に胃の奥に押し込めた。


夜。体のだるさはあるものの件の吐き気は大分ましになり、布団の上でぼうっと天井を眺めていると、仕事から帰ってきたらしい母親がぼくの部屋の戸を叩いた。体調が優れない旨は既にメールで伝えているため、その後の体調と夕飯の有無を聞かれ二三言葉を交わした後また眠りについた。


再び朝。体調も良くなってきている。母親に念のためとまた1日休むように言われた。ぼくも全快とは言えない状態のため、大人しく眠ることにした。


目が覚めたのは夕方だった。相変わらず体のだるさと吐き気はあるが、少し気になると言った程度で、起き上がって何かをする分には問題がない。ずっと部屋にいると気分が塞ぎ込んでしまうような気がしたので、ぼくは近所のコンビニへ買い物に行くことにした。顔を水で洗い、服を着替え、財布だけ持って家を出た。


コンビニへ向かう途中、ぼくはあることに気が付いた。先程までずっとまとわりついていた体のだるさと吐き気が、すっかりと無くなっている。一昨日の夜からずっと続いていた体調不良。一昨日の夜といえば、嫌な心当たりがある。家に着いてから体がおかしくなっているということは、まさか家の中に……?!

そこまで考えて、ブルリと体が震えるのを感じたぼくは、その考えを振り切るように急ぎ足でコンビニへと向かった。


家に帰ってくると、やはり気分が悪くなる。間違いない。この家に何かある。原因は十中八九一昨日の夜のアレ。ぼくが玄関で思案していると、後ろの扉がガラッと開いた。ハッと後ろを振り向くと、母親が驚いた顔でこちらを見ていた。ぼくは安堵のため息をつくと、勝手に外出したぼくを非難する母親に言葉を返した。


あの後、母親と夕食を共にしたぼくは布団の上であれこれと考えていた。吐き気とだるさは消えない。考えるのはもちろんその事についてだ。心当たりはあるものの解決方法が分からない。コンビニに行く途中にある例の路は今日通ったが、変な感じはしなかった。となると、問題はこの家の中にある。あまり気は進まないが、いつまでもこの吐き気とだるさを抱えたまま生活するわけにはいかない。とにかく明日色々探ってみようと決心したぼくは、どこからかやって来た睡魔に身を任せ、目を閉じた。




夜(?)

誰かが戸を叩く音で目が覚めた。

途端に感じる強烈な吐き気。ぼくは咄嗟に口に手を当てた。まずい!胃のさらに奥。体の中心の奥深くから何かが出てこようとしている。ぼくは口に手を当てたまま蹲った。部屋の扉を開ける音がする。入ってきたのは、僕の父親。そうか!こいつはッ!!クソ!こいつが原因か!!!駄目だ!こいつに近寄られたら危ない!そう思うが体は動かない。父親はぼくの体に近づくと手に持った数珠をジャラリと鳴らし、ぼくの背中をパアンと叩いた。ぼくの、僕の体を……



目が覚めると、ぼくは路の上にいた。

鉛のように重い体を塀に預けて、ギリリと奥歯を噛んだ。

クソ、クソ、クソ!失敗した!やはりあの時見えていたのか!!あと少しだったのに!あのクソ坊主!奴さえいなければ!

苛立ちを抑えきれないぼくが路に座り込んだままいると、右の方から人が歩いてくるのに気付いた。女性。20と少しぐらいだろうか。ぼくは隅によることもせず、彼女がぼくの前を歩くのを見ていた。彼女はぼくに気づいていない。通り過ぎた後の背中をしばらく見ていたが、彼女はぼくを振り返ることはなく、自らの家への路を急いでいた。彼女はぼくなんかを見ることはなかった。ぼくはニヤリと笑うと彼女の背中へ走り出した。


大丈夫。次はうまくやるよ。


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