第19話 小銭

 現在、家賃保証会社は全国に大小合わせて200社くらいあると言われている。

 その中で管理(回収)担当者が何人いるのかは知らないし、所謂「夜逃げ」の部屋に入った事がある人間がどれだけいるかわからない。

 私の同僚なら100%ある。しかし他社で実務を担当している人の事はよくわからない。


 ただ、もしも入室したならば絶対に気付いている筈だ。

 私は本気で不思議に思っている。ある忘れ物──小銭に。



 2015年 フィリピン マニラ。


 マニラ湾を望む岸壁に登って、歩く。


 小さく口の中で歌う──「シャングリラ(チャットモンチー)」。


 東南アジアでの夜の散歩をする時、ここ10年間位はこの歌。


 湘南や須磨海岸で同じ事をすればアタマがオカシイ人だが、周囲にはもっとおかしな人がいる東南アジアなら別に浮かない。私はこの雰囲気が好きだ。


 そうはいっても歌ってばかりもいられない。セブ島ではまた違うが、悪名高いマニラでは歩いているだけでタクシーからクラクションを鳴らされる。そして同時に運転手が叫ぶ──「コンニチハー!」「ジャパニーズ?」


 タクシーに乗っていけという事だ。観光でも、ホテルに帰るのでも、風俗店へ行くのでも、選り取りみどりだからと。


 基本的には無視する。が、あまりにしつこい運転手には『私は海を見ながら散歩したいんだ!』と叫び返す。さらにしつこいと『うるせえ!』と叫ぶ。その時は怒気が伝わるように日本語で。心底からの本音だからだ。



『世界に名高いマニラ湾の夕日を見ているのに、何の感動も湧いてこない』

 かつてロボトミー手術を受けさせられた男がそんな言葉を残したそうだ。


 彼はそれから、自分のアタマを壊した外科医師の家族を殺した。


 マニラ湾をどう見るのかは人それぞれだとは思う。

 しかし岸壁から10メートルくらい先までは海面が見えない程ゴミで埋まっているのがマニラ湾だ。とにかく臭い。この臭い岸壁から夕日を見て感動できるものなのか?できなくても良くないか?──と思うが、男がここにいた1978年は違ったのだろうか。


 翌日、超巨大ショッピングモール『SM Mall of Asia』へ行った。

 特にやる事があったわけではない。私はマニラでは亜熱帯の空気の中でお酒を呑む以外、目的はない。しかし、朝から晩まで呑める程お酒に強いわけでもない。

 とすれば散歩くらいしかする事はないのだ。


 モールの入口では薄汚れた少年2人が、ガードマンからショットガンを向けられていた。中へ入るなと。


 マニラではコンビニでもハンドガン。ショッピングモールならショットガンを持ったガードマンは普通に立っている。

 ちなみに『SM Mall of Asia』は海に面している。岸壁に登って、歩きながら歌っていたらガードマンに銃口を向けられた。降りろと。


 それくらい銃を頻繁に目にするのがマニラだ。


 反してセブ島ではそこまで物々しくないのだから、不思議な国である。

 日本で、沖縄と北海道では、そこまで極端な治安の差は無いと思うのだ。


 話を戻す。少年らは単にゲームセンターで遊びたかったようだ。それでカネはもっている事を、手のひらに乗せたコインを見せて示す。が、服装でガードマンから弾かれていた。

 少年らのもっているコインは傍目から見ても少ない。そして薄汚れた服装。明らかに貧困層なのは外国人たる私でも推察できる。


 それでも入ろうとするのでショットガンの銃口を向けられて追い払われていた。


 彼らを横目にモールへ入る。しばらく歩くとスケートリンクがあった。

 まさにこれぞフィギュアスケート、という煌びやかな服装をした、先ほどの少年と同じ年頃の少女がリンクでクルクルと回って──停止。


 熱心に見ている母親へ手を振って微笑んだ。母親は拍手している。

 試合ではない。単なる練習である。


 日本でフィギュアスケートを娘に習わせるなら大層なカネがかかるだろう。フィリピンだってたぶんそうだろう。


 先ほどの少年も、少女も、明らかにどちらもフィリピン人だ。

なんて格差だと──意識の端がチリチリと痛んだ。



 私は鈴木傾城氏(「ブラックアジア」シリーズ)や、八雲星次氏(名著「海外クレイジー紀行」)の影響を思い切り受けているので、今回は明白にテイストを真似る。

(と、いってもこのお二人のテイストは明らかに真逆だが)


 時折タイの話を書いているのもその影響だ。たぶん。

 ただし、私は現在も家賃保証会社で働いているし、タイやフィリピンでの話も完全に実体験である。



 家賃が払えず、借金が払えず、夜逃げする理由は普通、貧困だ。


 家賃や消費者金融、信販会社、そして税金の支払いの督促にどうにもならなくなって夜逃げする。


 彼らにとってカネは絶対に必要なものの筈だ。彼らを夜逃げに追い立てたのはカネがないという事なのだから。



 戦場では手持ちの銃弾が1発でも多い方が良い。カネも少しでも多い方が今後の生存確率は増す筈だ。


 消費者金融で働いていた頃から理解している。親類縁者に借金の肩代わりをしてもらい続けた挙げ句、彼らは本当に破綻する。破綻した結果夜逃げする。


 夜逃げは最終段階であり、既に親兄弟には頼れない。だとすれば手持ちのカネは多ければ多い程良い。1円で買えるものなど現在の日本にはないだろうが、それでも1円でも多い方が良い筈なのだ。合理的に考えれば。


 しかし、だ。夜逃げした彼ら彼女らの部屋に入ると往々にして小銭が散らばっている。テーブルに、床に、布団に、ベッドの下に、クローゼットの中に。キッチンのシンクに放られている事すらある。


 探してやっとわかる場所、ではない。明らかにすぐにわかる場所にあるのだ。

小銭の存在には気づいているのに置いていっている。


 もちろん所詮小銭である。集めても100円とか200円が関の山だが、時折は500円くらいあったりもする。


 夜逃げする彼らにとって100円あればミネラルウォーターが飲めるし、200円あればおにぎりやカップ麺も買える。500円あれば安いランチも食べられる。

決して無駄にして良いカネではない。


 いや、そういう問題ではなく──あなたやあなたの恋人の部屋の床に、クローゼットに、布団に、小銭が散らばっているだろうか? シンクに小銭を放り投げてそのまま会社へ行くなど、有り得るだろうか?



 私は単身者で、部屋は極端にモノが少ないからかもしれないが、現金は財布にいれているだけだ。それ以外の場所には無い。


 義務教育を受けた日本人であれば普通、小銭であっても部屋にバラ撒いて生活はしないと思うのだ。


 尤も、そういう金銭感覚だから夜逃げなんてハメになるのだとも思わないでもない。


 加えるなら、使ってないスマホ、使えるTV、冷蔵庫、電子レンジなども置いていく。少なくともスマホなら売れば多少のカネにはなるのではないか、と思うのだ。

 私はスマホを売った事がないので、違うのかもしれないけれども。


 更に加えるなら、彼らの部屋には辺り一面にタバコの吸い殻やアルコールを飲み干した空き缶、ペットボトルも散乱している。

 酒もタバコも飲んだり吸ったりしている場合なのかと、誰でも思う筈だ。


 明らかに行き当たりばったりの思考しかできない故の夜逃げなのは大抵理解できる。


 もし周到に準備するなら、家財道具を売り払い、夜逃げするだろう。

 いや、そもそも現在の日本で、少なくとも経済的事情だけが原因で、ありとあらゆる福祉や公的支援を駆使してもそれでも夜逃げせねばならない──という状況は、はっきり言うが、考え難い。


 もちろん、DV加害者やヤクザや殺し屋が追ってくるから夜逃げします、というのなら話は全く別だが。(殺し屋が追ってくるなどという実例を私は1件も知らないが)


 そうではなく、単なる我々のような民間企業相手の借金で夜逃げ──というのは、率直に言うが、必要ない。


 現在の日本では、金も住むところもないなら生活保護を受給すれば転居もできる。

東京ならシェルターも多い。

 大阪でも、A市にシェルターはないがB市にはあるからと、そちらに入る事は可能なのだ。


 焦る必要はなく一つ一つ着実に生活再建に向けて動けばいいのである。



 2016年。タイ パタヤ。ウォーキングストリートのビアバー。

 目の前にはショートボブの女の子。薄いメイク。若さが完璧な化粧か。本当に可愛らしかった。

 ママから「持ち帰れペイバーしろ持ち帰れペイバーしろ」と言われた深夜0時。


 海沿いの席に腰掛けて、女の子と視線を交わす。

 持ち帰られペイバーされてもどちちでも良い風だった。


 それから共に、真っ暗な海を眺めながら──出身はどこ?と聞いた。彼女の出身は東北部イサーンだった。


 ある日本企業の工場から解雇されたため、ココで働いていると彼女は口にした。プリンターを作っていたと。続けて、お金が必要だからココにいると。


 そっか……とだけ返答した。ハイネケンの苦味が増した。


 フィリピンの貧困層の少年には教育と、保護者に資力がない。

 パタヤのビアバーの女の子の多くは教育と資力がない。どちらも同じ事か。そして更に共通するのは本来彼ら彼女らを庇護すべき政府にもその意思や力が欠如している。

 民族的、文化的な理由もあるのかもしれないし、まずもって国家財政が許容するのかという問題もあるのだろうから私は深入りしない。

 ただ一ついえる事は、彼ら彼女らは小銭ですら大切に扱う。間違いなく。



 翻って日本で夜逃げする連中はどうだ。

 もちろん、投げ捨てていく小銭を大切に扱ったとしても、彼らの人生は好転しない。そんな事はわかる。


 しかし、彼ら彼女らが所属する行政はちゃんと機能しており、未来はわからないが現在は生活保護制度もワークしている。


 自暴自棄になって夜逃げしてもたぶん彼ら彼女らは餓死などしない。困ったら、それこそ犯罪を犯したとしても人権や生命は保証される。

 人殺しをして服役、出所しても生活保護は受給できるのだ。


 私は経験から語る事ができる。サポートした事も何度となくある。どんな年齢でも、働き盛りの男でも、国籍が日本でなくても、現在の日本では生活保護は受給できる。


 生活が破綻するのは仕方ない。

 だけどね、個人がどんなに経済的に破綻しても絶対に餓死などしない恵まれた国に生まれてきたんだ我々は。だったら、そうでない国に生まれた人よりは小銭を大切にしようよ。


 たぶんそれが彼らへの礼儀だ。


 私はタイで、フィリピンで、他の国で、私のお酒の相手をしてくれた人々が本当に好きだ。国籍が同じなだけの大抵の日本人より遥かにだ。


 懸命に生きている彼らと同じくらいには、小銭を大切にしようよ。

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