【1】

 彼女は特筆すべきこともなく、ごく一般的な女性だった。親の金で短大を出たが特に就職に強みもなく、興味もない企業の事務になった。元々少ない給料は税金諸々を引かれ、手取りは十三万円。それでは食っていける自信もなく、実家住まいをしながら些細な贅沢を楽しむだけの女性だった。特に秀でた芸もなく、別段豊かでもない彼女の持つ漠然とした不安は彼女にとって現実味がなく、また同じくらいに漠然と、そのうち誰かと家庭を築いて特筆することはないまま暮らしていくのだと感じていた。今時そんな『一時代前の女性の幸せ』のようなものを抱くことを馬鹿にされることも多少はあったが、彼女自身はそれが一番だと思っていたし、自分の父母を見てもそれが一番だと感じていた。

「涼子、体を拭きましょう」

こんな体になっても、涼子の父母はともに優しかった。母は彼女を介護してくれており、動けなくなった彼女の一切の世話をしてくれている。父も仕事が早く終わった時に飲みに行くこともやめ、家に帰って母の手伝いをする。それだけ優しい家族に囲まれていたことがあるいは、彼女が一番恵まれた部分だったかもしれない。そういえば涼子の異変に最初に気づいたのも母だった。この奇病の始まりは指先のひび割れ、たったそれだけだったのだ。

「ありがとう、お母さん」

口を動かすと、口の端から水晶化した肌が割れ、ポロポロとこぼれる。首から上はまだ疾患の進行は遅く自由が効いていたが、末端はもう侵されていて肘から下と腰から下は動かず感覚もなくなっていた。母はいつも、そんな涼子を悲しそうに眺めながら、そしてその心をひた隠しながら世話をしていた。

 だが涼子も涼子でそれに気付いていた。情けない、それを否定すると嘘だ。しかしながらどこか、心ここにあらず。涼子は暗然としていて、呆然としていて、愕然としていた。病気を患ってからというものの、何も考えてこられなかった涼子に、考える時間ばかりが増えていた。初めの頃はこの奇病を患った不運を呪ってばかりいたが、それも長くは続かなかった。考えることは日ごとに散漫になり、例えばもう戻ることがないのに休職扱いになっている職場のことが気にかかった。毎日目にする父母が神のように思えたり、厄介な世話焼きのようにも思えた。まだ体が動いていた頃も、節々を動かせば皮膚が悲鳴を上げて苦痛が押し付けられた。その痛みを紛らわすために動かなくなり、さらに考える時間が増えた。考える時間が増えれば増えるほど、陰鬱な考えは涼子の脳漿に沈着して、どす黒いしみを作り、それについて考えることをやめさせた。後に残ったのは長い長い時間と考えをやめない脳で、そしてそれは果てがないほど空虚で、無気力だった。そしてそれを埋めようとなお考えようとすればするほど、どれだけ無意味かを痛感して、泣いた。

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