布一枚の、温もりを ※道草先生リクエスト

「……ん?」

「お目覚めですか、殿下」

「……あぁ、うたた寝を、してしまったか……」


 机の上に突っ伏していたイグジリスは、ゆるりと頭を持ち上げて、小さく息を吐いた。その声が掠れているのは、彼が先ほどまで眠っていたからに他ならない。常に傍らに控えている近衛騎士のシュライトが、そっとグラスに水を注いで差し出してくる。それを受け取って口に含みながら、イグジリスは己の肩に掛かっている布に気づいた。


「……これは」


 病弱の気がある故にイグジリスの体躯は成人を間近に控えた青年としては、幾分華奢だ。その細い肩を覆うようにかけられているのは、一枚の布。それほど厚手なわけでもないその布が何かを、イグジリスは知っている。それは、近衛騎士の正装のマントだ。視線を向けた先のシュライトは、いつも肩から翻しているマントを身につけていなかった。うたた寝をしたイグジリスを案じて、羽織らせたのだろう。

 イグジリスの視線に気づいて、シュライトはそのマントに手を伸ばした。けれど、彼の指先が触れるより先に、イグジリスの細い指先がマントを握る。


「……殿下?」

「……ありがとう」


 静かな、静かな声だった。この程度の、ささやかすぎる好意にすら、イグジリスは泣きそうになるほどに、感謝を示す。殿下、とシュライトはその先を続けることが出来なくなる。どれほどに飢えているのか。どれほどに孤独であるのか。そして、だからこそ、己は何を、与えられるのか。シュライトはいつも自問してしまう。


「ブランケットを取りに行こうかと思ったのですが、お側を離れるわけにもいかず……」

「良い。世話をかけたな」

「とんでもない。……お疲れなのでしょう。ご無理だけは、なさいませんように」

「解っている。……お前に心配をかけたくは、ないからな」


 そう言って、イグジリスは口元に淡い微笑みを浮かべた。ほんの僅かの表情の動きだった。それでも、常日頃の彼から思えば、立派な笑顔だった。いついかなる時も感情を見出さず、淡々とした表情しか浮かべないイグジリス。その彼が剥き出しに零した感情は、シュライトの心を強く揺さぶる。

 そっと、マントを羽織ったままのイグジリスの肩に手を添えるシュライト。マントの裾を掴むイグジリスの手には、触れられない。直に彼に触れることもない。それでも、たかが薄布一枚で幸福を噛みしめる主に、せめてと、マント越しに掌の温もりを伝えるのだ。


「お身体が冷えておられるようですね。温かい紅茶でも用意させましょう」

「何だ?お前は淹れてくれないのか?」

「……せめて、もう少し上達してからでお願いします」

「では、楽しみに待っておこう」


 揶揄するような主の言葉に、シュライトは困ったように笑った。先日主に言われて余興として紅茶を淹れてみたものの、己が飲むならともかく、貴人に飲ませるような味では無かったと反省しているのだ。それでも、シュライトが手ずから淹れた紅茶をイグジリスは美味しいと言ってくれた。それは、毒見の心配がいらないという理由があってのことだったが、それだけではないだろう。誰かが自分のために、自分のためだけにしてくれる行動が、彼にはただ、珍しく、至福になるのだから。

 そのような当たり前の幸福すら知らぬままに今日に至るイグジリス。けれど彼は、知っている。たった一つ、何を願っても叶わなかった己の傍らに、失われることなく存在している腹心の存在があることを。シュライトがイグジリスの側を離れるのは、死が二人を分かつときだけだろう。それを知っているから、イグジリスはこの、極寒のような世界の中で、生きていける。


「殿下、マントを……」

「もう少し」

「……承知しました」


 だからシュライトも、イグジリスの幼子めいた我が儘を、咎めもせずに受け入れる。丈の長いマントで身体をくるむようにしながら、美貌の王太子はそっと目を伏せる。何かを祈るようにも見えたその表情は、すぐに柔らかく弛んで、小さな言葉がこぼれ落ちた。


「お前が側にいるようで、安心するな」


 おそらく無意識であろうその言葉に、シュライトは応えなかった。応えられなかった。ただ、微睡むように目を伏せる主の、疲れて気が抜けたのであろう姿に、そっと目を伏せる。その声を、言葉を、きっと自分は一生忘れることが出来ないのだろうと思いながら。


 閉じた世界で、冷えた世界で、それでも孤独な王太子は、たった一つの優しさと温もりを胸に、生きていく。彼を護ると定めた騎士の愛を支えに。布一枚の、ささやかな温もりを、縁にして生きていく。

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