第16話

 女は俺の前に立ちはだかり、長槍で許褚きょちょの攻撃を受け止めている。

 瀕死のピンチに、颯爽さっそうと現れた救世主。

 その名は――

(ちょおおおおおおおおおおおううううううううんんんんんんんんんんんん)

「何者ですかー!」

「……逆賊に名乗る名前などない」

 趙雲ちょううんは短くそう言って、許褚の攻撃を捌きつつ、群がる敵兵を薙ぎ払う。

 強いぞ趙雲。

 いけいけ趙雲。

 サンキュー趙雲。

 フォーエバー趙雲。

「やりますねー!」

「……」

 趙雲は許褚の攻撃を、胸をそらしてかわし、横から攻撃を加えてきた、別の兵士の槍を素手で奪う。

 そしてそれをそのまま、まっすぐに許<891A>の奥にいる人物に向けて投擲した。

曹操そうそう様!」

 許褚が、その見た目からは想像もつかないような反射速度で後ろに跳び、曹操を庇う。

「……乗れ」

 趙雲はその隙に、俺のパーカーのフードを猫みたいに掴んで、白馬の上へと引き上げてくれる。

「曹操様! 弓の斉射を!」

「待ちなさい! 許褚と軽く渡り合うほどの名将、殺すには惜しいですわ!」

 曹操が躊躇ちゅうちょしている間に、趙雲はもう敵軍の囲いを突破していた。

「あー! マジで死ぬかと思った。助かったああああ。ありがとうな。趙雲」

 俺は趙雲に抱き付きながら、背中に頬を擦り付ける。

「……」

 趙雲は無言のまま頷く。

「それにしても随分早く来てくれたな」

「劉備様から、様子を見てくるように言われた。張飛と会った」

 趙雲はそう答えたきり、もう一言も話さなくなった。

 要は、劉備りゅうびが俺(というより多分張飛)を心配して先に趙雲を遣わしてくれていて、途中で張飛ちょうひと鉢合わせして救援を求められたということだろう。

(それにしても、このイベントもどっかで聞いたことがあるな)

 趙雲が。

 一人で。

 窮地きゅうちの仲間を救う。

(そうか! これって『趙雲敵陣単騎駆ちょううんてきじんたんきがけ』か!)

 長坂ちょうはんで劉備が軍に敗れた時、敵地に取り残された彼の息子を、趙雲が一人で助け出すという三国志の名イベントだ。

(俺って阿斗あとのポジションじゃん。だっさ)

 俺はがっくりと肩を落としながら『まだまだ孔明先生にはほど遠いな』などと自嘲じみたことを考えつつ、趙雲の駆る馬に揺られ続けた。


   *


 趙雲が劉備軍に辿り着き、馬から降りた瞬間、俺は大地に仰向けに倒れ込んだ。

 身体と心の疲労が一気に噴き出してきた感じだ。

「劉姉! 関姉! 哥哥お兄ちゃん帰ってきたん! ちゃんと頭もついてるん!」

 張飛がさらりと怖いことを言いながら、俺に駆け寄ってくる。

「ほう。意外としぶといな」

 関羽が青龍偃月刀せいりゅうえんげつとうの柄で俺をつつきながら、感心したように呟いた。

 そして、我らが劉備玄徳りゅうびげんとく様は――

「趙雲! お手柄だったわ! 敵陣の中に一人で突っ込んで仲間を助け出してくるなんて! あなたは英雄よ!」

 趙雲を激賞し、抱きしめていた。

「……」

 趙雲が無言で頷いた。

 相変わらず無表情のままだったけど、劉備に誉められて何となく嬉しそうな感じだ。

「ねえねえ。劉備さん。俺は? 俺、結構頑張ったんだけど」

 俺は寝転がったまま、自分を指してそうアピールする。

「何言ってんの。あんたのために危うく私の趙雲を失うところだったのよ! だから、ご褒美ほうびはなし」

 つかつかと俺の元に歩み寄って来た劉備は、ドカッと俺の腹の上に腰を下ろした。

「ええー」

「でも、張飛を優先して逃がしてくれたことは誉めてあげるわ。良くやったわね。天人」

 劉備は優しく微笑んで、俺の髪を撫でた。

「張飛じゃないんだから、撫でられたくらいで喜ばないぞ。俺は」

 そう言って俺は顔を背ける。

 本当は結構嬉しかった。

 俺は、日本では、何も成し遂げたことのない人間だったから。

 誰かの役に立てたことは、素直に充実感があった。

「くすくすっ。そう。じゃあ、もっと私のために頑張りなさい。手柄を立てたら、もっとすごいご褒美をあげるわ。もっとも――、もうあんまり天人あまとの知識が役に立つ場面はないかもしれないけど」

 劉備は小さく笑って、俺の腹から腰を上げる。

「それはどういう意味だ?」

「そろそろ江夏こうかにつくわ。船を手に入れて、中国の外に出ちゃえば、もう戦うこともほとんどなくなるでしょう?」

 劉備が前方を指して言う。

 そこには、秋の夕陽にきらめく、大河があった。

「そうか。着いたのか」

 劉備が中国の外に出てしまうなら、それはもう三国志さんごくしではない。

 確かに俺の知識は役に立たないだろう。

 俺はほっとしたような、さびしいような、何とも言えない複雑な気持ちで、その滔々と流れる水を見つめた。

 川の向こうでは、品のいい礼服姿の女性が、こちらをじっと見つめている。

 その背後には、劉備軍とは違う旗を掲げた兵士が、ずらっと整列していた。

魯粛ろしゅく! 迎えに来てくれたのね! 元気にしてた?」

 劉備がその女性――魯粛に近づいていくと、一礼と共にそう挨拶した。

「お久しぶりです、劉備様。あらあら、お召し物が汚れておりますね。さぞ大変な行軍だったのでしょう」

 魯粛が柔和な笑みを浮かべてそれに応えた。

 魯粛は劉備たちのようにキャラは濃くないのだが、その立ち居振る舞いの一つ一つに不思議と威厳がある。きっと、瞳の奥に湛えた知性が、彼女を立派に見せているのだろう。

「まあね、でも、うちの張飛と孔明が何とかしてくれたから大丈夫よ。それより、相談していた船は用意してもらえたかしら? 対曹操用のやつ」

 劉備はさりげない調子で問う。

「もちろんです。今は流れの緩やかな所に係留してありますよ」

 魯粛が穏やかに頷く。

「そう。なら早速案内して貰ってもいい? 私たちの軍は、船に慣れてないから、早めに水上で戦う練習をしておきたいのよ。船の上で並んだ時にあまりにも無様だと、孫権様に失礼だし」

 劉備はもっともらしくそう言って、頭を掻いた。

「かしこまりました。こちへどうぞ」

 魯粛は劉備に言われるがまま頷いて、の兵士に道を空けさせる。

 拍子抜けするほどあっさり、交渉は成立した。

 係留けいりゅう場所についた劉備は、船をじっくり検分した後、『引き連れてきた民衆が疲れ果てているから、一刻も早く休ませてやりたい』と言って、川の近くに野営の陣を敷いた。

 俺はバックパックを地面に降ろして、大きく息を吐き出す。

 俺の戦いは、もうすぐ終わるのだ。


   *


「天人! 起きなさい! 天人!」

「いててて! なんだよ!」

 疲れから早々に眠りについた俺は、頬に感じる痛みに目を覚ます。

 見れば、劉備が俺の頬をつねって、引っ張り上げているところだった。

「しっ。静かにして。呉の兵士が起きたらまずいでしょ」

 劉備は唇に人差し指をあてて俺をたしなめる。

「ん? どういうことだ」

「決まってるでしょ。逃げるのよ。今すぐに。他のみんなはもう準備ができてるわ」

 劉備が小声で囁く。

「もう行くのか。随分と急だな」

 俺は眠たい目をこすりながら、急いで寝袋を片づける。

「条件がいいのよ。今、呉の兵士は私たちの歓迎のうたげで酒をしこたま飲んで眠ってるわ。それに、天人。周りを見てみなさい」

「これは……霧か?」

 夜だから周りが見えないのかと思ったら、これはどうも違う。

 俺たちのいる低い所だけにもやがかかっているが、空にはむしろ秋の名月が堂々と鎮座しているのだ。

「そうよ。今日は夜霧が出ているの。逃げるのにこれ以上の条件はないわ! きっと天が私に味方しているのね! 昔から、私、逃げるのにだけは失敗したことがないの!」

 劉備は自信ありげに言って、俺にウインクした。

「それは自慢になるのか?」

「なるわよ。三十六計さんじゅうろっけいげるにかずって言うでしょ。撤退戦が一番難しいんだから」

「確かにそうかもな。じゃあ、さっさと行こう」

 俺は頷いて、バックパックを背負う。

「私についてきなさい。はぐれないでね」

 劉備の後をこそこそとついていく。

 川べりではすでに関羽と張飛が俺たちを待っていた。

 川には、七メートルほどの大きさの小型の軍船が何十艘も浮かんでいる。

 俺たちが乗り込むのは、その中でも先頭の船のようだ。

「おー。哥哥たちきたんー?」

 張飛が半分眠ったままのようなぼやけた声で言った。

「遅いぞ! 姉上の手を煩わせるな! 天人」

 関羽が手招きする。

「はいはい。悪ぅーござんした」

 適当に謝りながら俺は船に乗り込んだ。

 劉備が俺の後から船に入ってくる。

「よしっ。これで全員乗ったわね。じゃあ、出発よ!」

 劉備の合図で、船の左右に配置されていた、合計六人ほどの兵士が、一斉に艪(オールみたいなやつ)を漕ぎ始める。

 船がゆっくりと前進し始めた。

 後ろの船が後に続く。

 最初はゆっくりと、野営地から離れるに従って徐々にスピードを上げ、船は河面を滑っていった。

 皆が声を潜めるなか、ただ艪を漕ぐ規則的な音だけが、静寂を埋めている。

「……ふう。ここまでくれば大丈夫。支流から大河に出ちゃえば後はこっちのもんよ」

 劉備がいつもの悪どい忍び笑いを漏らしつつ、前方を指さした。

 霧のせいで遠くまでは見えないが、確かに数メートル先で川幅がぐっと広がっていた。

(これで俺の冒険も終わりか)

 なんのドラマも、ピンチも、活躍もなく、逃亡劇は終わろうとしていた。

 あっけないけど、現実は案外こんなものなのかもしれない。

 ガン!

 そんな悟りにも似た冷めた感情を覚えた一瞬、突如、衝撃が俺の身体を揺らす。

「どういうこと!? 何があったの? 報告して!」

 劉備が声を荒らげる。

「分かりません! 急に船が進まなくなりました!」

 船を漕いでいた兵士が、情けない声を出して首を振った。

「なあなあ。劉姉。川の中になんかあるんよ」

 張飛が川の中を、蛇矛じゃほこの柄で探りつつ言う。

「本当だ! 姉上! 見ろ! 川底に鎖が!」

 天がまるで俺たちを見放したかのように、霧が晴れていく。

 美しい満月を湛える河面の両岸、喫水線きっすいせんちょうどの所に、鉄の鎖が幾重にも渡されて俺たちの行く手をはばんでいた。

 大河の向こうから、俺たちのよりも数倍は大きい、大型の船が何艘もやってくる。

 あらかじめ準備してあったのか、船はあっと言う間に半円の陣を組み、河口を塞いだ。魚も泳ぎ出ることができないほどの厳重な包囲網。広い甲板の上に展開された兵士たちが、無数の弓をこちらに向けている。

「あれー、周瑜しゅうゆ! これはどういうこっちゃ。なんでワイらの曹操軍の侵入を警戒する罠に、天下の劉皇叔りゅうこうしゅくはんがひっかかっとるんやろか!」

 包囲網を構成する中でも、一際大きな船の、その中心に建てられた楼。

 そのてっぺんに腰かけた紫髪碧眼の少女が、わざとらしい口調で言った。

 髪型はザックバランな機能性重視のショートヘア。肩口のはだけた緩い着物で装い、胸にはサラシを巻いて、その豊かなバストラインを惜しげもなく晒している。

 その西洋人じみた容姿と、遊女のようなくだけた着物の取り合わせが、どこかエキゾチックな魅力を少女に付加していた。

「ほんまどすなあ。孫権はん。さすが名前に『備』が入ってはる御方は逃げの一手にも備えがようおますこって」

 周瑜と呼ばれた、派手な縫い取りの着物を身に纏ったその少女が、嫌みっぽく言った。

 サラシの少女――孫権の隣に腰かけた周瑜は、すまし顔で湯呑ゆのみを啜る。

 中には茶でも入っているのだろうか。

「劉備様……。共に大事を図るに足る御方だと思っておりましたのに、残念です」

 船首に佇む魯粛がこちらを哀れむような目つきで見遣ってから、顔を伏せる。

 どうやら、俺の戦いはまだまだこれからのようだ。

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