百合の烙印(5)

「あの女はおのれの栄耀栄華のためなら、それぐらいのことはする。長年、彼女の下にいた私には分かるのだ。権力者になるために夫を殺した女が、自分を権力の座から引きずり下ろした息子を心から許していると思うか?」

「それは、つまり……」

「断言しよう。マリーは、私という国王陛下の盾を取り除いた後は、必ずや陛下を始末する。君が国王陛下の命令しか聞かないというのなら、そうすればいい。だが、君に今度命令を下してくれる国王は、ルイ十三世陛下ではなく、あの母親にべったりで無能な王弟オルレアン公(ガストン)かも知れないがな!」


 リシュリューはそう叫ぶと、枕元にあった一枚の紙をトレヴィルに放り投げた。


 それは、法務大臣ミシェル・ド・マリヤックが弟のルイ・ド・マリヤック元帥に宛てた手紙で、リシュリューの密偵が、昨夜、ルイ・ド・マリヤックの屋敷に潜入して入手したものだった。老大臣と弟の元帥の裏切りを早くから察知していたリシュリューは、長い期間に渡ってマリヤック兄弟を泳がせていたのだ。その手紙には、驚くべき文言が書かれてあった。


 ――リシュリュー排斥は間近。

 ――決起のために、バッソンピエール元帥を味方に引き入れろ。

 ――太后様は、王弟オルレアン公の即位をお望みである。


「……!」

「マリー太后の動向が怪しいと私はずっと彼女を見張っていた。そして、とうとう政府転覆の証拠をつかんだのだ。どうする、近衛銃士隊長代理トレヴィル! 私と手を組んでルイ十三世陛下を守るか! それとも、次の国王に仕えるか!」


 トレヴィルは、クワッと目を剥くと、左胸に拳を激しく叩きつけた。







 シャルルは、一人、パリの街を歩きながら「分からん、分からん」と唸っていた。


(いったい、何がどうなっているのやら……)


 どう見ても犬猿の仲だったはずのリシュリューとトレヴィルが、一時的ではあるが同盟を結んだのである。しかも、もうすぐ国家を左右する大事件が起こるという。


(昨夜の銃士隊と護衛隊の争いは、無かったことにするのだろうか。双方で死人が出たというのに、そんな簡単に水に流せるものなのか?)


 分からん、分からん。知恵者のニコラに話して、彼の意見を聞いてみたいとシャルルは思ったが、二コラの屋敷がどこにあるのか知らないので訪ねることもできない。


 いったんトレヴィルとともに、トレヴィル邸に戻ったシャルルは、まだコンスタンスが帰宅していないと知って心配になり、様子を見るために仮宮殿まで向かっていた。


「む? 何だ、あの馬車は」


 仮宮殿のすぐ近くまで来たとき、もの凄い速さで走る馬車とすれ違った。あんなに飛ばしていたら、歩行人を轢いてしまうぞと思いつつ、シャルルが気を取り直して再び歩き出すと、また馬車とすれ違った。これもすごい速さだった。


「ちぇっ。何なんだ、いったい」


 シャルルがぶつぶつ言っていると、また前から何かが……。


「コンスタンス!」

「シャルルさん!」


 シャルルは、仮宮殿から飛び出してきたコンスタンスとぶつかった。よろめいて後ろに倒れそうになったコンスタンスの手首をつかみ、ぐいっと自分の身体に引き寄せる。心の準備も無く愛しい人の身体に触れてしまったシャルルは、ひどく動揺したが、何とか平静を装って「ごめん」と身体を離した。


 コンスタンスは、しばらく肩を上下させて、真っ青な顔で立ち尽くしていたが、


「シャルロット!」


 と、叫ぶと、その場に膝をついて崩れてしまった。


 シャルルは、自分が何かコンスタンスを傷つけるようなことをしたのではないかと思い、


「コンスタンス、どうしたのさ。俺が気に触ることをしたのなら謝るよ。だから、顔を上げてくれ」


 と、オロオロするばかりで、コンスタンスがわななく声で呟く言葉の意味など、まったく分からなかったのである。


「お父様に知らせないと……。大変なことになってしまったわ!」







「シャルロットが攫われただと……」


 トレヴィルは、血相を変えて屋敷に戻って来た娘の報告を聞き、ついに不測の事態が起きてしまったかと舌打ちした。


 波乱は覚悟していた。そして、アンヌ王妃を守る決意も。だが、よからぬ陰謀が起きようとしているこの最悪なときに、しかも、シャルロットを仮宮殿から連れ出したのがマリー太后だと聞いて、トレヴィルは狼狽したのである。


(あのお方は、シャルロットを利用して、王妃様を自らの陰謀に引きずり込む気だ)


 コンスタンスが説明した、昨夜から今日の午前までに起きた仮宮殿での出来事は、以下の通りである。


 まず、国王ルイ十三世に、バッキンガム公爵の娘をアンヌ王妃が保護していることを教えたのは、マリー・ド・オートフォールという宮廷女官だった。

 女官オートフォール嬢は、女嫌いと言っていいほど潔癖だったルイ十三世が、初めて恋をした妖美な十四歳の少女だ。アンヌ王妃は、夫が女官に夢中になっているのを横目に、男女の快楽を国王が知って、自分にも興味を示してくれるようになるのなら、それでいいと考えていたようである。だが、この女官は、もとはマリー太后の侍女だった。


 シャルロットの存在を何らかの方法で知った太后が、かつて自分に仕えていたオートフォール嬢を使い、ルイ十三世の耳に入れたのだ。


 激怒したルイ十三世は、真夜中、長らく訪れていなかったアンヌ王妃の寝所にズカズカと入り込み、「汚れた血を引いた子どもはどこだ!」と怒鳴った。


 突然のことに驚いたアンヌ王妃は、シャルロットが眠っている隣室のドアの前に立ち、夫の行く手を阻もうとしたが、それではそこにシャルロットがいると教えているのと同じである。


「そこにいるのか、あの公爵の子が」

「な、何のこと? 誰もいないわ!」

「お前はなぜ、いつも朕を困らせることばかりするのだ! そこをどきなさい!」


 王妃を押しのけ、ルイ十三世はシャルロットの眠る部屋に入った。そして、その憎き私生児を発見すると、「いますぐパリから追い出す!」と叫んで、シャルロットをベッドから引きずり下ろそうとしたのだ。


 シャルロットの看病をしていたコンスタンスが、国王にすがりつき、哀願した。


「陛下、どうかお慈悲を。この子はいま病気なのです。この夜更けに外に放り出されたら、十一月の冷えた空の下、とても生きてはいられません」

「君はトレヴィルの娘ではないか。答えなさい、この子がバッキンガムの私生児か?」

「私の口からは何も答えられません。ただ一つはっきりしていることは、この幼い子は、陛下のご決断次第で、今夜にも命を落としてしまう哀れでか弱き存在だということです」

「……哀れなのは、妻に裏切られ続ける朕のほうだ」


 シャルロットは、真夜中に仮宮殿から追い出されることは、何とか免れた。しかし、ルイ十三世は、「明日には朕のいる場所から遠ざけるように」とコンスタンスに命じたのである。もはや、そうするしかなかった。


 絶対にシャルロットを手放さないと駄々をこねるアンヌ王妃をコンスタンスは何とか説得し、トレヴィル邸で預かることにした。そして、翌朝、病気のシャルロットを安静に運ぶため、コンスタンスが馬車の手はずを整えていたとき、予想もしていなかった人物が仮宮殿に現れたのである。


 それは、マリー太后だった。

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