剣戟(4)
場面を転じて、そのリュクサンブール宮殿内。
マリー太后は、この日、リシュリュー枢機卿を呼びつけていた。
かつて摂政だったときに造らせた黄金の玉座に、太后は座っている。
「あなたと、たまには世間話をしようと思ってね。最近は、戦争などで意見が違って、すれ違いが多かったから」
「……ありがたき幸せ」
リシュリューは慇懃に答えたが、気味が悪くて仕方がなかった。密偵の報告によると、マリー太后はリシュリュー排斥の陰謀を進めているという。だが、決定的な証拠がつかめていないため、動きがとれずにいた。
(もしや、ここで私を暗殺するつもりか?)
いや、マリーという女は、自分の手を直接汚すという選択肢を最後の最後までとっておく。いまこの段階で、そのような手段はとらないだろう。
では、なぜリシュリューをここに呼んだのか?
「リシュリュー」
「はい」
玉座のマリー太后は大きな瞳で、真っ直ぐにリシュリューを見つめている。かつて、リシュリューが追従のつもりで褒めた、強い光を放つ茶色の瞳である。正直なところ、彼女には他に称えるべき美点が見つからなかったのではあるが。
「私が譲ってあげたプチ・リュクサンブールの住み心地はどう?」
「快適にすごさせていただいております。全て太后様のおかげにて……」
「そうよ、全ては私のおかげ」
傲然とマリー太后は言うと、少し興奮ぎみに言葉を続けた。
「あなたが宰相になったのも、私がルイを説得してあげたからよ」
「…………」
息子ルイ十三世によって、絶大であった権力を奪われたマリー太后は、自分の派閥だったリシュリューを宰相に推薦することによって、勢力の巻き返しを図ったのだ。だが、リシュリューは、太后の思惑通りには動かなかった。親不孝な国王に接近し、国王の王権を高めることに専念したのである。
「あなたほど、憎々しい裏切り者はいない」
「宰相とは、王を補佐する者。私は、おのれの職務を忠実に……」
「黙れっ!」
バン! とマリー太后は扇をリシュリューに投げつけた。宰相の青白い額に血が滲む。
「この数日だ! この数日の内に全てがひっくり返る! そのときには、お前が身に纏っている赤の僧衣だけでなく、下着まで剥いでパリから追い出してやるわ!」
(数日……)
リシュリューは、ただならぬ台詞を聞き、驚愕した。このイタリア女は、数日の内に政変を起こす、リシュリューを追放すると宣言しているではないか。しかも、倒すべき政敵に対してだ。
(何だ、この女は。あまりにも直情的で愚かだ。意味が分からん)
リシュリューには、マリー太后が理解できなかった。彼が当惑している間にも、太后はヒステリックに喚き続ける。
「命が欲しければ、私にもう一度跪きなさい! 昔のように、私のそばにいて、このマリー・ド・メディシスを支えるのよ!」
「……太后様。私はこれにて失礼させていただきます。残務がありますゆえ」
これは昔飼っていた犬への未練なのか。マリーは執拗に「跪け! 跪け! 跪け!」とリシュリューの背中に叫ぶ。
「逃げるのか、リシュリュー! 本当にお前は、私が可愛がってやっていたころから何も変わっていない臆病者よ! おほ、おほほほほほ!」
マリー太后が全身の贅肉を震わせ、狂った笑い声を上げる。リシュリューにとって、それはとてつもなく不快な音楽だった。
玉座の間を辞去し、リュクサンブール宮殿の庭に出たリシュリューは、「ふうぅ」と大きく息を吐いた。秋風の心地よさがリシュリューの苛立つ心をわずかばかり冷ましてくれたが、それでもなお、あのイタリア女に対する憎悪の念が宰相の胸で激しく渦巻いているのであった。
「猊下……お耳を」
庭に控えていた、腹心のロシュフォール伯爵がリシュリューにある変事を耳打ちした。
リュクサンブール宮殿のすぐ近くで、剣戟の音と複数の怒鳴り声が聞こえるというのだ。
「ロシュフォール伯爵。そなた、その顔は何か知っているな?」
浮かぬ顔をしているロシュフォールをリシュリューがギロリと睨む。
「実は……例のガスコーニュの少年シャルルの居場所を突き止めたのですが、彼を猊下のもとに連れてくるようにジュサックに命令いたしました」
「ジュサックだと? あの荒くれは暴走する! なぜあれに任せたのだ」
「ジュサックほどの手だれではなければ、シャルルを取り逃がすと考えたのですが……。私の従者に様子を見に行かせたところ、ジュサックら護衛士六人が近衛銃士ら数人と決闘に及んでいるとのことで……」
「決闘は御法度だ! あの馬鹿者めが!」
まさかリシュリュー枢機卿が、いまマリー太后のリュクサンブール宮殿にいるとは、ジュサックは夢にも思っていないのだろう。
「ロシュフォール。そなたは立派な剣士だが、思慮が浅い。私の許可があるまで自邸で謹慎していなさい」
「ははっ……。げ、猊下? どちらへ?」
「馬を引けっ! あの荒くれを叱りつけてくれるわ」
マリー太后に嘲笑されたことが、よほど業腹なのであろうか。いつも沈鬱な表情ばかりしているリシュリューが、興奮ぎみで、かえって血色がよく、軍人の道を進んでいたころの青年アルマン・ジャン・デュ・プレシーの顔に戻っていた。
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