剣戟(2)

「そろそろ午後一時になるのだが、遅いな。少し料理をたくさん注文しすぎたかな」


 まずい牛乳を結局飲みきったニコラが暇そうにそう言ったときだった。部屋のドアをこんこんと叩く音がしたのである。


 ようやく料理の配達人が来たのか、と空腹のあまり目眩がしていたシャルルが、いそいそと部屋の入り口まで行き、ドアを開けた。


「シャルルさん。こんにちは」

「コンスタンス!」


 なんと仕出屋ではなく、コンスタンスがそこにいた。愛しい人の予想外の来訪に、シャルルはひもじさも忘れ、「さあ、どうぞ入って!」と少しはしゃぎぎみに彼女を部屋に招き入れた。舞い上がっているシャルルを見て、ニコラはアルマンに耳打ちする。


「あの別嬪さんは誰だい?」

「近衛銃士隊長代理トレヴィル殿のご息女だ。失礼なことは言うなよ」

「ふーむ。シャルル君、可哀想に。あれは片想いだな」

「なぜ分かる」

「空回りしている男なんて、だいたい失恋するものさ」


 いつもの地獄耳シャルルなら、そんな友人二人のひそひそ話を聞き逃さないのだが、このときはコンスタンスと話すのに夢中で、彼女の心地よい声以外は何も耳に入らなかった。


「シャルルさんのお兄さんに頼まれていた物を持ってきたのだけれど」

「兄貴なら朝からいないよ」

「え? 今日は彼の非番日だったはずよ」

「アドルフ、アラン、ボドワンたちとどこかに遊びに行った」

「ああ、そういえば、臨時収入が入ったとか言って、浮かれていたわね……」


 コンスタンスはため息をつくと、両手で大事そうに抱えていた包みをポールのベッドの隅に置いた。そして、シャルルに微笑んで言う。


「まったく。遊び人は嫌いだわ」

「俺は、兄貴みたいにはならない」

「そうね。見習ったらダメよ。……それより、シャルルさん。新しいお友だちができたのね?」


 コンスタンスは、初めて見る少年ニコラと目が合うと、両手でスカートをつまんで品よくお辞儀をした。


 ニコラも、貴族として礼儀正しくお辞儀をして、「パリ高等法院の弁護士ニコラ・フーケです」と名乗った。美しい女性には愛想がいいようだ。


「このニコラが、俺のロシナンテを買ってくれたんだ」

「まあ。ロシナンテはいま元気でやっているのかしら」

「シャルル君にそうとう甘やかされて育ったらしい。食っちゃ寝、食っちゃ寝しているよ」


 それでもロシナンテのことが気に入っているらしいニコラは、二、三のロシナンテに関する珍談をシャルルたちに面白おかしく語ったのである。

 ニコラには人を和ませる才能があるらしく、初対面のコンスタンスはわずか数分の会話で若き弁護士にだいぶ馴染んだ。


「コンスタンスさん。もう少ししたら、仕出屋の料理が届くのだが、僕たちと一緒に食べませんか」

「それは名案だ!」

「でも……それは悪いわ」


 男三人に混じって女の自分が食卓を囲むのは恥ずかしいと思ったコンスタンスだが、シャルルとニコラにぜひぜひと迫られ、仕方が無くこくりと頷いた。


 そして、午後一時半になって、ようやく仕出屋の料理が届いたのだが……。


「何だ、この量は!」


 シャルルたちが驚いたのも無理は無い。どこかの結婚披露宴と間違って届いたのではと言いたくなるような数の豪勢な料理が、部屋中を埋め尽くしたのである。足の踏み場も無い。


「私、食べる前からお腹いっぱいだわ……」


 そう呟いて、コンスタンスは真っ青になってしまった。

 鳥肉の中に、豚肉、たまご、香辛料などを詰めたアントレ・フロワード(冷前菜)。

 肉や野菜、魚をすり潰して、パイ皮に詰めて焼いたパテ。

 じっくり煮込んだシチュー料理ラグー。

 鮭のトゥルト(パイの包み焼き)。

 デザートにはチーズタルト、煮こごりのジュレ(ゼリー)など。

 他にもまだまだたくさんの料理があった。


「おい、君。これだけの料理、いくらしたんだ」


 呆れたアルマンがニコラの肩を小突く。ニコラはアッハッハッハッと笑った。


「十七エキュさ」

「十七エキュ? 十七エキュの金が、このご馳走の山に化けたのか!」


 シャルルは軽い目眩を覚えた。空腹ゆえではなく、シャルルのために父ベルドランが汗まみれになって親戚や知人から借金した十五エキュよりも二エキュ多い金をニコラはたった一度の飲み食いに使ってしまったことに衝撃を受けたのである。


「シャルル君。遠慮することはないのだよ。十七エキュは本来、君の金だったんだ。五エキュは例の泥棒が君から盗んだ金の一部、十二エキュは君が受け取らなかった馬代なのだからね。さあ、食べようぜ」


 これがニコラ流の親睦の深め方らしい。さすが宰相になると豪語する人間は器が大きいとシャルルは呆れながらもそう思うのであった。







 外はすでに夕闇に包まれている。


「ようやく食いきった……」


 シャルルとアルマンが、ぽっこりと出たお腹を苦しそうにさすりながら、フーッと息を吐いた。少し動いただけで、食べた物が口から出てきそうである。


 コンスタンスは、最初から戦力外だった。料理の山を見たときから満腹感に満たされてしまい、果物やデザート類を小動物のようにちょこちょこ食べただけで、降参した。


 ニコラも、口ほどでもない。肉料理を数種類とスープを一皿だけ食すると、


「もう、いいや」


 と言って、ポールのベッドに寝転がり、そのまま眠ってしまったのである。はなから大食いに挑戦する気などは無く、友人たちに豪華料理を振舞いたかっただけらしい。


 残してしまってはもったいないの一心で、完食に挑んだのはガスコンの二人、シャルルとアルマンだった。田舎にいた時分、一度でもいいから、宮廷で出るような美味しい料理を「もう食べきれない」と言ってしまうぐらい、たくさん食べてみたいと夢見たのは二度や三度ではない。しかし、いざ実現すると、食事を食べ残すなど死んでもできない田舎育ちの少年二人なのであった。


「ふぁぁ、よく寝た。おお、ちゃんと全部食べたのか。ガスコーニュ育ちは胃袋が鉄でできているのかな」


 呑気にベッドから起き出したニコラをシャルルとアルマンが、じろっと睨む。


「ニコラ、ごちそうさま。今度、仕出屋に料理を注文するときは、一言、俺たちに相談してくれ」


 シャルルが皮肉を込めて言っても、ニコラは「うん、分かった」とまったく気がつかない様子だった。


「私……もう帰るね」


 食べ疲れたらしく、ふらふらとコンスタンスが立ち上がる。シャルルは慌てて手を出し、コンスタンスを支えた。彼女の体温が手のひらに伝わり、家族以外の女性にほとんど触れたことが無いシャルルは、胸の動悸が激しくなる。


「シャルルさん、私の十倍は食べたのに、元気ですごいわ」

「あ、当たり前さ。屈強のガスコンが、この程度で音を上げたりはしない。屋敷まで送るよ」


 本音を言うと、少し歩いて腹ごなしがしたいシャルルであった。

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