三人の十五歳(4)
口八丁のジャックは、泡を食って逃げ出そうとしたが、三歩目で足は宙を蹴っていた。シャルルがジャックの首筋を片手でつかみ、恐るべき膂力で持ち上げたのである。
えいやっ!
昨夜の雨でぐしゃぐしゃに濡れている地面に叩きつけられたジャックは、蛙みたいな声をあげた。
「とんでもない暴れ馬だ!」
どさくさに十二エキュを突き返されていたニコラは、豪胆なシャルルを(痛快な奴!)と内心賞賛して、これから何が始まるのだろうかと好奇心で胸を躍らせた。
憤怒の感情に突き動かされているシャルルは、泥だらけになって倒れ、うめいているジャックを見下ろしてまくし立てた。
「やあ、口八丁のジャックさん。俺に殴られた頬とロシナンテに噛まれた頭の傷は治ったかい? この間は素敵な宿屋を紹介してくれて、どうもありがとう。糞臭くて、藁のベッドが快適だったよ。すごく不思議そうな顔をしているな。どうやって牢獄から出たのか知りたいか? いいぜ、後で教えてやる。しかし、その前に俺の持ち物を全て返せ! この泥棒!」
がやがやと馬市場の人々が騒ぎだす。剣呑な雰囲気の少年が、牢獄だの泥棒だの物騒な言葉を次々と口にして、五十がらみの男を責め立てているからだ。
シャルルの迫力に気圧されていたジャックだが、少しずつ冷静さを取り戻してきて、
(ふん! どうやって牢獄を出たかは知らんが、もう一度豚箱に入れてやれば済むことだ。この間みたいに、言葉巧みに、ここのたくさんの群集を儂の味方にして、このガキを地獄に叩き落してやるわい!)
と、このいんちき男は下唇を蛇のように長い舌でぺろりとなめた。
「た、助けてくれー! この若者がいきなり因縁をつけてきて、儂の売り物の馬を奪おうとするんじゃー! 年寄りを地面に放り投げるなど、人でなしのすることじゃー!」
口八丁のジャックの名演技をあらためて見て、シャルルは感心した。
涙をぼろぼろ流して、顔は恐怖で真っ青、よだれを垂らして助けを求めるその姿は、まさに哀れな被害者の老人。さぞかし観衆の同情を誘うことだろう。
だが、今日のシャルルは無策ではない。兄ポールから口八丁のジャックと遭遇したときのための対策を授かっていたのである。
「見識高いパリ市民のみなさん、この男の出まかせに騙されてはダメだぜ。こいつは俺の金や貴重品を盗んだ泥棒だ。俺だけでなく、大勢の人間が口八丁のジャックに馬や金目の物を盗まれ、罠にはまって豚箱に放り込まれている。嘘ではない、俺は信用の置ける人間だ」
バッとシャルルは群集に向けて右手をかざし、力強い声で言った。その腕には金のブレスレットがはめられており、太陽の光によって燦爛たる輝きを放っている。
「これは王妃様より拝領したブレスレットだ。この口八丁のジャックに陥れられて、牢獄に入れられた俺を王妃様が救ってくださり、そのときにこの品を頂戴した」
市場内に大きなどよめきが生じた。
「王妃様だって? 本当にあの少年は王妃様の知り合いなのか?」
「嘘に決まっているだろ、あのガキは大法螺吹きなんだよ」
「だが、王妃様は手袋の飾りに金のブレスレットをしていると聞いたことがあるぜ」
あのブレスレットは王妃様の物だ、いや違う、などと人々は口々に言い合う。その様子をニコラは楽しげに見物し、アルマンは少々眉をひそめて見守っていた。
縁故で出世することを嫌い、独力で生きることを望むアルマンだ。権力を笠に着るようなやりかたが気に食わないのだろう。シャルルもアルマンの視線が気になったが、ポールが珍しく兄らしい諭し口調で、シャルルに言い聞かせたときの言葉を同時に思い出してもいた。
「今度はもう泥棒なんぞにはめられて、牢獄にぶち込まれるなよ。同じ失態を二度も繰り返すような馬鹿は、トレヴィル殿とて見放すに違いない。
もとをただせば俺たちの先祖は商人で、頭を駆使して金をもうけて貴族になったのだ。俺のように『狡猾ポール』と陰口を叩かれるようになれとは言わんが、お前ももう十五歳なのだから、いつまでも猪突猛進ではダメだ。機転の利く要領のよい男になれ。おのれの出世のためならば、何でも利用する覚悟でいろ」
兄の生き方か、アルマンの生き方か。シャルルはまだ心が完全に成熟しきっていない思春期の少年である。同じ十五歳のアルマンが言う「おのれ一人の力で人生を切り開く」という別の生き方に憧れを感じて、兄の言う「何でも利用する」生き方が姑息に思えてくるのだ。しかし、シャルルはあえて自身の迷いを無視しようとした。
いまは逡巡しているときではない。いまのシャルルには、兄から教わった策しかこの場を切り抜ける方法が無いのだ。ここで失敗して立身出世を諦めたくはない。
「に、偽物に決まっている! 王妃様のブレスレットなはずがない!」
口八丁のジャックが唾を飛ばしながら叫んだ。シャルルは「いや! 本物だ!」と怒鳴り返し、両者は睨み合った。群衆は固唾を呑んでその光景を見守っている。
「どれ。僕に見せてみろ」
演劇の観客で居続けることに飽きてきたニコラが、シャルルに歩み寄ってブレスレットを鑑定士のように目を凝らして見た。
「巧緻な細工で双頭の鷲が刻まれている……。これは本物だな」
双頭の鷲とは、ハプスブルク家を象徴する紋章である。このブレスレットが、スペイン・ハプスブルク家の王族出身であるアンヌ王妃の装飾品だという何よりの証拠だとニコラは野次馬たちに説明した。
シャルルは、ニコラにこっそり耳元で囁く。
「お前、物知りなんだな」
「常識の範囲内だ」
王妃のブレスレットを腕にはめたシャルル。
みずぼらしい姿をした人相の悪いジャック。
こうなると、市場の人々が信用するのは、圧倒的な箔がついたシャルルである。
「何だ、あのおっさん、泥棒だったのか」
「俺は最初から怪しいと思っていたぜ」
「王妃様のブレスレットをはめている人が、悪さをするわけがねぇ」
シャルルが何も指示しないうちから市民たちは納得し、「泥棒をとっ捕まえろ!」とジャックに襲いかかり、殴る蹴るの暴行を受けた口八丁のジャックは地べたに這いつくばった。
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