ロマンス前夜(5)
「聖戦だと?」
「はい。枢機卿はカトリック教の聖職者でありながら、カトリックの国々と対立し、プロテスタントどもの国々に味方しています。同じカトリック教徒として許せぬのです」
ミシェルは誰よりも信心深いカトリック信者である。
この時代のヨーロッパは、三十年戦争と呼ばれる、カトリック派とプロテスタント派の国々に分かれた宗教戦争のまっただなかだった。一六三〇年時点でフランスはこの戦争に参戦していない。しかし、カトリック教を信奉する神聖ローマ帝国、スペインらハプスブルク家に対抗姿勢をとり、プロテスタントの国々を支援する政策をリシュリューはとっていた。ミシェルはその政策に怒りを感じていたのだ。
「教会の裏切り者リシュリューを排除し、フランスを正しきカトリック教徒の国に戻すためならば、私は死をも厭いません」
「しかし、文官のそなたに何の力があるというのだ」
「私は国璽を管理しておりますゆえ、偽りの王命を下すことができます。そして、我が弟ルイ・ド・マリヤック元帥が軍隊を動かして枢機卿一派をこのパリから掃討するのです」
「政変を起こすのか!」
ガストンが宮殿中に響くような大声を上げたため、いままで黙って聞いていたマリー太后が「しっ」と息子を咎めた。
「リシュリュー排斥後、私たちが新しい政府をつくるために、邪魔になる者は全て始末するのよ。いずれにせよ、マリヤック兄弟だけではまだ味方が足りないのも確か……」
太后は陰湿な笑みを浮かべ、「あのスペイン女をこちら側に引き入れましょう」と言った。
「スペイン女とは、誰のことですか」
「決まっているじゃない。アンヌ・ドートリッシュよ」
「それは……」
無理でしょう、と言いかけてガストンは口をつぐんだ。自分の母が行なった兄嫁に対する陰険ないじめの数々を思い出し、そんな過去を忘れてアンヌ王妃を味方に引き入れると言う母マリーの無神経さに呆れてしまったのである。
確かにアンヌ王妃は夫のルイ十三世とは冷え切った関係だ。実家であるスペイン・ハプスブルク家と争う政策をとるリシュリューとも犬猿の仲である。
しかし、自分をときには無視し、ときにはいじめた鬼姑に手を組もうと言われて、アンヌ王妃は頷くだろうか。
マリー太后はガストンの心配をよそに、また「ほほほ」と醜く笑った。
「あんな小娘、弱みを一つ握ってやれば、こちらになびくわ」
「弱みと言っても、そんな簡単には……」
「バッキンガム公爵の私生児」
「え?」
ガストンは言葉の意味を理解できすに固まった。マリー太后は我が子に構わず、偽りの栄華を描いた我が連作絵画を再び見上げる。
『サン・ドニ聖堂におけるマリー・ド・メディシスの戴冠式』
遠征に出る前のアンリ四世が、マリー王妃に留守中のフランス統治を任せるために行なった戴冠式の場面である。この戴冠式の直後、アンリ四世は暗殺された。
(この日から、フランスは我が手中に入った。そして、まだ手放してなどいないのだ)
必ずリシュリューを倒す。彼女にとってリシュリューは、自分に跪いていたころの三十代のリシュリューのままであり、四十五歳のフランス王国宰相リシュリューなど、ただのこけおどしにすぎないと思っている。前に書いた、この世でリシュリューを恐れない人間の一人目こそ、このマリー・ド・メディシスという女なのである。
両腕を大きく広げ、マリー太后は巨躯を震わせて叫んだ。
「『マリー・ド・メディシスの生涯』はまだ終わっていない!」
国王の病。
王妃の孤独。
枢機卿の政治。
太后の陰謀。
ガスコンの少年シャルルは、まだ何一つ知らない。いまはただ、数年ぶりに再会した兄ポールとの共同生活に大きな不安を感じていた。
フォッソワイユール街の下宿屋に着くなり、
「お前は後からこっそり部屋に入って来い」
と、兄に命令されたのである。
「どうして」
「大家には、お前が今日からここに住むことを言っていない」
「早く言ってくれよ」
「馬鹿、そうしたら二人分の家賃をとられちまうだろ。これから俺が外に出ているときは、お前は部屋の中で息を殺しているんだぞ」
そんな会話のやりとりをした後、シャルルはこん畜生と思いながらも、下宿屋の外壁をよじ登って二階の兄の部屋に侵入したのである。すでに夜だったのでよかったが、真っ昼間にできる芸当ではない。
窓から部屋の中に飛び降りたシャルルは、むっつりとした顔で兄を睨んだ。
「お帰り」
「ただいま」
ポールはすでにくつろいでいて、ボルドー産のワインをぐびぐびと飲んでいた。
「身体の臭い、だいぶましになったな」
「よじ登って来る前に、井戸で身体を洗った」
「誰にも見つかっていないか」
「たぶん」
ポールは自分が座っている円卓をこんこんと叩いた。お前もここに座れ、ということだ。
「兄貴に聞きたいことがあるのだが」
椅子に腰を下ろしたシャルルは、すでにワイン瓶を空にしてしまったポールに、トレヴィル邸で聞きそびれたことを問いただした。
「なぜ父方の姓を捨てて、母方の姓を名乗っている」
ダルタニャンは母フランソワーズの実家の姓だ。兄がポール・ダルタニャンなどとパリで名乗っているせいで、シャルルがいくら「俺はポール・ド・バツ・カステルモールの弟だ」と言っても、近衛銃士隊の人々に通じなかったのである。挙句の果て、牢獄に入るはめになってしまった。
「そりゃぁ、あれだ。ダルタニャン姓のほうが、受けがいいからだよ」
「受け?」
何の話か分からない、と言いたげにシャルルは首を傾げる。ポールは二本目のワインを開けて杯に注ぎながら言った。
「カステルモールなんて田舎貴族の姓、このパリでは誰も知らない」
くい、と酒をあおる。故郷にいたころはまったく酒を飲めなかったポールだが、この数年でかなり強くなったようだ。
「だが、母方のダルタニャン姓は違う。俺たちの母方の祖父ジャン・ダルタニャンはパリではちょいとした有名人だったからな」
「そうなのか?」
「近衛歩兵連隊の旗手を務めていたそうだ」
「旗持ちのどこが偉いんだよ」
「馬鹿、軍旗は軍隊の象徴だぞ。それを掲げて行進できるのは名誉なことなんだよ」
「そんなものなのか」
「そんなものだ」
いまいちよく分からないが、父方の姓よりも母方の姓を名乗ったほうが出世には有利らしいとはシャルルも理解した。
「というわけで、シャルル。お前も今日から母方の姓を名乗れ」
「……まぁ、話の流れでそう来るとは思っていたが」
「嫌なのか?」
「嫌ではないが……」
ほんの少し、父ベルドランが可哀想だな。シャルルは、田舎貴族の悲しさで多額の借金に毎日悩まされている老父に思いをはせた。
(しかし、俺も出世するためにパリまで来たんだ。父ちゃんもそれを望んでいる。名前を変えただけで有利だというのなら、そうするべきだ)
昨日、今日とパリで体験したことを思い出す。この街では要領の悪い人間は生きていけないのだ。処世術などまったく知らない不器用なシャルルだが、兄の助言に従って名前を変えることぐらいはできるだろう。
「分かった。今日から俺は、シャルル・ダルタニャンだ」
決然たるその言葉とともに、シャルル・ダルタニャンは誕生した。
このガスコンの少年こそ、後年、フランスの文豪アレクサンドル・デュマが描いた一大ロマンスの主人公ダルタニャンのモデルとなった人物である。
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