ロマンス前夜(3)

 英国一の色男として知られたバッキンガム公爵は、かつてお忍びでパリを訪れた際に、宮廷の舞台で女神の役に扮して踊っていた若き王妃アンヌにひと目惚れしてしまった。危険な恋であればあるほど燃え上がる性質の彼は、何としてでも他国の王妃であるアンヌを我が恋人にしたいと強く願ったのである。


 一方のアンヌ王妃は宮廷内で孤独だった。夫のルイ十三世はもともと「純潔ルイ」と渾名されるほど女性への欲望が淡白なうえ、アンヌ王妃が妊娠するたびに流産して世継ぎを産めないことに腹を立てていて夫婦関係は冷え切っていた。さらに、宰相であるリシュリュー枢機卿の政策を採用して、フランスはアンヌ王妃の実家であるスペイン・ハプスブルク王家と敵対する姿勢をとっていたのである。スペインから付き従って来た王妃の女官たちも早い時期に追い出されていた。王妃は孤立感に苦しみ、愛に飢えていた。


 バッキンガム公爵が恋の本懐を遂げるのは、一六二五年のことだった。公爵はイングランドの正式な使者として、フランスを訪れたのである。フランス国王ルイ十三世の妹ヘンリエッタ・マリアをイングランド国王チャールズ一世の王妃として迎えるためにやって来たのだ。


 そのバッキンガム公爵の二度目のパリ訪問時に、公爵とアンヌ王妃は急接近し、ある晩に王妃の閨から英語で囁かれる愛の言葉と艶めかしい女の嬌声が聞こえてきた。そういう噂がパリで流れたのである。


 事の真相は当の二人と、ルイ十三世によって処罰された王妃付きの侍女数名しか知らない。しかし、アンヌ王妃がバッキンガム公爵に魅かれていたのは事実だったろう。なぜなら、王妃は愛の印としてダイヤモンドの首飾りを公爵に手渡していたのである。


 だが、このことが夫であるルイ十三世に露見しそうになった。さらにリシュリュー枢機卿からも責められ、アンヌ王妃は銃士隊長代理のトレヴィルに泣きついた。トレヴィルは帰国したバッキンガム公爵から首飾りを取り戻すべく銃士数名をイングランドまで密かに派遣したのであった。これがダイヤモンドの首飾り事件である。


 その後、バッキンガム公爵は暗殺されて死ぬ。フランスの西部ラ・ロシェルでルイ十三世に反旗を翻した反乱軍を支援するために続々とイングランド艦隊を送り込もうとしていた最中のことであった。


(まさかとは思うが、バッキンガム公爵はフランスを倒し、本気で王妃様を我が物にしようとしていたのでは……?)


 くだらぬ妄想と考えつつも、トレヴィルはときおりそう思う。あの情熱的な色男ならばやりかねないと。そして、王妃は亡き恋人の破滅的な愛にいまでもとらわれている。その証拠が、あのブロンドの少女シャルロットだ。


 バッキンガム公爵にはキャサリンという妻がいたが、それ以外にもたくさんの愛人をあちこちに囲っており、その愛人の一人が産んだ私生児がシャルロットだった。シャルロットの生母は産後の肥立ちが悪く死んだため、公爵は正妻のキャサリンにシャルロットを養育させたが、憎い愛人の子であるシャルロットをキャサリンは虐待していたのである。


 シャルロットにとって唯一の頼りだった実父が軍港ポーツマスの酒場で凶刃に斃れると、哀れなブロンドの少女は継母によって屋敷を追い出されてしまったのであった。


 バッキンガム公爵の忘れ形見がロンドンの街で路頭に迷い、物乞いをしているという情報を友人であるシュヴルーズ公爵夫人(ルイ十三世と対立して国外に逃亡中)から手紙で知らされたアンヌ王妃は、


「ぜひともその女の子を救い出して、私の手で育てたいわ」


 と、言い出したのである。シュヴルーズ公爵夫人とバッキンガム公爵の元側近(公爵と王妃の密会の手引きをした人物)の手を借りてシャルロットをロンドンから連れ出し、パリに到着したシャルロットを侍女であるコンスタンスに迎えに行かせたのが昨日なのだ。


 アンヌ王妃は、愛した男の娘シャルロットを大切に養育することで亡き恋人への愛を貫こうとしているのである。


(国王陛下がこのことを知れば、激怒されるだろうに)


 トレヴィルは、シャルロットが原因でルイ十三世とアンヌ王妃の関係がさらに悪化することを危惧している。同じ宮廷内にいて、シャルロットの存在を隠し通せるはずがない。また、ルイ十三世がまだ気がついていないとしても、リシュリュー枢機卿はバッキンガム公爵の私生児がパリに入ったことを察知しているはずだ。昨日、コンスタンスとシャルロットを襲ったという黒マントの男は枢機卿の配下に違いないとトレヴィルは読んでいる。


 リシュリューは数多くの政敵を苛烈な手段によって次々と屠り、フランス王国の権力を掌握した恐るべき政治家である。スペイン・ハプスブルク王家との関係をめぐって対立しているアンヌ王妃を陥れるための材料として、シャルロットを利用しようとしても不思議ではない。


 トレヴィルは、国王ルイ十三世のためならば死をも恐れぬ忠節無類の男だが、愚かしくも哀れな王妃アンヌにも同情している。だから、二人の仲をこれ以上悪化させたくないと切に願っているのだ。


 バッキンガム公爵の件で追放された侍女たちに代わって、娘のコンスタンスを王妃の侍女として宮廷内に入れたのも、トレヴィルが宮廷で起きる様々なことを把握して不測の事態にいつでも対応できるようにするためだった。コンスタンスは父から、アンヌ王妃の相談役だけでなく、王妃が首飾り事件のときのような自分の立場を悪くする浅慮な行動をとったときに、トレヴィルにそれを報告する役目を与えられている。


 このシャルロットの一件が不測の事態につながるか否か? それはトレヴィルにもまだ分からない。しかし、何かしらの波乱は覚悟しなければならないだろう。


「目を離すな」


 トレヴィルは、コンスタンスの手を握って言った。娘よ、これは王家のための重要な仕事なのだと。コンスタンスは父の思いを察し、「はい、お父様」と強く頷いた。


 王妃の動向、国王の機嫌、枢機卿の思惑……。このうち国王と枢機卿に目を光らせるのは父トレヴィルの役割、王妃を見守りつつ監視するのが娘コンスタンスの役割なのだ。


 しかし、トレヴィルにも盲点があったのである。この国を揺るがす力を持った四人目の存在を見逃していた。


 かつてフランス王国・ブルボン王家を牛耳り、絶大な権力を握った女がいる。失脚した後は人々にその存在を忘れられかけていたが、その女は国王、王妃、枢機卿の動静をじっくりと観察しつつ、再び権力の座に返り咲く機会を狙っていた。


 女の名は、太后マリー・ド・メディシス。先王アンリ四世の王妃にして、現国王ルイ十三世の生母である。彼女が、一六三〇年晩秋のフランスをかき乱すことになる。

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