裏路地のbarにはご用心

成神泰三

第1話裏路地のbarにはご用心

 もうこの家業には限界を感じる。殺し屋の世界に入って早10年、初めて人を殺したのは18の時だ。あの時の私は、つい、我慢の限界を感じて、ちょっと小突く程度の力加減で、私の恋人に手を上げてしまったのだ。それがいけなかった。私が思っている以上に、人というのは簡単に死んでしまう。ちょっと転んだだけで、ちょっと頭に衝撃が走っただけで、ちょっと胸に尖った物が刺さっただけで、ちょっと薬の配合を間違えただけで、糸の切れた人形のように動かなくなってしまう。それを知ったあの時から、世の中には死と殺人の方程式に溢れているように見えるようになってしまった。しかも、人を殺すだけで大金を支払う人々が存在することや、死んだ方が都合のいい人種も存在することを覚えてしまったら、もう止めることなど出来ない。だから私はこの家業に簡単に身を落としてしまった。


 最初はこの家業にやりがいを感じてはいたが、次第に変わり映えしない生活に、飽きを感じるようになってしまった。どんなエキサイトなイベントだって、毎日体験していれば次第に飽きてくるし、基本的には、寝て、起きて、仕事に行くこの繰り返しから脱することが出来ていないのだから、そりゃ飽きが来て当然だろう。要するにマンネリ気味なのだ。しかし、他に生きる道を知らない故、どうにもならない。


 そんな変わり映えしない日々に、仕事のターゲットと接触した折、面白い話を聞いた。ターゲットはベンチャー企業で大成した若手社長で、私と同い年か少し年上だろう。とある大企業から、目の敵にされてしまい、私に殺される運命を辿ることになってしまったのだが、殺される前日、私はとあるコンビニの灰皿の前で、最後の確認がてらターゲットと会話をしたのだ。その時、最初は取るに足らない世間話をしていたのだが、その最中、何故か印象に残る奇妙な話をした。


「君は話しやすいね。何だか今日初めてあったとは思えないよ。そんな君には、特別にいい場所を紹介してあげるよ」


 上機嫌で話し始めるターゲットに、さも興味有りそうな演技をしながら、私はほぉ〜と声を上げた。


「社長様が教えくれるいい所か〜。なんだかすごく高そうな気がするけど、庶民の私でも大丈夫な所なのか?」


「全然大丈夫! 値段は居酒屋とかに比べれば少し高いけど、その分すごく美味しいカクテルを出してくれるBARがあるんだ。繁華街の裏路地にあって、少し薄暗い雰囲気があるんだけど、中に入ると、1枚の大きな木目調のカウンターが、あの薄暗い店内の証明とマッチして最高に渋いんだ! スコッチもバーボンもブランデーも何でも揃っているし、サービスだってなかなかの物だよ。ただ、マスターには少し気をつけなきゃ行けないけどね……」


「マスターに気をつける? そんなに怖いマスターなのか?」


「いや、そんなことない。むしろ僕は好感を持てるよ。ただ、マスターの近くで飲みたくは無いけどね……」


 何処か伏し目がちに言うターゲットに、その時の私は特に気にする事はなかったが、今のどことなくマンネリ気味な私には、とても興味を引かれる話だ。ちょっとした刺激でも何でもいい、今のこのマンネリを解消してくれるようなものであればいいのだ。その癖のありそうなマスターの近くで、是非酒を飲みたい。


 そう思い立ち、今日は1日仕事を取らず、日が沈んでから事務所を出て、件のBARの入口にいる。確かに繁華街の喧騒と華やかさの恩恵を全く受けていなさそうな入口だ。電飾もなければ証明もなく、ただ、「BAR黒猫」と書かれた立て看板があるだけだ。本当に営業しているのか心配になるが、まあその時はその時だ。運がなかったということであきらめて帰ろう。


 扉を開けると、ふわっとスイレンの香りが漂い、外気の寒さで緊張していた私の体を徐々に溶かしていく。今まで花をめでる趣味などなかったからか、スイレンとはこんなにいい香りのするものだとは知らなかった。このスイレンの香りはどこから漂っているのだろうか、辺りを見回してみると、様々な魅力的な光景を目の当たりにする。木目調を主体とした内装に、目立ち過ぎない照明がマッチして、上品でありながらもどこか落ち着ける見事な演出を醸し出し、所々に置かれている可愛らしい黒猫の置物が、まるで物陰からこちらを覗いているようで、なんだか心をくすぐられる。そんな普段の私の私生活と相反するような空間に目を奪われていると、どの席にも客が座っていることに気づいた。皆まるで店内の一部のように溶け合っていて、気づくのにワンテンポ遅れてしまった。あのターゲット若手社長が気に入るくらいだ。それなりの人気店なのだろう。しかし、これでは私の座る席がないではないか。


 どこか空いていないかと探してみると、バーカウンターの中心にある三席だけが、まるで誰かの特等席であるかのようにポッカリと空いていた。その三席から視線を上げてみると、バーカウンターの上にスイレンの生け花と、件の白いスーツを着こなしたマスターらしき人物が目に入り、私は一瞬、息が止まった。見る者のすべてを見透かすような憂いを帯びた大きな瞳。薄暗い店内でもわかる、艶めかしくも美しい張りのある肌。流星のように銀色に輝き、触ることさえ恐れ多いと感じてしまう美しい髪。それらが黄金比で調整された容姿に、初めは天使かと思ったが、天使どころか男であることを、マスターの一声で知ることとなった。


「いらっしゃい」


 なんとも言えない柔らかい微笑みと声に、私はやっと息を吐くことができた。中性的ではあるが、確かに男の声だ。しかし、それに気づいたとしても、この胸の高まりは収まるような気がしない。あらかじめ言っておくが、私は断じて男色趣味などはない。だが、このマスターはそれを飛び越えて、そこいらの化粧で顔を改造する若い娘たちよりも、嫌みなほど魅力的すぎるのだ。もしかして、ターゲット若手社長が気をつけろと言っていたのは、このことだったのだろうか。


「あの、お客様、お座りにならないのですか?」


 少し困ったように着席を促すマスターに、私は我を取り戻し、丁度空いているマスターの正面の席に腰を下ろした。すぐにマスターから熱い手拭きを渡され、それで手をふきながら、しばし心を落ち着けることに専念していると、コンコン、とバーカウンターを叩く音が左隣から聞こえた。


「ね、そこのお兄さん」


 声が聞こえ、顔に向けると、そこには男の劣情を煽る服装をした女性が、椅子を一つはさんでこちらに小さく手を振っている。普段は水商売でもしているのか、どこか慣れているような気がした。


「その手のことは間に合っている」


「違うよ、失礼するね。私はただ忠告してあげようと声をかけているだけなのに」


「忠告?」


「そうだよ。悪いことは言わないから、その席に座るのはやめときな。丁度私の隣が空いているから、こっちに来なよ」


 そういって、女性は自分の左隣の席を指さした。この席を立って、そっちに移動しろというその提案に、私はしばし唸った。確かにこの席を立たなければ、このままだとマスターに対して劣情が炸裂してしまいそうだ。しかしながら、マスターを公然と眺めることのできるこの席を立つのは、なんだかもったいないような気がした。理性と本能のせめぎあいの果てに、なんとか僅差で理性が勝った。席を立ち、トイレに行くふりをしてから、女性の指定した席に座ろうとしたところ、マスターに呼び止められた。


「あ、お客様、ご注文は?」


「あ、ああ……ジントニック」


 それだけいうと、私は急いでマスターから視線を外し、トイレへと逃げた。そうでもしなければ、私の中の何かが、もう後戻りできないような気がしたのだ。一度深呼吸して、私はトイレから出て、言われた通りに女性の左隣に座った。


「へえ、お兄さんジントニックが好きなんだ。なんか意外だな~」


「とっさに出たのがそれだっただけだ。それより、なんであの席に座ってはいけないんだ?」


「いや、そのね……」


 急に女性は歯の奥に物が詰まったかのようにもごもごしだし、なんだか言いにくそうだ。もしかして、特に理由もなく呼びつけたのか? 段々眉間に皺が寄っていく私に、女性は焦るように口を開いた。


「ま、待って! ちゃんと理由はあるよ。ただ、それを言うと酒がまずくなるかもと思って……」


「……どういうことだ?」


「いや、だからね……」


 女性が弁解しようと目を泳がせていると、マスターに少し異変が生じた。恐らくは私のジントニックを作っている最中なのだろうが、その手が止まり、顔色が悪くなっているのだ。急な異変に私は少し心配になり、マスターに声をかけようとしたところ、女性に両手で口をふさがれた。


「だめ! 今のマスターに声をかけてはだめ!」


「ぐぐ……な、なんでだ?」


「それは………!」


「おっおえええええええええええええ!」


 女性が答えを言う前に、マスターの口から答えとも取れる、なんとも言えない芳しい臭いの漂うゲル状の何かを、マーライオンのように、ロケットエンジンでも搭載しているのかと思うほどの推進力でぶちまけた。その飛沫の一つ一つが、照明の明かりに照らされて、キラキラと光らせては、私の嫌悪感を寒気を併発させ、マスターのゲロの行き着く先を見ると、まるで狙っているかのように、私が先程まで座っていた席に、ホースに注がれた水流のように、びちゃびちゃと椅子の背もたれに当たって四方に飛び散っている。それを唖然としながら眺めていると、先程まで抱いていた劣情は消え失せ、次第に胸のムカつきに変わっていった。


 いやきたねぇわ。何をどう言い換えてもゲロはきたねぇわ。貰いゲロするぞコラ。


「マスターはね………お酒にすごく弱いの。匂いを嗅いだだけでああなっちゃうの」


「えぇ………」


 なんで酒に弱いのにBARのマスターなんかやっちゃったのよ………何、馬鹿なの? マスター顔に似合わず、すげえ馬鹿なの? もう訳が分からないよ…。


「………失礼しました、お客様」


 いや、遅いよマスター。もう失礼吐き散らかしちゃった後に言われても、残るのはマスターのゲロと私の胸のムカつきだけだよ。なんでそんな涼しい顔でいられるのよ。てかなんでみんな何も言わずに酒が飲めるの? 私がおかしいの? 不衛生な店だな〜これ保健所検査してんのか〜とか思わないの?


「お待たせしました、ジントニックです」


 涼しい顔で口からゲロカスを少し垂らすマスターに、最早殺意が芽生え始める。お前のゲロハンドで作ったこのジントニックを飲めと? わかんないかな〜ゲロを見せられて飲む気にならないのわかんないかな〜顔がよければ何でも許される訳じゃないのわかんないかな〜誰かこのマスターをターゲットにした殺しの依頼してくる奴いないかな〜。


「早く飲まないと、ジントニック温くなっちゃうわよ」


 女この野郎。女なら何言ってもいい訳じゃないぞこの野郎。なんでゲロマスのジントニック飲まないかんのじゃってめちゃうまいやん。


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