28 待てないトンネル

  1 ツルハシトンネル


 ――一九九六年三月。


 コツーン……。

 コツーン……。


 櫻は、青森県の国立とわだ大学大学院へと進学していた。

 一人暮らしをするのに、両親が青森へついて来た。

 恥ずかしい事に、善生が寝台列車でビール片手に騒いだものだから車掌さんに注意をされたり、切符は旅行会社に頼んで買ったのに、大学院のある駅に着いた時に不足金を指摘されて、延々と善生が支払う必要がないと大声で話したりと、早速、ハプニングが起きた。

 慧も仕事を少ししてから、合流した。

 不動産は探す程もなく、チェリーブロッサム六〇三号室の四畳半に狭い水回りの部屋になった。


「お父さんとも上手くやれると思うよ」


 慧ちゃんは、心が広いのだろうか。

 どきどきとした。


 コツーン……。

 コツーン……。


 長旅の疲れか、寝台特急で夜が明けるまで、ツルハシでトンネルを掘る音が聞こえた。


 宅配便で段ボール十個を部屋に送り、簡単な引っ越しとなった。

 今迄、いかにため込んでしまったのか、荷物を整理していて思った。


 ――一九九六年四月。


 櫻は、国立とわだ大学大学院の入学式に出席した。

 会場は、桜の名所で行われた。

 小学校の頃を思い出す。

 ランドセルに桜が綺麗だと喜んだ事。

 まだ、ハナお祖母さんが元気だった事。


 そして、入学式前から通っていた、病理の研究室へ顔を出した。

 この時、葵が心配をして、一緒に東京から来ていた。

 一週間で帰るからとチェリーブロッサム六〇三号室に泊まっていた。


「自転車の小さいのがあったから買って来たよ」

「お母さん、大変だったでしょう」


「バス乗り場にお店があったから、大丈夫だよ」

「うん……」


「お父さんが心配だし、仕事もあるから、明日、帰るからね。お見送りはいらないからね」

「……そう。おやすみなさい」


 櫻は、浅い眠りの中、夢咲の家で尋常でない事もあったが、二十余年も過ぎ、想い出の走馬灯を駆けた。


「行って来ます。気を付けて帰ってね、お母さん」

「学校、がんばりなさい」


 櫻は、一旦大学院へ行き、朝の清掃をしていた。

 まだ、六時と早い。


「自転車なら、盛岡迄のバス乗り場に間に合う……」


 誰にも言わずに、三階から圃場ほじょうの自転車置き場迄急いだ。

 帰っちゃうんだ。

 帰っちゃうんだ。

 帰っちゃうんだ。

 涙をこらえて自転車を急がせた。

 もう、会えないんだ……。


 いた!

 バスだ……!

 自転車を置いて、バスの窓から窓からと探す……!


「お母さん……!」

「櫻!」


 ちぎれても構わないからと櫻は手を振った。


「お母さん……! お母さん……!」

「櫻、来なくていいからと言ったじゃない……」


 私は、ただ、ただひたすらに泣いていた。

 喉がぐっと持ち上げられる感覚だった。

 嗚咽も構わない。


「お母さん! 元気でね! 元気でね! 帰ったら、お電話ちょうだいね……!」


 私は、葵にすっかり餌付けされていた。

 親は子を育てる。

 その依存を私は餌付けをすると考えたい。

 ただし、これは過剰だと思うものには、注意喚起が必要だ。



 ――いつまで餌付けされてんの!



 善生には、テツお母さん。

 葵には、優一お父さん。

 櫻には、葵お母さん。


 皆、大切な方だが、つる植物の様に絡まってはいけない。


 コツーン……。

 コツ……。


 再び、穴を掘り始めた。


  2 耳キレ


 涙を拭って、大学院へ戻ると、新しい生活が待っていた。

 なじみのない実験。

 英語でのなじめない授業。

 なじめない学生。

 何がどこにあるのか分からず、ルールも分からない。

 とうとう、喘息発作が起きてしまった。

 近所のさか内科に行けば、点滴を打たなければならない。

 その費用の捻出は厳しかった。

 何度か点滴を打ったら、坂医師に、内服薬で特別なものを貰った。

 櫻は、それをきちんと認識していなかった。


 ――一九九六年六月。


 菫がお産をしに実家に帰って来た。

 いつ産まれてもおかしくない時期の移動は危険だともり総合病院の産科医師に言われたと慧から櫻は聞いた。

 その時から、櫻は耳のキレが酷くなった。


『ガンガンガンガン……』


 激しい声で聞こえて来る。


『菫が、妊娠したって』

『菫が、妊娠したって』


 聞いてます。


『聞いた、聞いた?』

『二人は、避妊しなかったって』

『親にも紹介していないって』


 嫌な話し方だな。


『こそこそ……』

『ひそひそ……』


 櫻が道を歩いていても、話し掛けがしつこいから、危ない事に車に轢かれそうになる。

 北の国が、こんなに荒い運転をするなんて思わなかったわ。

 櫻が学校にいても、櫻の耳にいつも話し掛けられる。


 危機を感じて、櫻は最初に内科と間違えたとても近くのあいいえ病院へ朝九時に行った。


「お薬を飲んでください」


 帰宅後、訳も分からずに服薬すると、激しい睡魔に襲われた。


 ピンポーン。

 ピンポーン。


「おかしいなあ。さーちゃん、入るよ」


 カチャリ。


「さーちゃん。どうしたの?」


 慧は横になっている櫻の肩を軽く叩いた。


「どうしたの? 眠っているの? 具合が悪いの?」


 慧が訪ねて来たら、嘘でも眠らない櫻だ。

 何度か肩を叩かれて、うわごとをぶつぶつとして、再び眠った。


「薬……? これを飲んだのか? 粉薬で分からないな。病院に電話するか」


 あ……。

 慧ちゃんが来てくれている。

 誰かと話しているのかな?

 私、起きたいんだけれども。

 眠くて仕方がないんだよ……。


「さーちゃん。さーちゃん。聞いている? お薬が強かったらしいよ。起きられる? もう午後だよ。さーちゃんの好きなお宝拝見のテレビもやっているよ」

「う……」


「お茶を入れるから、目が覚めたら飲むといいよ」

「慧ちゃん……。来てくれていたの? ありがとう」


 東京にいた時とは違って、隣県になると、会える時間が週に一回になった。

 こっちの大学院へ来て、それは正解だった。


 後に聞けば、恐ろしい事に、羽理科大の博士だったら待てなかっただろうとか、とわだ大学大学院へは、受験して到底受からないと思っていて、泣いて慧の所に嫁に来ただろうと思っていたらしい。


「俺さ、菫がいつ産気づくか分からないから、出産予定日の六月二十八日頃の前、二週間は来られないよ」

「何で? どうして慧ちゃんが行かないといけないの? タクシーとかあるじゃない」


「俺が行かないとならないんだよ」

「じゃあ、次はいつ会えるのかな?」


 菫さんって、東京で会った事もない人に何で勝手に妊娠したのを私まで作り笑いで応援しないとならないの?

 叫びたい……!

 大きな声で叫びたい……!


『あー! あー! あー!』


 白い空気の中で叫んだ。


「仕方がないだろう。さーちゃんには分かると思ってた」


 え……。

 ここへ来て、振られちゃうのかな?

 ごめんなさいと頭を下げればいいのかな。

 それって、形だけだよ。


「お、お茶が美味しいね」

「夕ご飯どうする? そこの四十円焼き鳥にする? 奮発してラーメンか?」


 ご飯の話題に切り替えると気まずさがましになった。


 カチャリ。


 米を炊いた後、近所のオヤジさんがやっている四十円焼き鳥でお持ち帰りをした。

 勿論、味は塩だ。

 どれも好きだけれども、ネギそのものも好きだし、皮もいいしと迷うばかりだが、慧ちゃんのオススメもあって、決まる。


「ねえ……。結婚してくれるんだよね? 慧ちゃん」

「俺、恥ずかしがり屋だから。勘弁して」


「そ、そうなんだ」


 この後、段々と体調を崩して行った。


 コツーン……。

 コツーン……。

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