第七章 大学院の不死鳥〔平成〕
27 遠く離れて
1 卒業
――一九九三年、三月二十日。
カタンカタン……。
コトンコトン……。
茶色にピンクのステッチの入った帽子を目深にかぶり、すっかり眠ってしまったが、はっと夢から覚めた。
バイオリンは、足立区の発表会で、善生が駐禁の切符を切られた時に、公衆電話から五千円に負けてくれと警察に電話した事。
学校のクラブ活動で、陶芸部に入り、栃木の益子焼に興味を持った事。
漫画部に入り、流行していた『キャンディ・キャンディ』や『銀河鉄道999』を張り付いて観て、模写した事。
夢の中は櫻の四半世紀を描いていた。
絹矢先輩は、大学を卒業してしまった。
池袋発の夜行バス、ホワイトアロー号で帰るので、私は、お見送りした。
乗り損なうといけないからと、一時間以上前にバスロータリーに行った。
肌寒い春。
近くのエムエムファーストフード店でホットコーヒーとチキンナゲットをカウンターで受け取っていた。
店員さんが操作を誤って、店員さんの後ろでひたすらソフトクリームが流れていたので、絹矢先輩が教えていた。
「ソフトクリームによく気が付きましたね。私は、絹矢先輩しか見ていなかったわ」
「はは……」
二階の窓際の席にトレーを置いた。
「お電話いつもありがとう。遠距離になったらお金が掛かってしまうのよね」
「そうだね。でも、電話は掛けるから」
嬉しいけど、申し訳なく思った。
「私、手紙も書く。返信してね」
「うん」
「絹矢先輩のご実家の住所は、長くて漢字ばかりで、漢文みたいね」
「そうだね。はは」
「私は、卒業まで二年あるの。待っていられる?」
「二年後にどうするの? さーちゃん」
二人は、口元のコーヒーをことりと置いた。
二人の間にじんわりとした時間が感じられた。
「プラトニックがいいとお互いに思っているのだから、耐えられると思う。絹矢先輩しか考えられないし」
「……はっきりとは言わないね」
何をはっきりと言わないといけないの?
私達、結婚を前提にお付き合いしているのではないの?
「大学院へ行くわ。受験して」
「又、待つの? 後、何年かな……」
「一緒に雪かきしたいわ。絹矢先輩」
もしかして、絹矢先輩は、私を待てないのかも知れない。
思ったよりも寒そうな絹矢先輩との暮らしを思い浮かべ、コーヒーで手をあたためた。
――一九九五年八月。
受験は、私が羽大四年の夏にあった。
勿論、東北を目指した。
東北へ行くのは初めてではない。
絹矢先輩のご実家に伺った事があった。
「まんず、ねまれー」
先ずはお座りくださいと歓迎してくださった。
絹矢先輩の暮らす県内には希望の研究室がなく、隣県の青森県にした。
東京で何日待っても連絡の郵便が来なかったので、バイオサイエンス研究所の
結局、受かった知らせが来て、来春には、進学が決まった。
しかし、進学が危ぶまれた。
卒業が危ない……?
そんな事が起きているとは思わなかった。
バイオサイエンス研究所での卒業論文を農学部育種研究コースの発表会で発表した。
それで、大体落ち着いてしまったのだ。
論文の方は、何の指導もなく、家庭で古いワープロを使って執筆していた。
八十ページ程だが、睡眠時間なんて全然ないのに、幾日経っても終わらなかった。
書いても、ページのナンバリング機能もなく、細かい所で苦労をしていた。
五十嵐研究室の陰湿な体質を思い出しては、手塚治虫先生のコミックスを読みあさって、逃げた時もあった。
鬱々としていた。
「あー、逃げないで書く。書く。逃げない」
しかし、夜中のアニメを流しながらでも、大抵は書いていた。
「夢咲さん。何でもいいから出してくれ」
五十嵐室長から夢咲家に電話があり、葵から聞いた。
締め切り三日後に育種研に提出した。
とても大胆な事をしたと思う。
大学院に受からないのではなく、大学を卒業できなかったかも知れなかったのだから。
――一九九六年三月二十日。
絹矢先輩のいない中、櫻は、羽理科大学を卒業した。
2 キスキス
――一九九五年、十一月。
まだ雪を迎え入れる前の国から、電話が鳴った。
「はい、夢咲です」
「あ、さーちゃん? 俺、慧だよ。ちょっと大変な事があってさ」
「慧ちゃん。どうしたの? 慌てて」
社会人になった絹矢先輩と遠距離恋愛中の大学四年の時だった。
この時は、もう呼び名が慧ちゃんになっていた。
昼間の急な電話の時、ふと、妹さんの菫さんが妊娠したのかと思ったが、そんな大事を話せる訳はなかった。
「すみ、すみ……。菫がさ……」
私のある意味での悪い予感が的中した。
慧ちゃんの様子がおかしい。
「菫さん、妊娠したの……」
「そうなんだ。先ず、俺に言って来た。他に誰も知らないよ」
次は私なんだ。
信頼してくれているのかな。
秘密に触れてしまった。
「相手の人は誰? 分かっているのかな?」
「会社の男だって。自覚はあるみたいだ」
私は、菫さんが可愛いから騙されたのではないかと思った。
この時には、もう、私が菫事件の蜘蛛の巣に掛かり始めていたと考えられる。
「菫さん、四月に就職したばかりじゃない……?」
「この間、俺んちに帰った時は何も言ってなかった。母さんにも父さんにも……」
「うん」
「彼氏がいる事さえも。……もう妊娠三ヶ月になるそうだ」
えっと、直ぐにできちゃったの?
愛の欠片も見えないんですけど。
「今年、四月に出会ったとして、どうしてそんなに早く妊娠したの」
「なるべくしてなったんだろうさ」
「そうか……。菫さん、体を無理したりしないでね……。お兄さん、見守ってあげて」
「心掛けて置くよ。じゃあ、又」
「うん。お電話ありがとう」
――カチャ。
受話器はそっと置かれた。
菫さんのご両親、恋人がいる事すらも知らなかったって……?
私の彼氏は、私を抱いた事もないのよ。
同じ兄弟なのに。
すみ…。
菫さん…。
菫さん、妊娠したんだって?
妊娠って、未婚で妊娠って……?
相手はどう思っているの?
そんな軽い人と大丈夫なの?
慧さんは、誠実な方なのに……。
私の両親もそう。
足入れ結婚だなんて、軽々しく子どもを授かる関係を持つなんて……。
私は、絶対に慧ちゃんとそんな関係にはならない。
子どもができないキスまでは、いいと思うけれども。
キ、キスにも時間が掛かったわ。
交際して、二年か……。
楽しかったな、クリスマスの横浜デート。
絹矢先輩がご実家から東京に来てくれて、私の明治生まれの美濃部優一お祖父さんが、鶴見に暮らしているから寄ってくれたのよね。
うちが、亀有でお祖父さんが鶴見の鶴亀切符が発行される位、縁起がいいのよ。
それから、横浜に行ったのよね。
綺麗で可愛いお店や大きな船を見て、少女の銅像の前で好きな小説の話をして。
馬車道にあったショーウィンドウのエメラルドリングが私の薬指に似合うからと買ってくれた。
リングをはめて。
大きな観覧車の中で揺られながら……。
忘れない、忘れられない私のファーストキス……。
ちょっとだけ、涙をしたの……。
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