第六章 幼少の兆し〔昭和〕

24 母と幸せ

  1 幸せとお母さん


 櫻は、幼少の頃が一番幸せな生活を送っていた。

 そう思っていたが、絹矢先輩とお付き合いをしてから、機能不全家族ではないかと思った。 


 尋常ではない父、善生。

 厳格な母、葵。

 その夫婦仲がバランスの悪い事。

 弟、愛志への贔屓……。

 限りがない。

 幼い櫻は、心のやり場をなくして行った。


 生まれて間もなくから、櫻は、それはもうしゃくの強い子だった。


「ぎゃあ……! ぎゃあ……!」


 ただ、泣きわめく櫻。

 若い両親からすれば、原因が分からなかったので、癇だと断定した。


「この野郎、気が違ったか!」


 善生にどやされて、葵は、急ぎ支度をしたものであった。


「この救命丸きゅうめいがんを飲んでちょうだい。お口に入れて飲み込んでね」


 銀色の小粒玉を口に入れられた。


「これで、もう大丈夫だから……」


 祈る様な葵。

 苛立つ善生。

 こんな日々が続いていては、疲弊してしまう。

 そこで、ふと落ち着いた日に虫切むしきりをしたりもした。


「今日は、あたたかくて日もいいし、虫切りをしましょう」


 少し大きくなった櫻の手を葵が取った。


「この可愛いお手々を、洗面器に薄めた墨汁につけてね」


 葵は、おだやかに櫻を抱く。


「この白いの。にょろにょろと出て来たのが、虫ですよ。これをハサミで切ると櫻の状態がよくなるのですよ」


 説明ではなく説得をする。

 これは、両親の地元に伝わる呪いであり、何となく遊びでさせられたものだ。


 そんな時、我が家に明るい灯火がともった。


「櫻、3歳の冬だね。大きくなったね」


 葵は、少し涙ぐんでいた。


「もう直ぐ、弟か妹が生まれるからね。お母さん、がんばるからね」


 大切な話をしてくれた。

 葵をお見舞いに行った記憶がある。

 かめあり第一だいいち病院産婦人科に入院していた。


「あ、お母さん! お父さんとお見舞いに来たよ」


 私は、久し振りでベッドサイドに飛びついた。


「よく、来てくれたわ」


 落ち着いた声の葵は、分厚い本を読んでいた。


「お母さんは髪が長いから、三つ編みが似合うね」


 女の子らしいお話をした。

 櫻は、何だか嬉しくて、葵のピンクのネグリジェの飾りのリボンを三つ編み風にして遊んでいた。

 このお腹の子が、帝王切開分娩で産まれる愛志だった。

 帝王切開って、お医者さんが不思議な道具でポンプみたいに出すスイッチを押すのだと思っていた。

 実は、命がけだとは思わなかった。


 愛志が生まれる時、自宅で留守番を善生としていた。


「お袋、よく来てくれたな」


 善生は、櫻と六十歳違う祖母のテツを招き入れた。

 葵は、日頃から、自分の義母を大切にしている風ではなかった。


「善生やあの兄弟をあんな風に育てたのは、テツさんだよ」


 そう、こぼしていたから知っている。

 その祖母の来訪の際、櫻には、全く記憶のない事件が起きた。

 何があったのかは、皆目見当もつかない。

 覚えているのはこの事だけである。


「櫻! 俺の顔に泥を塗りやがって……!」


 善生にテツの前で台所の掃き出し窓から捨てられてしまったのである。

 小さい頃の事なのに、強烈に覚えている程、トラウマになった。

 この様な小さなトラウマが増えて行った。


  2 櫻の幼き夢


 櫻の幼い頃の夢は、お母さんみたいなお母さんになりたい事と幼稚園の絵の先生になりたい事であった。

 ごく普通の夢の様に思えるが、難しい虚像となった。


「大きくなったら、お母さんみたいなお母さんになりたいな」


 掃き出し窓の外で、櫻は何となく話掛けながら、葵から貰った壊れた鍋でおままごとをしていた。


「あら、お母さんみたいに?」


 茶碗を洗いながら、気恥ずかしそうに葵は答えた。


「そう。お母さんが好きなの。お母さん、優しいし頭いいし」


 ちいさな櫻が照れ笑いをして鍋をカンカンと鳴らした。


「櫻は、未だ幼くて、明瞭な人生など考えられないでしょう?」


 母は、子供にも容赦なく難しい言葉を使った。

 櫻は言葉の発達が早く、よく喋るので、口から先に生まれたとは両親にしばしば指摘された。


「それは、お母さんを先人として尊敬しているからかな? ふふふ」

「お母さんみたいな気丈なお母さんになりたいの」


 気丈だなんて意味が分かっているのか、櫻はがんばって話した。


「お母さんになりたいの。赤ちゃんを産んでね。女の子の赤ちゃんね。子どもは楽しく幼稚園に行って、帰って来たらお母さんと遊ぶの」


 一見するとありきたりの子どもの夢に思えた。


「でも、お父さんは要らないの。赤ちゃんだけ欲しいの」


 父親不在の家庭観は、謎めいて捻た考えの持ち主となる素地を作った。


「幼稚園の絵の先生になりたいな」


 台所の冷蔵庫の小さい方は、櫻がシールを張って遊んでいい場所であった。

 ペタリとたまごふりかけに付いていたコケコッコーのシールを張った。

 たまごだけにメンドリだ。

 そこも父親不在?


「幼稚園でね、先生になる情熱はとてもあるの。特に絵が好きなの。幼稚園で可愛い子供達と一緒にお絵描きをしたいのよ」


 自身も子供であるのに可笑しな話をしている。


「そう、がんばってね」


 微笑ましいのか、真昼の日に揺れている鉢植えのシャコバサボテンの前で笑う葵がいた。

 シャコバサボテンは、手が掛からないと葵は好んで家に飾った。

 お風呂場に置いていたのを日に当てるのに出した所であった。

 世話焼きな所が葵にはあった。

 櫻は、父親の善生と母親の葵にとても影響を受けて育った。

 

 そんな風に段々と成長して行くに従い、櫻の自我ができて来た。

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