05 ナポリと炬燵
1 ナポリの食べ物
――一九六九年、九月。
約束通りの東京は、今日はデート日和か暖かであった。
善生と葵は、初めてのデートが映画であった。
しかも、葵の面白くないと一旦決めつけたら譲らない洋画であった。
大した問題でもないのに、少し笑える話である。
「お腹が空いたでしょう。ワタシは喉が渇きました。これこれ、炭酸が好きなんですが」
そう、飲むジェスチャーを交えながら歩いていた。
カラカラリー……。
モダンだと思われる扉を見つけ、喫茶店にお昼過ぎに入った。
「どうぞ、どうぞ。お先に掛けてくださいよ」
善生のお調子者が段々知られて来た。
「え? いや、映画館でもそうしてアタシが先に掛けてしまって。駄目ですよ」
「いやあ、お疲れでしょう。どうぞ、お先に」
「そ、そうですか? 困りましたね」
カタリ。
静かに椅子を引いたつもりが、ちょっと音がして、恥ずかしくなった。
「ご、ごめんなさい」
「いや。何がですか?」
ガタリ。
善生の椅子は遠慮がなかった。
「ナポリタンって何でしょうね?」
その葵の一言で、ナポリタン二つになった。
「そうですね。意外と洋画も良いものですね。こうして観た後に映画の感想を話すのは初めてです」
葵は、ちらちらと店内を珍しそうに眺めていた。
誰も引かないピアノ、天井の見た事のない民族衣装のモビールが目を誘った。
そんなインテリアを独り占めする程に喫茶店エーテルは客を選んだ。
「そうでしょう。『エデンの奇跡』、良かったでしょう。ワタシは、二回目です」
ほくほくの善生。
「……あ! あ、あー!」
善生を唸らせたのは、葵の行動であった。
「何ですか?」
すまし顔の葵。
「それ、タバスコですよ。辛いですよ! そんなに掛けちゃ辛い……」
善生は手を大袈裟に振り、慌てて説明した。
「え? ケチャップじゃないのですか?」
ゲホッ……。
グッ……。
葵は、食べてから半分泣いていた。
小花柄のハンカチで涙を拭いたり慌ただしかった。
「いやあ、失敗しちゃいましたね……。ゴホッゴホッ」
恥ずかしそうにお冷やを飲んだ。
「お恥ずかしい」
下を向いてしまった。
「大丈夫ですか?」
善生が変な事をした。
「ワタシのナポリタン食べますか?」
「それは、あはは。違うと言いますか。あはは」
「良かった、笑った」
「おかしな方ね」
「実はですね、ワタシの好きな食べ物は、蒸かし芋なのですよ。勿論、ナポリの料理ではありませんし、喫茶店では頼めないですね」
葵は、そんなつもりはなかったが、次に会う約束をした。
蟻地獄に入っていないか、蜘蛛の巣に絡まっていないか、結婚前の女性なら気を付けないと。
葵は、そんな風には考えてはいなかった。
昼間は暖かであったのに、ふと、涼しい秋を感じた。
2 炬燵らんでぶー
――一九六九年、大晦日。
「いやあ、嬉しくて、十時間前からいましたよ」
へらへらと改札口に立つ善生。
上着は作業服で、黄色のシャツにいつもの黒いズボンと善生的にさっぱりとしていた。
「十時間ですか……。又、随分とお待たせしてすみません。いつも夢咲さんは、変わった事を仰るのね」
コートに手製の緑のワンピースを着て来た葵は、微笑ましく口元に手を当てた。
「性分でして」
ぽりぽりと頭を触った。
大晦日の今日は、二人共、流石に仕事が休みであった。
今迄、待ち合わせは映画館前であった。
街によっては、ガラの悪い所もあった。
それでも、確実に会いやすく、数回デートを重ねていた。
会う度に映画を観る事になり、金銭的に厳しくなった為、今回は善生の自宅近くの亀有駅で待ち合わせた。
「直ぐに分かりましたか?」
「改札を出て直ぐに立っていらっしゃるのですもの!」
近過ぎだと思った。
「かくれんぼじゃないですからね。見える所にいませんと」
「見つからなかったら、寒いから帰ってしまうかも」
冗句です。
「それは困ります。じゃあ、あたたまりに行きましょう」
そんな話をしながら、善生の家に辿り着いた。
木造二階建て。
便所は汲み取り式の共用で、紙は自分で持って行くものだ。
その二階、突き当たりの部屋。
「ささ、どうぞ。どうぞ。宮廷にいらっしゃい!」
「又、変な事を仰って」
「あー、寒かった。寒かった」
ぱたぱたと動いて、大人しくしていなかった。
はしゃぐのが、かなり残念な善生を葵はどうにもできない。
「アタシね、お恥ずかしいのですが、神奈川で父母と兄と兄嫁と一緒に暮らしています。毎年、皆と年越しを過ごして来ました。夢咲さんは、どうしていらっしゃったの?」
葵は、炬燵にあたりながら、まだ寒く、小刻みに肩を震わせた。
「この部屋は後一人、文鳥の好きな友達と暮らしているのですよ。だから、
「お酒、お好きですね」
文鳥がパタパタと鳥籠の中を動いた。
「ちっちゃんって言う文鳥ですよ」
チッチッと口をはしたなく鳴らして、ちっちゃんを構う。
「そうですか。生き物はどうもそんなに好きではないのよ」
「こんなに可愛いのに?」
「小さい頃ね、殺されると分かっている兎の飼育をオジサンが取りまとめているので、小遣い稼ぎに餌やりをしていたの。何て事をしていたのかしら」
葵は俯いた。
「ワタシはですね、小さい頃、仔犬を拾っては、捨ててこいと、オヤジにどやされたりしたものです」
「そう言う時代ですよね……」
「お茶、いれますか? このお茶は、まだ三日しか経っていないから、一等ですよ」
お金もない男の部屋だ。
「は……。あ……。いえ、今はいいですよ」
「じゃあ、蜜柑でも……」
何か息詰まってしまった。
「いえ、何も……」
「……」
「……」
炬燵の中で手を握られた。
あっと思ったが、声にならなかった。
何故かこんな時に、日暮里さんを思い出してしまった。
葵は大きく首を振り、一所懸命打ち消した。
決して、素晴らしく惹かれる善生ではないのに、惰性で付き合っている。
自分の気持ちを整理しなければならないのは、葵であった。
小さな柱時計が時を打った。
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