匿名短編バトルに参加した作品群!
笹野にゃん吉
ユキガクレ
手を振った指先に、しんと冷えた感触があった。
手袋に滲みた雪融け水が体温を奪っていた。「もう動くな」と警告しているみたいに。
だけど寒くなれば、誰だって熱が欲しくなる。芯まで燃やすような、決して凍えることのない熱を求める。
だから私は踏み出していくのだろう。
遠く窺える、雪の帽子を被ったあの人のもとへ。トレンチコートの間から覗く、よれたスーツのあの人のもとへ。
それが正しくないことだとは解っている。
私のずっと後ろのほうでは、きっとまだ葛城が歩いているはずだった。まさか見られることはないだろうと思うけれど、振り返って走り出せば、私はまた葛城に会うことができる。そして、また二人の部屋に戻って、カーテンの隙間から舞い落ちる雪の軌跡を目で追うこともなく、互いに満たされないなにかを探すだろう。
葛城と付き合い始めた頃は、それが私の中のきつく結ばれた部分を解きほぐしてくれた。とても心地よかったのを憶えている。うだるような暑さの中、自動販売機から吐き出された缶ジュースを頬に当てるような、はっと思い出される幸福の感触があった。
けれど今は違う。
冷たい缶ジュースは、冷えた頬に痛いのだ。
あの人に、そんな冷たさはどこにもない。
ふと、唇に触れるその間際、交わり合った視線の中で、暗澹としたものが過ぎることは決してない。あるのは、ただひたすらに深く、私という存在を呑み込んでしまうような優しさだけ。
荒く絹をこすったような、雪を踏む音がする。
互いに踏みこむ一歩がじれったかった。早くあの人の胸に飛びこんで「会いたかった」と囁きたかった。
でも、できない。
余裕のない女だと思われたくない。隙だらけの女だと思われたくない。
掴めそうでつかめない、眼前に立ち昇る濃い蒸気のような、そんな女でなければ、あの人が離れていってしまうような気がするから。
「久しぶり」
「うん、久しぶり」
ようやく声が届いて、私は灼けるような熱に炙られた。
冷えて感覚のなくなった指先は、もはや注意されることもなくなって、ないのと変わりがないように思えた。
もしかしたら、本当に、そんなものなくてもいいのかもしれなかった。
私と彼は一言だけでここにあったから。手や指がなかったとしても、私たちはここに存在することを許され、繋がり合うことを許されていたから。
そしてただ「私を許せない私」さえ残っていれば、きっと他にはなにもいらなかったのだ。
「会いたかったよ」
彼がそう言って腕を拡げた。
私が好きな「おいで」の合図だった。
だけど彼は、私がそれを好んでいることなんて知らないだろう。私は一度だって、それに応えたことなんてないのだから。
そう思う一方で。
今日、彼はそれを知るだろうかと思う。
私はそっとその胸の中に身を滑らせた。視界を横切る雪の欠片を避けるようにしながら。
彼の胸が僅かに上下するのが分かった。
驚いたのか、嬉しかったのか。
その答えを、私は聞きたかったのだろうか。
気付けば悪戯っぽく笑みを浮かべて、彼を見上げていた。
「どんな気持ち?」
困ったように見下ろす彼が可愛かった。私より十も年上なのに、まるで歩くことも知らない子どものように、愛おしかった。
だから私は彼を愛したのだろうか。
愛してしまったのだろうか。
徐々にいきおいを増す雪片の帳の中、私は葛城を忘れたいと思っていた。葛城がいなければ、出逢わなかったなら、私は彼をもっと純に愛し、求めることができたのだから。
だけど、求めたのはいつだって私だった。
たとえ葛城が私に「付き合おう」と言ったのだとしても、そんな葛城を求めたのは私だった。彼と一緒になる未来を望み、その暗く不安定な光の中に、溺れようとしたのは、私以外にあるはずがなかったのだ。
その上で私は、罪を負うことも選び、愛しい人を純に愛せない道を踏み出すと決めた。運命を呪う権利なんてどこにもなかった。呪われるべきは私自身であるはずだった。
「こんな気持ち」
それでも、と思ってしまう私は、いっそ地獄へ落ちるべきだろうか。
いや、間違いなく地獄へ落ちるだろう。
私は爪先へと、ゆっくりと体重を移してゆく。
そして吹き荒び始めた雪に願っていた。
今、唇を重ねる私たちをどうか、その濃く厚い帳で隠してください、と。
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