第3話

「お待たせしました」

「遅かったわね」

「ちょっと、寄るところがあったので」

「何を持って来たの?」

「はい、まず、これ」

「花?」

「ぼくは暴言を吐きまくっているらしいので、ボーゲンビリアにしました」

「…ブーゲンビリアね」

「お金ないので一輪です」

「…そっか」

「一輪だけの暖かさです」

「活け方によっては下手に数輪あるよりいいわね」

「そうでしょう?」

「でも、花瓶なんてないわよ」

「千利休は道すがら竹を切って花を活けたそうです」

「千利休は華道の人じゃないじゃない」

「でも、利休庵には花が飾ってありましたよ」

「見たの?」

「いえ。文献によると」

「出典を明記して」

「ええと。歴史小説の…なんだったかな」

「小説は出典として認められないわ」

「事実かどうかが重要ですか?」

「ん?」

「事実であるかどうかが重視されるべきエピソードですか?」

「…それもそうね。でも、竹?」

「というわけで、竹です」

「おいおい」

「ふふ」

「これ、竹輪だよね?」

「はい」

「竹輪は竹じゃない」

「でも竹輪は竹っぽいでしょ」

「水が溜まらない」

「あ!」

「水がないと枯れちゃう」

「ええと、枯れた味を出したくて」

「枯れても見栄えのする花とそうじゃない花がある。ブーゲンビリアはどっち?」

「枯らし方によりますよ。きっと」

「竹輪に入れたブーゲンビリアは見栄えがするかな?」

「…しないですね、たぶん」

「でしょ?」

「しかし試しもせずに断言できません」

「いや。試さなくてもわかる」

「かぴかぴになった竹輪と萎れたブーゲンビリアは、意外と相性がいいかもしれません」

「ぜったいに、そんなことはないと思う」

「…ですよね」

「わかってるなら初めから言わないこと」

「というわけで、ほんものの花瓶を」

「あるの?」

「探しましょう!」

「さがす?!」

「この部屋ならどこかにありますよ」

「見たことないわよ」

「それは、先輩が花瓶を探そうとはしていないから、です」

「花瓶なんか探す機会がなかったもん」

「チャンスじゃないですか」

「チャンス?」

「花瓶を探すチャンスですよ」

「そんなチャンスがあってもね」

「これで首尾よく見つかったりすると」

「あまり役に立たないわよ」

「もはやこの部屋に見つからないものはないという」

「生涯で花瓶を探すことはもう二度とないわ」

「ひとつの仮説ができあがるのです」

「花瓶の代わりといえば…あの古びたコップ」

「コップですか?」

「曇って汚そうなのでもう使っていないコップがある」

「もうちょっといいのないですか」

「これだけど」

「うわ。汚い」

「たぶん、のみものではないものをいれたあと、洗ってない」

「飲み物ではないものとは?」

「わたしの微かな記憶によると、それはちょっと言えないもののようだ」

「言えないものとはなんです」

「言えないものは言えないよ」

「どういう理由で言えないんですか」

「…忘れたから」

「忘れた?」

「このコップ使って何かしたことがあるのは覚えているんだけど」

「何をしたんですか」

「それが…忘れようとしても思い出せない」

「それはバカボンパパのネタです」

「きみは…忘れようとしても思い出せない顔」

「再現しなくていいですから」

「忘れてもいいことは覚えているのにね」

「そういうものですよ」

「きみとのこのくっだらない会話も」

「え?」

「いつか急にふとした時に忠実にフラッシュバックするんだわ、きっと」

「ええと…。もしぼくが忘れていたら、思い出させてください」

「いやよ」

「えっ」

「犠牲者は一人でじゅうぶん」

「犠牲…ですか」

「犠牲というか、惰性というか」

「打算はないのです」

「打算はなくても兌換はある」

「…ところで、コップを使ったのはいつのことです?」

「少なくとも、三日は前」

「三日前のはずがないでしょう。三日前ならぼくが覚えてますよ」

「うん。少なくとも、だから」

「意味のある数字を言ってください」

「じゃあ、三週間前」

「三週間前のことは覚えていましょうよ」

「きみ、三週間前のお昼ごはんに何を食べたのか言えるの?」

「言えますよ!」

「言えるんだ。じゃあ言ってみて」

「ちょっと待っててくださいね」

「何をしているの」

「日記アプリを…」

「こら。カンニング禁止」

「記録を参照してはいけないとは、言われませんでした」

「記憶の話をしてるんでしょ」

「外部記憶ですよ。なにか問題が?」

「だって卑怯じゃない」

「どうしてそう思うのですか」

「記憶力の話をしているのに」

「だからぼくの記憶の一部は外部記憶にあるんですよ」

「そんなの」

「つまり先輩も、覚えてないなら外部記憶に頼ってみては」

「あんまり、そういうメモ取らないのよね」

「なんでもいいですよ。日記でも日誌でも実験ノートでも付箋のメモでも」

「だからそういうの取らないのよ」

「メモを取らないのは記憶力がずば抜けて良い人の特権です」

「記憶力はいいほうだよ」

「三週間前の記憶がないのに?」

「…そうね」

「だからそれは」

「でも、もしわたしが…わたしにメモを取る習慣があったとしても」

「はい」

「食事の内容はメモしないわ。必要ないから」

「そうですか」

「同じように、コップの使い道もメモしないわ」

「そうですか…」

「だったら、何をメモればいいの?」

「覚えておくべきことを」

「覚えておくべきことは覚えているわよ」

「覚えておくべきなのに思い出せないものを」

「コップの使い道は覚えておくべきことかしら」

「この局面に至っては、覚えておくべきことですね」

「それはコップを使ったときにわかるものかしら」

「そのときにわかるものかどうかはわかりませんね」

「メモるべき内容が不定ならばメモる必要がないわよ」

「そりゃ、外部記憶ですから。その名もノートパッド・メモリー」

「?」

「ノートル・ダム」

「??」

「ドレッドノート」

「???」

「…引っ込みつかなくなりました」

「そうじゃなくて、外部記憶とメモるべき内容がどう関連するの?」

「なんでもメモっていいんですよ」

「…わかった」

「って何を書いているんです」

「ビリアルの定理」

「ビリアルの定理?」

「そう」

「なんだってその定理をわざわざメモるんです。参考資料にいくらでも載ってるのに」

「…るさにかけるから」

「?何ですか?」

「リアルさに欠けるから」

「…先輩」

「…なに?」

「そういう皮肉は、伝わりませんよ」

「いいのよ。どちらかというと伝わらないほうがいい」

「伝えたくはないんですか」

「伝わると気を悪くするかもでしょ」

「…ええ。まあそうですが」

「アイロニーは灰色に」

「…」

「数分前からこれを人生の標語にしてる」

「数分前…っていま思いついただけじゃないですか」

「そうだけど、わからないよ?数十年後も同じ標語で生きてるかもしれない」

「でも発端は思いついただけじゃないですか」

「なにか悪いかしら」

「え?」

「全て発想は思いつき」

「…それもそうですね」

「発想はね、何もないところから産まれないものよ」

「…」

「思いつきであってもその思いつきを育てれば、立派な思想に変化する」

「……」

「アイロニーは藍色に、のほうがいいわね」

「………」

「これを三十年後まで育てるには、なんかいわくあるエピソードが必要」

「…………」

「というわけで、きみは藍色のエピソード作りに邁進しなさい」

「藍色のエピソードですか」

「藍色のエピソードよ」

「藍色のエピソードって…」

「藍色でさえあればいいわ。きみが行動すれば何かしらアイロニーが産まれるし」

「ひどいこといいますね」

「ひどいかしら。最大の包容のつもりだけど」

「…愛は青より出でて青より愛し」

「青は藍より出でて藍より青し、でしょ」

「そうですね。いつも言い間違えるんですが」

「いつもなの」

「藍より愛のほうがいいように思えて」

「あいよりあい?」

「青藍の藍より愛染の愛」

「わかんないわよ。セーランの乱って?」

「わかんないならいいですけど、とにかくぼくにとって、青が藍より青いてのはよくわからないんです。青いから青なんじゃないんですか?」

「そりゃそうだけど」

「青は寛容であり、青は情け深い。嫉妬せず、高慢にならず、誇らない」

「なにを言っているの?」

「青は耐えることがない」

「ええとそれは。たぶん聖書ね?」

「はい。コリント人への第一の手紙です」

「でも、本当に?」

「もちろん、青じゃなくて愛ですけど」

「まさかと思うけど…」

「…」

「愛と藍だけで引っ張るつもりなの」

「…そうかもしれません」

「そいつはちょっと」

「こいつはブルーなんてもんじゃなくて、インディゴな気分だ、と言いたいわけで」

「?」

「エリントンのエピソードなんですが」

「エリントン…」

「デューク・エリントンが作曲した曲にムード・インディゴというのがありまして」

「聞いたことある」

「聴いたことありますか。いい曲でしょ」

「曲は聴いたことないけど、デュークエリントンって名前は聞いたことある」

「名前だけですか。まあいいや、ムード・インディゴのエピソードです。ブルーを超えたインディゴだぜ、ていうね」

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