バレンタインデーを破壊せよ

逃ゲ水

バレンタインデーを破壊せよ

 キュッキュッと靴底を鳴らしながら、廊下の向こうから足音が近づいてくる。

 足音と話し声からして、人数は三人。

 私は脇に抱えた紙袋からこげ茶色の直方体を三つ取り出し、手のひらに転がす。

 これこそは私が徹夜で作り上げた最終兵器、直怨霊屠ちょこれいとだ。

 これが私がわざわざいつもよりも一時間半も早く登校してこんな人気のない廊下の隅に潜んでいる理由だった。


 やがて足音は大きくなり、話している内容までも聞き取れるようになる。

「にしてもカズマはいいよなー、今日だって絶対チョコ貰えるんだろー?」

「いやいや、分かんないからね?本当に貰えるまではチョコゼロだから。シュレーディンガーのチョコだから。っていうかそれを言うなら、彼女持ちのシンジだろ。お前絶対貰えないわけないだろ」

「ん? ああ、今年もチョコっていうか、なんかケーキ?みたいなのくれるって言ってた」

「お前それ絶対いい奴じゃーん! 貰えて市販の義理チョコな俺の身にもなってくれよー」

 話し声とその内容からして、彼らは同じクラスの佐藤・藤田・池上トリオだということは分かった。

 同じクラスのめちゃめちゃキラキラしてて同じ空間にいることすらいたたまれる系の、それでいてこんな私にも気さくに話しかけてくれる神のような男子たちだ。心が痛まないと言えば嘘になる。

 だが、これも必要な犠牲だ。

 私は感情を殺して仮装用のホッケーマスクを被り、物陰から飛び出した。

「うわっ、何だおまえ――」

「今日は二月十四日だぞ? ハロウィンでも節分でもない――」

「え、なにこれ――」

 彼らの前に身を躍らせるや否や、私は一瞬のためらいもなくこげ茶色の直方体を鋭く投擲する。

 こげ茶色の物体は三個すべてが寸分違わず三人の口に飛翔し、顔を逸らす暇すら与えずに口内へと吸い込まれていく。

「うご、もぐ……何これ、あま……!」

「これは、チョコ……!?」

「なに……これ……!」

 ドサリ、と三人は膝から崩れ落ちていく。これこそが直怨霊屠の威力だ。

「……投げ込み御免」

 そう呟いて私は既に五つ目となる「現場」を去ろうとした。

 だが、そんな私の視野の隅に丸っこいシルエットが映った。

「何奴!」

 慌てて紙袋に手を差し込みながら、私は激しく誰何する。

 確かに話し声も足音も一つだったはず……。

「いやはや、怖い怖い。私は貴女の敵ではありませんよぉ」

 そこにいたのはまたしてもクラスメイトの男子、吉田だった。


「いやぁ、彼らの後をつけていれば義理チョコのおこぼれくらい貰えるんじゃないかなぁと思って、ずっと尾行してたんですよぉ」

 吉田は頬の肉を震わせながらそんなことを言う。まさかそのために足音まで消していたというのか。

 そんな私の驚愕など気付かないらしく、吉田は体形に似合ったふてぶてしさで話し続ける。

「いやぁ、しかしこんなことなら足音立てておけば良かったですねぇ。倒れるほど甘いチョコレート、私も一つ味わってみたいのですがねぇ……?」

 視線がねっとりと絡みつくように私の肢体を眺めまわす。

 顔はホッケーマスクで隠しているとはいえ、体は普段の制服姿。思わず腕に鳥肌が立っていた。

「そんなに欲しいなら……くれてやるっ!」

 半ば本能的に、私は直怨霊屠を投擲する。しかもその数は二個。一個で成人男性一人が失神するほどの甘さに調整したものを、わざと二個投げたのだ。

「おほっ……もぐもご……」

 歓喜の声を漏らして、吉田は口でこげ茶の物体を受け止めた。目の前で他人が倒れたのを見てなお逃げなかった度胸には感服するが、正直なところ「さっさとくたばれ」以外の感情がない。

 だが、吉田は倒れなかった。

「おほおおおおおお!! 何たる甘み! 甘すぎて意識が飛びそうですねぇ!!」

「なにっ!?」

 意識が飛びそう、じゃなくて確実に意識が飛ぶように設計したはずなのに、吉田のそのまるっこい体躯は喜びに打ち震えながら小躍りしていた。

「ならばもう一つ、くれてやる!」

「おほほ、やったぁ! もごっ……!」

 またしても吉田は直怨霊屠を口で迎える。

 これで効かないのであれば、もう逃げるしかない。そう覚悟した私の目の前で、またしても吉田は歓喜の声を上げた。

「おほっおほほぉ! 最高です、よぉ……」

 私は背を向けて走り出そうとし、しかしそこで足を止めた。

 どうやらその声が断末魔だったらしく、吉田は丸っこい体で盛大に倒れ込んでいた。

 その顔は、見るからに幸せそうだった。

「……まさか三個も必要になるとは。甘さへの耐性が高い、ということか?」

「うふふ、どうかしらね。その男、私が去年あげたカカオ100%のチョコレートもおいしそうに食べてたし、女の子からもらえるお菓子ならなんでもいいんじゃないかしら」

「今度は誰だ!」

 またしても誰何しながら、私は振り返る。

 そこにいたのは蝶型マスクを被ったナイスバディの女子生徒だった。


「私の名前は、わざわざ告げるまでもないでしょう。バレンタインデーの化身で結構よ」

 そう言うと、バレンタインデーの化身を名乗る女は、背中側で手を組んで優美に微笑んだ。

 だが、私には分かる。あれは甘美な笑みなどではない。邪魔者を排除する、害意100%の笑みだ。

 とはいえ、私だってその覚悟はしてきた。

「私は、バレンタインデーの破壊者。何を言われようと、このを止める気はない」

 そう、この日のために直怨霊屠を作り上げ、わざわざこんな辻斬りじみたことをしている理由は、バレンタインデーという習慣を破壊するため。

 恋愛になど縁のない私にとって、好きな人にチョコレートを贈る習慣など、目障りでしかなかったのだ。

 ならば壊す。

 しかも単純な武力などではなく、チョコレートを渡される側の男が数日はチョコレートを食べる気が起きなくなるような最凶のチョコレートを食べさせ、男の側からチョコレートを拒否させることによってバレンタインデーという文化を根底から破壊する。

 それこそが私のバレンタインデー破壊計画だ。

 私のそんな意志を感じ取ったのか、バレンタインデーの化身は優美な笑みはそのままに、後ろ手に隠していた武器を取り出した。

「残念ね。私もこれは使いたくなかったのだけれど、仕方ないわ。貴女には地獄を見てもらうことになるわね」

 女が取り出したのは全長一メートル強のこげ茶色の物体――チョコレート製の刀だった。

「ダークチョコレートよりもさらに苦い、究極の苦味。ひと舐めで三分は苦悶が続くから覚悟しなさいなっ」

 そう言うなり、蝶型マスクの女はチョコレートの切っ先を何のためらいもなく突き込んできた。

「くっ!」

 迫り来るこげ茶の尖端を直方体の直怨霊屠で受けながら、突きの軌道を逸らしつつ首を振って苦味から身を躱す。

 それでも完全には避けきれなかったこげ茶の刃がホッケーマスクの表面を擦り、欠けた粒子がほんのわずかに舞い散った。

 瞬間、とんでもない刺激が私の鼻と口を襲った。

「おええ! げほっがはっ!」

「あらぁ、避けられるとは思わなかったわ。でも次は――っ!」

 女はそこで言葉を切るや、チョコの刃で器用に立方体チョコを弾いた。咳き込みながらカウンターを狙った一投だったが、さすがにそれほど甘くはない。

「……人の話を遮るなんて、作法の心得もないのね。軽いおしおきで済ませるつもりだったけど、これは調教の必要ありかしら」

 女の体から、ついに殺気が迸る。だが、それはこちらとて同じこと。

「フン、やれるものなら」

 両手に計八個の直方体を構え、腰を落とす。

 そして数秒の間の後に、激戦が幕を開けた。


 鋭い踏み込みと共にこげ茶の刃が水平に振るわれる。

 それを合わせるように飛び退りながら回避し、刀を振り抜いたタイミングで両手から直方体を投擲。

 しかし、流石の動きで手元に引き戻された刀で二つの直方体は受け止められ、流れるような動きでカウンターの突きが飛び出してくる。ただでさえリーチのある刀は、長い手足によってさらに伸び、ホッケーマスクのど真ん中を打ち抜こうとしてくる。

 だが、私とて二度も同じ技を食らうほど間抜けではない。

 突きが命中する寸前に体を逸らせ必殺の刃を回避、追撃を封じる意味合いも込めてカウンターの投擲を蝶型マスクの下へと飛ばす。

 流石にこれは捌ききれないと判断したか、女は半身になって直方体を躱し、その隙に私も距離を取った。

「やるわね。こんな出会いでさえなければ、いい稽古の相手だったのに。でも、バレンタインデーを壊されるわけにはいかないもの、仕方がないわ。だって、私が女子ヒエラルキーの頂点に立っていることを知らしめる機会が一つ減ってしまうんだもの」

「反吐が出る。平穏無事に生きていたいだけの人間をそうまでして踏みにじりたいか。ならばやはり、バレンタインデーはその化身とやらと一緒に消えてもらわねば」

 言って、三個の直方体チョコをまとめて投げ付ける。だが、またしても刀が三個のチョコ全てを弾き飛ばす。

 そして、あろうことか投げ放った直方体チョコの一つが打ち返されてこちらの顔面目掛けて飛んできた。

 偶然などではない。それほどの技量の持ち主なのだ。

 私は舌打ちをしつつ、自分が投げたチョコを手で掴んだ。だが、その一瞬だけで相手には十分だった。

 これまでよりも格段に速い神速の突きが、私の顔面に迫り来る。もはや逸らすことも躱すことも叶わない。

 私にできたのは手のひらにあった直方体チョコ、直怨霊屠で突きを受けることだけだった。

 直後、強烈な衝撃と共に私は吹き飛ばされ、廊下に大の字に倒れ込んだ。


「さて、久しぶりに手こずったけど私の勝ちみたいね。じゃあ観念してこの刀、舐めてもらおうかしら」

 そう言って、私の目の前にこげ茶の刃がずいっと差し出された。完全に私の負けだったし、ここから足掻いても勝ち目はない。

 私は諦めてホッケーマスクを半分外し、口を開いた。そして、ぺろっと刀の切っ先、究極の苦味とやらを舐めた。

「……」

「あらぁ、効かないのかしら? そんなはずないわよね、さっき咳き込んでたし。一体……?」

 私はにやりと不敵に笑って、女に言い返してやった。

「舐めてみればいいだろ。私の舐めたところとかどうだ?」

「誰が貴女と間接キスなんかしたがるのよ。まあいいわ、舐めてあげる」

 そう言って、女はあろうことか刀の付け根の峰側を舐めた。

「おげええええええ! あん、だまっ、おげぇえええええええ!!」

 苦しみ悶える女の姿を笑いながら眺めつつ、私は意識が遠のき始めた感覚を味わっていた。

 トリックは実に簡単。私の超絶激甘チョコレート――直怨霊屠ちょこれいととの度重なる接触で刀の先端部は本来の超絶激苦チョコレートがコーティングされていたのだ。


 ああ、しかしまあ、今はそんなことはどうでもいい。嫌いな奴の苦しむ姿と最凶に甘いチョコレートは、私にとってなかなかいいバレンタインデーの贈り物だった。

 バレンタインデーというのも存外悪くない。そう思いかけて、しかし私は遠のく意識の中でかぶりを振る。


 いや、これ自分で自分のチョコ食べただけじゃん……。やっぱり何もいいことないし、バレンタインデーは、破壊、しな、きゃ……

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バレンタインデーを破壊せよ 逃ゲ水 @nige-mizu

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