将棋会館の泥団子
千駄ヶ谷の駅内は目まぐるしく変化する。建設工事だろうか。必要以上にけたたましい音が、真っ白な壁の内側から聞こえてくる。
ここは将棋の町と言っても過言ではない。ところどころに将棋に関する広告が目に入る。僕自身、今日は昇級してやろうと試みて将棋会館を訪れているわけだが、どうも今日は視界がもやっとしてすっきりしない。暑苦しく、少々の雨が降り止まぬこの天気で、手ぶらで帰るわけにはいかない、と気を引き締めて足を進めた。
この雨の中で傘をさすか否かは悩ましいが、今日は人と目が合うことが少ない気がして、非常に居心地が良かった。今ならナイフを持って暴れまわったくらいじゃ捕まらないかもしれないと思ったが、「ナイフ」という響きに怯えて考えるのを止めた。
「お願いします。」
パチッ
この子は優しい子だ、と思った。単純に表情とか手つきとか、「お願いします」の声とか、どれも理想的な小学生だ。僕はどうだろう。理想的な中学生だと思われているだろうか。
たいてい人の性格は顔立ちや口調とか、将棋で言えば駒の打ち方で分かってしまう。僕が嫌いなタイプは、手つきがものすごく騒がしくて、相手が指した瞬間に駒を動かしたり、不用意に相手を睨めつけたりする人だ。これらの仕草を無意識にしている人もいるけど、個人的には「わざと」相手をイライラさせるために態度を悪くしている人の方が多いように思う。人はイライラすると冷静さを欠く。すると盤面を広く見れなくなって、結果的に大きなミスを犯す。これでもかというほど経験したことがあるからこそ、無意識な行動だとは割り切れないのだ。
バチッ
「負けました。」
「ありがとうございました。」
勝ってしまった。最悪な勝ち方をした。自分にとっての悪い人物像を思い描いている間に思いついてしまった。どうしても勝ちたい対局だったのだ。わざと相手を睨みつけて、駒音を大きくたてて、出来るだけ素早く、感じ悪く差し続ければ、こんな優しそうで素直な子ならすぐに焦ってくれるだろう。そうしてしまえば、僕は…
そう思った時にはすでに僕は相手の子を睨みつけて、早く、もっと早くと自分を急かしていた。情けない。うしろめたいし疾しい。こうやって人は汚れていく。そして今、僕はこの子の心に泥団子を投げつけた。今度はこの子が対戦相手に泥団子を投げつける。僕は悪の循環に逆らえなかった。
僕はこの日、昇級がかかった対局で負けた。どこかで「勝ちたくない」という思いが芽生えていた。「負けました」と言って、ひと安心してから将棋会館を後にした。いつか悪の循環が回ってきたら、その時は僕がその人の泥団子を取り上げて、今度こそ「負け」という砂場に投げ入れてやろう。一度踏み入れた場所なら、もう一度たどり着けるはずだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます