ビーフなカレ

花 千世子

ビーフなカレ

 別れ話は、突然やってきた。


 しかも電話口でたった一言。


『別れよう』


 私はしばらく黙りこんでから、長く細いため息をついて頷いた。


「なんで」


 そう言ったところで「じゃあ、さよなら」と電話は一方的に切れた。


「人の話を聞けよ!」


 私はスマホの画面に向かって叫んだ。 

 


 駅からのアパートへの帰り道、私は何度目か分からないため息をつきながら歩く。


 ミスを連発して上司に口ばしでつつかれそうなほど怒られたって、もう愚痴を言える彼氏は昨夜、元彼になってしまった。


「本当に、別れたんだよね……」


 私はそう呟くと、歩道の隅に立ち止まってスマホを取り出し、操作する。


 やっぱり、元彼からの連絡は来ていない。


 しばらく画面をじっと見つめていたけれど、秋の風の肌寒さに身震いをした。


 スマホをカバンにしまったところで、すぐそばから明るい声が聞こえてくる。


「ありがとうございましたー!」


 顔を上げてみれば、すぐ脇の建物は牛丼屋だった。


 チェーン店の、どこにである見慣れた看板を私は思いきり睨みつける。


「あんたのせいだからね!」


 煌々と夜の町を照らすビタミンカラーの看板が、ぼやけて見えた。



「え?! 別れたの?!」


 次の日の土曜日。


 大きな声でそう言って、私を驚いたような表情で見たのは高校時代からの友人の美晴(みはる)だ。


 落ち着いたオシャレなカフェで、美晴の声はやけに響いてしまい、彼女は慌てて自分の口を手でふさぐ。


「え? なんで?」


 声を半トーンを落として聞いてくる美晴に、私はストローでぐるぐるとカフェラテをかき混ぜなら答える。


「それは……」


「あんなに仲良かったのに。ってゆーか、智冬(ちふゆ)がフッたの?」


 私は首を大きく横に振ってから、小さくため息をついて、それから答える。


「昨夜、和牛(わぎゅう)君に電話で『別れよう』って言われたの」


「高校時代の付き合いからなのに、随分とあっさりしてるなあ……」


「美晴だって、三元(さんげん)君といつも一緒だったのに、半年前にあっさり別れたじゃないの」


「あいつは、色々と厄介だったのよ」


 それだけ言って、美晴はコーヒーカップに口をつける。


 私もホットにすれば良かったな。


 そんなことを考えながら、ストローでカフェラテを一口飲んでから、口を開く。


「駅の近くの牛丼屋さ、『しらす丼』も始めたじゃない?」


「え? ああ、そうだっけ?」


「そうなの。私、しらす好きだからCMで見た時に食べたいなって思ったの。ちょうど帰り道だし、寄ってみようかなって」


 私はそこまで一気に吐き出すと、もう一口、カフェラテを飲む。


 何かを察したように、私の次の言葉を黙って待つ美晴。


 彼女の顔を見て続きを話そうとした時。


 美晴の少し後ろに、男性が一人、立っているのが見えた。 


 スーツを着た男性なのだが、普通の人間とは違うのは、頭が牛だということ。


 途端に私の心臓が跳ねあがり、その顔をじっと見てみたけれど、元彼ではなかった。


 安心したような、寂しいような、悲しいような気持ちのまま、私は続ける。


「一週間前だったかな、私、夜一人で牛丼屋に入ってみたの。あ、もちろんしらす丼目当てでね」


 私は、ぽつりぽつりと話し始める。



 一週間前。


 しらす丼が食べたくて、近所の牛丼屋に行くことにした。


 その日は彼と会う予定ではなかったし、しらす丼を食べに行くのだから、何も悪いことはしていない。


 そんなことを考えて、私は生まれて初めてめて入った牛丼屋で、しらす丼を食べて、店を出たところで、通りかかった人物が足を止めて私を見た。


 服の上からでもわかる筋肉質な体に、頭は牛のよう、ではなくて本当に牛。


 二足歩行の牛はたまに見かけるけれど、ここまでイケメンなのは私の彼氏だけだと思える。


 でも、見とれている場合ではなかった。


『智冬、まさか、お前……』


 震えた声で和牛君が言う。


 私は一瞬、何のことかわからなかったけれど、彼の体があまりにも震えていたのでハッとして振り返った。


 ようやく自分が牛丼屋から出てきたことを思い出す。


 そして、慌ててこう言う。


『ち、違うの!』


『ここから出てきて、何が違うんだよ!』


『ちがう! 私は牛丼を食べたんじゃないの!』


 そう叫ぶと、和牛君の目に怯えたような色が浮かぶ。


 三年間付き合っていて、初めて見る顔だった。


 彼の体はカタカタと震え出し、右手にぶら下げていたコンビニの袋もガサガサとかすかに音を立てる。


『智冬は、食べない人だって、思ってたのに……』


 和牛君は絞り出すような声で言うと、走り去った。


 彼を追いかけたけれど、人ゴミと夜の闇に紛れて見失ってしまった。

 


 そこまで話し終えると、黙って聞いていた美晴が口を開く。


「え、それって一週間前だよね? 『しらす丼を食べただけ』って誤解を解かなかったの?」


「解こうとしたし、ちゃんと言ったよ。でも、和牛君は『牛丼屋に入ること自体が許せない』って……」


「なにそれー。面倒。うちと似たような理由だから同情するよ」


「え? 美晴も似たような理由で三元君と別れたの?」


 美晴は遠くを見るように視線を向け、それから答える。


「そう。ほら、三元の場合、豚だから。豚肉全般を食べてほしくないって、うるさく言うようになってさ」


「あー。そっかあ。牛肉よりも豚肉のほうが避けるの大変じゃない? 外食とかだと特に」


「そうなのよー! だから、いっつもケンカが『あのカレーには豚肉が入っていたような気がする』とか『ラーメン屋は俺の敵』とかもーうるさいのなんのって」


 美晴は拳をぐっと握って、どこか遠くを睨みつける。


「それは大変だったね」


「本当に大変だった。だから、別れた途端に豚肉解禁したらこれがもーおいしくておいしくてさ」


 美晴は幸せそうな笑みを浮かべた。


 そしてカップに口をつけ、それから私を見て一言。


「そうだ! 智冬も牛肉、食べてみたら?」


  

 私は幼い頃から、牛肉自体があまり好きではなかった。


 ……というよりは、肉全般的にそれほど美味しいものだと思えず、好んで肉を食べることが少なかったというのが正しい。


 だから、鶏肉も豚肉も牛肉も変わらないとさえ思っていた。


 和牛君とか美晴の元彼の三元君みたいな種族というのは、たとえ自分が食べられる側ではないとは言っても、同種族の肉を口にしない。


『智冬だって、人間の肉があっても食べたくないだろ? それと同じ理屈だよ』


 いつだったか、和牛君がそんなことを言っていた。


 私はそれに納得したから、牛肉は絶対に食べなかった。


 まあ、もともと興味がなかったというのも理由だけど。


 だけど、もう別れたんだ。


 私はそこまで考えて、目の前で焼けていく肉をじっと見つめる。


「ほら、これ焼けたよ」


 向かいに座っている美晴が、網の上の肉を菜箸で指す。


 美晴が『美味しい焼肉屋みつけたの! 行こうよ! 私、奢るから』と連れて来てくれたのだ。


 人生で片手で数えるほどしか焼肉屋には来たことがなかったけど、それほど美味しいものじゃないと幼い記憶には刻まれている。


「ほい、カルビ」


 美晴が私のお皿にカルビを入れてくれる。


 私はカルビを箸で掴んで、動きをぴたりと止めた。


 脳内で、和牛君との思い出がまるで走馬灯のように流れてくる。


 初めてのデートは遊園地だったな、初めてうちのアパートに来た時は手料理をふるまってくれたな。


 どこへ行っても、『やだ、あの牛、カッコ良くない?』って言われたし、デートで動物園に行った時は色々な動物のメスが和牛君に発情して、早々に帰ったこともあった。


 全部、全部、宝物みたいにキラキラと輝いている。

 

 この肉を食べたら、私は彼との別れを受け入れたことになるのかな。


 そう思った瞬間。


『別れよう』


 昨夜の和牛君の声が、耳の奥で再生される。


 別れを受け入れるも何も、一方的に別れを突きつけられたんだ。


「ちゃんとした理由も、私の気持ちも、何も聞かずに!」


 私はそこまで言うと、半ばヤケになりながらカルビを口に入れる。


 一口噛んで、口の中に広がる濃厚な牛肉の味。


 確かめるようにカルビを噛んで、ごくんと飲み込む。


「おいしい……」


 私の口から、自然と言葉がこぼれる。


「でしょでしょー? ほい、今度はタンだよー。塩がおすすめ」


 美晴がお皿に入れてくれたタンを塩で食べてみた。


 途端に私の口の中で幸せな味が広がる。


「おいしい。タンもおいしい!」


「だよねー。ここの焼肉、本当、おいしいのよー」


 美晴がトングで肉を裏返しながら続ける。


「私、三元と別れた直後、ソーセージもベーコンもトンカツも食べたけど、ものすごく美味しかったなあ」


「そっか。これからもう牛肉を避けるために慎重にならなくていいんだ」


 私は言いながら、「そう思うと楽になったかも」と呟いた。


「そうよー。これから食べたいものなんでも食べなよ。私なんか豚肉好きになり過ぎて、元彼も食材にしか見えないもん」


「え? まさか……美晴、三元君のこと……」


「冗談よ。それぐらいの勢いで忘れろってことよ」


 美晴はそう言って明るく笑った。 



 焼肉屋へ行って以降、私は牛肉への考え方が変わった。


 今まで気にも留めなかったけれど、牛肉を使った料理は美味しいのではないのか。


 そう思うようになり、会社のお昼は、先輩からビーフシチューが美味しいと聞いた洋食屋へ。


 力を入れずにスプーンで切れてしまうほどの、やわらかい牛肉に野菜の溶け込んだコクの深いビーフシチューは、頬がとろけそうだった。


 実家にいた頃に、母がつくってくれたビーフシチューは『白いシチューじゃないほう』くらいの認識だったけれど。


 まさかこんなに美味しいものがあるとは思わなかった。


 だから、その日の帰りは牛丼屋へ寄ってみた。


 もちろん、食べるのは牛丼だ。


 食べ終えてから、私は納得した。


「牛丼屋があちこちにあるのは、この値段でボリュームがあってしかも美味しいからかあ」


 目の前の丼には、米粒一つ残っていない。


 店員の明るい声を背中に受け、店の外に出ると、十月の風は予想以上に冷たかった。


 それでもお腹が満たされているので、幸せな気持ちだ。


 アパートまでの道を歩きながら、和牛君とこの道歩いたなとか、あの公園のベンチで何時間も話しこんだな、とかそんな思い出ばかりが自然と浮かぶ。


 私は頭を大きく左右に振ると、拳をぐっと握る。


 もっともっと牛肉料理にハマってしまえば、彼のことを忘れられるのかな。


 美晴みたいに、和牛君のことを食材としてしか見なくなれるのかなあ。



 それから、週二くらいのペースで牛丼屋に通い、たまに洋食屋のビーフシチュー、別の店で美味しいビーフ―カレーにも出会ったのでそこにも時おり通っている。


 自分へのご褒美には、美晴が連れて行ってくれた焼肉屋へ。


 失恋の寂しさや悲しさを、食べることで忘れていた。


 和牛君への気持ちも、牛肉を食べてしまえば消えていく気がしていた。


 だけど、それでもまだ彼との思い出を、無意識のうちに思い出している自分がいる。


 いつまでもスマホの連絡先も写真も、プレゼントされた指輪もマフラーも捨てられない。


 もっと前を向きたい。


 無理にでもそう思っていないと立ち止まって、和牛君に連絡してしまうのは、目に見えているんだ。


「ダメダメ! もっと強い女になるんだから!」


 そう決意を固めて、駅からアパートの帰り道は牛丼屋に寄るのをやめた。


 少し遠回りをして向かったのは、スーパーだ。


 

 疲れた様子のスーツ姿の男性やラフな服装のカップルを尻目に、私はカゴに食材を入れていく。


 食べるだけではなく、料理をしてみようと決意したのだ。


 受け身ではなく、自分が作り手になった時に、何かが変わるかもしれない。


 料理はそこまで得意ではないけど、普通に作れるレベルだと思う。多分。


 和牛君に振る舞うために、手料理のレベルは昔よりも上がったことは確かだろう。


 それなら、彼と付き合っていた時は絶対に作らなかった料理をつくってやろうじゃないの。


 しかも極めに極めて、ものすごく美味しいのをつくってやるんだから!


 これは、ただの料理じゃない。


 言うならば、和牛君への復讐だ。


 しかも今日は牛肉が百グラムで二百円と安くなっている。


「おあつらえ向きの夜ね」


 私はそう呟いて、牛肉のパックをカゴに入れた。



 ……和牛君への復讐だ、なんて意気込んでみたけれど。


 家に帰って、張り切って作ったカレーは、イマイチだった。


 そりゃあ洋食屋みたいなカレーを作れるはずがない。


 でも、もう少し美味しいものが出来上がると、思いこんでいたけれど。


「普通」


 それが自作のカレーへの最高の褒め言葉。


 これ以上は言い表せない。


 本当はルウを作るところから始めたほうがいいのかもしれない。


 でも、それって面倒だし。


 たとえ、凝ってビーフカレーを作って満足できたところで、料理の腕は上がっても虚しさは残りそうだ。


 それになにより、和牛君への復讐っていう理由で料理を極められるとも思えない。


「中途半端だなあ」


 私はそうぼやいて、その場に寝転ぶ。


 中途半端な味のビーフカレーは、中途半端な料理の腕と決意と復讐でできている。


 そんな中途半端ビーフカレーが鍋にまだたっぷり残っているけれど。


 それは考えないことにした。


 明日は土曜日だし、三食カレーでもいいか。


  

 次の日はずいぶんと寝坊した。


 テレビのバラエティ番組をぼんやりと眺める。


 あくびをしながら冷蔵庫から牛乳を取り出し、パックのまま飲み干す。


 口の端に垂れた牛乳を手の甲で拭いつつ、呟く。


「お昼、どうしよっかな」


 冷蔵庫の中を覗けば、玉ねぎ、にんじん、それから卵もある。


 最近、外食続きだったのにやけに材料があるな。


 そう思って私は昨夜のことを思い出す。


「カレー、あったんだ」


 ようやく覚醒してきた脳みそを回転させようとしたところで、聞き慣れた音楽が部屋中に鳴り響く。


「はいはい。いま出るよ」


 無意識のうちにそう言いながら、ベッドの脇に置きっぱなしだったスマホを掴む。


 画面を見て、私はフリーズ。   



   着信 黒毛和牛(くろげわぎゅう)


 

 夢の中にいるの?


 そう思った自分と、今さら何の用事があるの? という怒りと、それから別れて一ヶ月近く経つのに元彼の連絡先を削除できない自分も情けない。


 色々な感情がごちゃ混ぜになり、それでも、電話に出る。


 努めて冷静な声で、「もしもし。誰?」と。


『ああ、あの、和牛、だけど』

  

 懐かしい声が耳の奥に響き、涙が出そうになった。


 私は深呼吸をしてから、冷静な声で聞いてみる。


「なに?」


『いや、あの、元気?』


「元気だったよ」


『そうか。それで、その、新しい彼氏とか、できた?』


「できるわけないじゃん!」


 私は思わず叫んでいた。


 そんなにすぐに忘れることができたら、苦労なんかしない。


 その言葉を飲み込んで、そして言う。


「なに? なにも用がないなら切るよ」


『あ、ちょ、待って』


 和牛君は慌てたように言うと、電話越しに彼が大きく深呼吸をしたのが聞こえた。


 そして、彼はこう言葉を紡ぐ。


『やり直さないか、俺たち』


 その言葉の意味が、一瞬、理解できなかった。


 理解できた時に、即座にOKしそうになって慌てて考え直す。


 これで、またヨリを戻しても、牛肉のことでケンカをするかもしれない。


 おまけに私は牛肉の美味しさに目覚めてしまったのだ。


 別れの材料が増えただけじゃないか。


 また『別れよう』なんて言われるなんて、もうごめんだ。


 そこまで考えて、私は答える。


「ダメだよ、もう」


 私はそこまで言って電話を切り、その場にぺたんと座り込む。


 それと同時に、ぐーきゅるきゅるとお腹の音が鳴る。


 とりあえず、何か食べよう。


 ああ、そうだ、カレー、食べなきゃな。



 私はカレーを温めながら、ぼんやりと考える。


 和牛君のほうから別れを切り出しておいて、なんで今になって『やり直さないか』なんて聞くの。


 それなら、別れようなんて言わなきゃいいじゃないの。


 私がどれだけ傷ついたと思ってるの?


 どれだけ泣いたと思ってるの?


 吹っ切ろうとして、前を向こうと必死なところに水を差すような真似しないでよ!


 こっちは昨夜、ビーフカレーを作ったんだからね!


「それくらい言ってやれば良かったな」


 私は少しだけ笑って、カレーがぐつぐつと煮え立ったのを確認して火を止める。


 そして、炊飯器のフタを開けて思わず声が出た。


「あ」


 そういえば、ご飯、昨夜で食べきっちゃったんだ……。


 私はため息をつきながら、お米を研いでジャーにセット。


 あと、一時間は食べられないのか。


 そう思うと、急にそわそわしてきた。


 だって、とてつもなく手持ちぶさたなんだから。


 テレビもネットもスマホのゲームも、雑誌も、何も頭に入ってこない。


 今、私の頭にあるのは一つだけ。


 和牛君の笑顔だ。


 別れてからずっと浮かぶたびに無理やり、打ち消していた彼の笑顔。


 牛肉を食べても料理をしても、忘れることも飲み込むこともできなかった。


 だって、和牛君は食材なんかじゃない!


 私の好きな牛なんだもん。


 

 そう自覚した途端、心が軽くなる。


 ああ、無理やり自分の気持ちをねじ伏せようとしていたから、辛かったんだ。


 もう認めてしまおう。


 和牛君のことが好きだって。


 私だってやり直したいって。


「伝えなきゃ」


 そう呟き、スマホを掴んだところで、インターフォンが鳴る。


 私はぴたりと動きを止めて、玄関のドアを見た。


 ドアの向こうから声が聞こえてくる。


「智冬、いるか?」


 それは紛れもなく、和牛君の声だった。


 きっと『やり直したい』って直接、話し合おうとしに来てくれたんだ。


 そう思って、浮かれつつ急いで出ようとして私はハッとする。


 あのカレーを見られたら、やり直すことができなくなってしまう。


 もうやだ。和牛君のことを想って泣くのは。


 もう離れたくない。


 私はそう決意をして、鍋の中のカレーを直接ゴミ袋に捨て、口を閉じてお風呂場に隠した。



 玄関のドアを開けた途端、部屋着姿の和牛君が立っていた。


 急いで来てくれたんだ。


 そう思うと彼の胸に飛び込まずにはいられなかった。


「え? 智冬? なんで? ってゆーか、電話でやり直せないって言ってたよな?」


「もういい。そんなのいい! 私は和牛君が好き! 大好き!」


「俺も大好きだよ。別れてから、智冬のことが忘れられなくて何も手につかなかった」


 私が顔を上げると、和牛君は優しく微笑む。


 そして、彼は申し訳なさそうな表情に変わって言う。


「牛丼屋のことであんなに怒ってごめんな。反省してる。智冬が何を食べようが俺はかまわない」


「ううん。もういいの」


 私はそれだけ言うと、和牛君の大きな胸に顔をうずめる。


 

「美晴ちゃんと三元も別れたんだな」


 寝室兼居間へと和牛君を通すと、彼はインスタントのコーヒーを飲んでからそう言った。


 別れてから、美晴に愚痴をこぼしたこと(焼肉とか洋食屋とかの件は伏せて)を話したら、和牛君は驚いたような顔をしていた。


「そうなんだよ。美晴はなんだか吹っ切れてたけどね」


「そうか。女の子は切り替え早いからな」


 和牛君はそこまで言うと、コーヒーを一口飲んでから続ける。


「それで最近、三元から連絡がこないのか」


「へえ。会ってないの?」


「ああ、三ヶ月くらい音沙汰なしだな。ま、フラれて落ち込んでるだけだろうけど」


 ちょうどそこで、ご飯が炊けた音が鳴る。



「よし、俺が作るよ」


 和牛君は勢い良く立ち上がると冷蔵庫の中身を見てから、頷く。


「卵と玉ねぎと、にんじんもつかってチャーハンにするか」


 彼はそう言うと、腕まくりをして明るく笑った。


 張り切る和牛君の背中を眺めながら、私は幸せを噛みしめる。


 ああ、やり直すことができたんだ。


 恋人関係に戻れたんだなあ。


 そう思うと頬が自然に緩んでしまう。


 のんびりとした昼下がりに、彼氏が私の部屋でチャーハンをつくっている。


 なんて幸せな光景なんだろう。


 しみじみと幸福を噛みしめていたら、「あっつ!」という和牛君の声。


「大丈夫?!」


「ああ、フライパンに腕が当たっただけだから」


 和牛君の言葉と共に、辺りに食欲をくすぐる匂いが漂う。


 私はごくりと生唾を飲み込んでから思う。



 和牛君って、食べたら美味しいのかなあ。 

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ビーフなカレ 花 千世子 @hanachoco

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