創作について考える
笹野にゃん吉
表現は変化しつつある?
ふと古い小説を手に取ってみて、奇妙な違和感のようなものを覚えた。
私にはしばらくの間、それがどこからもたらされたものなのか解らなかった。随分と当惑し、途方に暮れた。だが、その正体がようやく解ってきたような気がするので、ちょっとこの場を借りて書いてみる。
違和感の正体はずばり「風景描写等における情報量の多寡」ではなかろうか。
古いものは情報力が多く、近年のものは少ない。そういう傾向があるように思う。
もちろん作風によっても情報量は変わってくるが、近代のものから情報量が削られているのには、時代的な背景があるのではないかと考える。
情報化社会の到来によって、我々は多くの情報を瞬時に取得できるようになった。
その影響で、一部の情報は多く拡散し、普遍的、あるいは常識的に浸潤し、話題にのぼることすらなくとも、なんとなく私たちの知識の中に刷り込まれているものだろう。
それが創作をする上で、これまで説明必須であった情報を、必ずしもそうとは限らないものへと変えた。
たとえば私にとって、いわゆる「異世界ファンタジー」のジャンルは、緻密に設計された世界観が魅力だった。怪物や妖精の容姿を逐一説明されて「こんな奴がいるのか。すげぇ世界だな……!」とワクワクしたものだ。
だが近年では、オリジナルの怪物はともかく「ゴブリン」と言えばゴブリンである。細かな描写がなくとも、我々はそれを小説やアニメ、あるいはゲーム等の情報の中から平均化し、イメージすることが容易となっている。
勘違いして欲しくないのは、私はべつに近代の創作物が「描写の怠慢」をしていると言いたいのではない。我々の感覚が変化してきたことで、小説の表現方法もまた変化するのは当然のことである。実際、ゴブリン的なものが、過去のものと比較して強烈なオリジナリティーをもたないのであれば、それを逐一説明されるのは、読者にとって退屈でしかない。
では、既存の情報はもはや現代において不要なのか?
その答えは否だと断言する。
もし、既存の情報が不要なのであれば、今、ライトノベルやネットノベル界隈で異世界ファンタジーは流行していないだろう。
そもそもファンタジーにおける世界観とは、読者を異世界に引きこむための説得材料であって、物語の本質ではない。世界があるだけでキャラクターが存在しないのでは、物語は動きようがない。
重要なのはストーリーであり、キャラクターだ。どちらが欠けてもいけない。
壮大な流れが存在しても、流れの中にどうしてそのキャラクターがいるのか解らなければ、それは事象の説明でしかない。
逆もまた然り。
キャラクターが色々と物事を考えていても、行動によって流れが生まれなければ、コーヒーを見下ろしながら哲学めいたことを考えているだけの私のような人間と変わりがない。
と、長々と述べてしまったが、私はここで読者の方々に謝らなければならない。
本当に申し訳ないと思っている。
私が本当に、創作者の方々へ伝えたいことは、これまで言ってきたこととなんら関連がないからである。
つまるところ、書きたいものを書いて欲しい。そう思うのだ。
畢竟、面白い物語を生み出すために大事なのは、作者が「書きたいものを書いて」いるかどうか、それに尽きると私は思っている。世間の評価や流行にばかり気を張っていると、臆病になるし、書き手自身楽しめなくなる。書き手の楽しめない物語は、読み手にも楽しむことはできない。
私の述べたことは、あくまでそういう傾向があり、余裕があればそれについて考えてみればいいかもね、くらいものであって、絶対的に信頼のおける情報でないことを留意していただきたい。
どうか創作を楽しんで。
それでも私の意見が誰かの参考になれば、跳びあがって血を吐くほど嬉しい。
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