わたしは一度こんな光景に出くわしたことがある。


 学校の休み時間、クラスの男子と女子が話をしている。


 彼らは週末から公開になる映画の話をしている。男子と女子のグループはそれぞれ、同じ映画の話をしていると思っているようだけど、傍から聞いているわたしにはそれがまったく別の映画の話だと分かった。


 会話は破綻なく終わり、その後、両者が映画の話をすることはなかった。驚いたことに、両者は最後まですれ違ったままそれに気づきもしなかったのだ。きっと両者はいまでも同じ映画を見に行ったと思っている。もしかしたら同じ劇場で同じ映画を見ていたのかもしれないとさえ思っているかもしれない。少なくとも、彼らの主観においてその可能性を否定することはできない。


 同じ言葉を使って、同じことについて話す。


 でも、両者が同じものを見ているなんてどうして断言できるだろう。同じ言葉、同じ名前。そんなものを共有し交換したところで、それが同じ物のことだなんてどうして保証できるだろう。


 こんなことを言うと、難しいことを考えるねと言われる。それは多くの場合、感嘆と揶揄の両方のニュアンスを含む。


 そうじゃない、とわたしは言いたい。難しいのは世界の方で、それを特に意識することなく生きられる人間は単に幸せなのだと。


 彼らが言葉を超えたところで通じ合っているのか、それとも必然的に生じる誤解に目を瞑ることでその場を取り繕っているのか、わたしには分からない。けれど、社会には人は同じ体験を共有できるという幻想がまかり通っているのは事実だ。そしてその幻想にわたしは幾度となく振り回されてきた。


 たとえば噂。


 あの子とあの子は仲が悪い。エトセトラ。友人たちはそれらの噂から慎重に


 たとえば夢。


 それはきわめてプライベートな体験だ。映画やアニメのように他人と共有することはできないし、再現することさえかなわない。


 人は目を開けたまま夢を見たりはしない。


 そのことを理解するのにどれだけ長い時間を要しただろう。わたしにとって夢は腐れ縁の友人みたいなものだった。幼い頃よくボーっとしていると言われたものだけれど、そういうときはたいてい夢を見ているのだった。目に映る人、物が二重写しになって、幽体離脱のように元の場所から乖離し、独立して動きはじめるのだ。そんな状態でふらふらしているものだから、大人たちからしてみれば危なっかしくてしょうがなかったのだろう。


 みんな夢を見ながら、どうやって現実に意識をとどめているのだろう。


 それがいつも疑問だった。直接的に訊いてみたこともあった。けれど誰一人としてわたしの言っていることを理解できなかった。きっと、自分の伝え方が悪いのだ。もしかしたら、みんなはあれを夢と言わず別の呼び方をしているのかもしれない。そう思った。そうでないことを知ったのは、小学校も中学年に入ってからのことだった。


 自分は人とは違う。


 これがたとえばスポーツや芸術の才能だったら、わたしだってきっと素直に誇っただろう。でも、起きながら夢を見るのが何の役に立つだろう。精々が話の種になるくらいだ。これはむしろ何かの病気や障害のようなものなのではないか。そう考えると、わが身が呪わしい。夢はそんなわたしの気も知らずに毎日毎日、親しげに肩をたたいてくる。わたしにはそれを振り払うこともできない。いやよいやよも好きのうちとばかりに引きずり込まれて、現実のパロディめいたシュールでグロテスクな夢の上映会に付き合わされる。客席にはわたし一人。デートの後のカップルがそうするように、誰かと感想を交換することもできない。夢に意識を浚われまいと気張るのが精々だ。


 夢のことは誰にも話さなくなった。けれど、夢のことは逐一ノートに書き溜めていた。夢の内容はもちろん、夢を見た状態、体調なども細かく記録した。これが病気だとしたら、よっぽどの奇病だろう。あまり考えたくないけれど、今後その「症状」が悪化したとき、対処できるのは自分しかいないのだ。そのためにもこの悪友のことはしっかり把握していなければならない。


 やがて法則性が見えてきた。それを人に説明するのは難しい。そもそもがきわめてプライベートな研究なのだ。自分以外の誰かに分かってもらえるとは思わないし、その必要も感じない。ノートの記述は、いつしかわたしにしか分からない記号や造語の連なりとなり、文章も極限まで省略されるようになった。それらを人に伝わる言葉として翻訳する自信はない。わたしに言えるのは、夢の内容と体調や精神状態は相関関係にあることであり、また夢には周期のようなものがあり、それによって夢の内容に影響が出てくるということだけだ。いや、この説明はたしかに正しいのだけれど、重大な誤謬を生みかねない。本当はもっと付け足したいことが山とあるのだけれど、そのためにはわたしの解説の元ノートを最初から読んでもらうしかない。歯がゆいけれど、あとは想像してもらうしかない。わたしは一生報われることのない孤独な研究者なのだ。

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