第二ボタン
「卒業おめでとう」
玄関のドアが開くなり、クラッカーの歓待を受けた。
「ハルちゃん?」
「待ってたんだよー。高校卒業のお祝いしなきゃって」ハルカは言った「あ、第二ボタンがまだ残ってる。もーらい」
ハルカがミコトのブレザーに飛びつく。
「ちょ、ハルちゃん? そういうのは普通男の子のを……っていうか、先輩が後輩の第二ボタンをむしりとるなんて聞いたことない。そもそもブレザーだし」
「だよねー。斬新だよね」
ハルカはあっという間にボタンをむしりとってしまった。
「もう、何の理由にもなってないよ」ミコトはボタンの外れた部分を見下ろし、「むかし、ハルちゃんがコートのボタンを縫い付けてくれたことがあったよね」
あのときのことを思い出す。ハルカはボタンを縫い付けるまでに、二度も針で指を刺し、縫い付けたボタンもすぐに外れてしまった。
「あはは。あのときはごめんね。ミコトはお母さんにやってもらうからいいって言ってたのに。わたし、学校で裁縫を習ったばっかりだったから、腕試ししてみたかったんだ」
ハルカが苦笑する。いつもこうだ。何かとミコトの世話を焼きたがるハルカ。世話の焼き方が不器用で、見てるこっちがはらはらさせられる。けれど、その不器用さがなんだかあったかくて、あえて身を任せたくなる。
「ミコトはお裁縫できる?」二人でリビングのソファに腰を下ろした後、ハルカは言った。「一人暮らしだとそういうのも自分でやらなきゃでしょ?」
「大丈夫だよ」
「本当? なんならわたしが教えてあげてもいいんだよ」
「大丈夫だから」
「うーん、なんだか心配になってきた。じゃあ、このボタンを縫い付けて御覧なさいな」
ハルカがミコトの第二ボタンを差し出す。
「え、それもう一度つけるの?」
「そうだよ。うってつけでしょ」
「……ボタンいらないの?」
ミコトが問うとあわてて、「いる。いるよ? だから、そうだ。つけたあとにもう一度外せばいいんだよ」
「わたし、外すとわかってるボタンを縫い付けるの?」
ロシアの刑罰にそういうのがあった気がする。
「あ、ごめん。そうだよね」
「ううん、いい。わたし、一人でやってけるってことを証明するよ」
ハルカが裁縫道具を持って来た。ミコトは残り少なくなった糸と、まち針を取り出した。糸通しが目に入ったがあえて使わない。糸に対して斜めにはさみを入れ、針に通しやすくした。右手に針、左手に糸を構え、糸を通す準備をする。
「あの……ハルちゃん?」
「何?」
「そんなにじっと見られるとやりづらい」
「あ、そっか。ごめんごめん」
ミコトは二本取りの糸を、ブレザーの裏から通した。ボタンの足をくぐらせ、二回三回と縫い留める。どうせすぐ外すとわかってるのに、手が抜けないのはハルカを安心させたいからだろう。糸がゆるまないように引き締め、最後に、裏地で玉結びを作って表に針を通す。
「痛っ」
「あ、刺しちゃった? いま救急セット持ってくる」
糸を切ってから、人差し指を確認した。指の腹に血の玉が浮かんでいる。
「はい、絆創膏」
「ありがとう」
「わたしが貼ろうか」とは言わなかったな、とミコトは思った。いつものハルカなら絶対にその一言があったはずだ。自立しようとしている自分の気持ちを尊重してくれたのかもしれない。それを寂しく思う自分はやはりまだ本当の意味では自立できていないのだろう。
「はい、ハルちゃん」
ボタンを縫い付けたブレザーとはさみを手渡すと、ハルカは少し困ったような顔をした。
「どうしたの」
「うーん、ミコトが一生懸命縫いつけるのを間近で見ちゃったせいかな。外しづらくなっちゃった」
「いいよ。どうせもう着ないんだから」
「でも……むむむ」
ハルカは言うと、何を思ったのか自分のカーディガンのボタンをむしりとった。
「ハルちゃん?」
ハルカはミコトの手にボタンを握らせた後、ミコトのブレザーからもボタンを切り離した。
「これでおあいこだね」
「もう着ないからいいって言ったのに……」
「じゃあ、わたしももう着ない。ボタンが外れたまま記念に取っておく」
にっこりとほほ笑むハルカ。いつもそうだった。ミコトは思い出す。ハルカが取り繕うとして、かえってめちゃくちゃにしてしまった物事の数々。見え透いた嘘とその裏に隠れた気遣い。その度に見せる笑顔。わたしが故郷に置いていくもの。
「どうしたの」
ハルカが不安げに問いかける。
「なんでもない」ミコトは目元を拭いながら繰り返した。「なんでもない」
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