新しい生活 -1-


 おっちゃんは、ビビッて固まる俺を見て。ニッ、と笑った。


「おはようさん!仕事だ!」

「え?」

「さあ乗った乗った!」


 ぐいと引っ張られ、家に鍵もかけずに車に乗せられてしまう。ばたん、と閉まってしまったドアを見る。ぐるぐるとこの間も思考は回って、まとまっていないのだ。

 おっちゃんは楽しそうに、ブレーキを踏んでエンジンをかけた。こちらとそう変わらない仕組みで車は動き、アクセルペダルに足をかければ発進する―――。

 そして、俺の体は急発進に耐えられず、慣性の法則に従って、前のシートにぶつかった。大した衝撃はないけれど、痛い。後部座席でもちゃんとシートベルトはしてないとこういうことになるのだ。そもそもシートベルトをつける前に急発進したのは、運転席に座って豪快に笑うおっちゃんなのだけれど。


 シートベルトをちゃんとして、横を見た。昨日見たのと変わりない田園風景だ。俺の住んでいるところは、どこまで行ってもビルで埋め尽くされていたから。やっぱり違うところまで来てしまったのだと思う。未だ実感がわかず、夢見心地なのはこの空気のせいと、連日の疲れによるもの。そう考えて、目を瞑った。



 ◇◇◇



 ぴぴぴぴぴぴ!

 けたましい音で目が覚めた。携帯の着信音である。


「はい、」


 名乗る前に怒号が響いた。思わず耳から離して、表示を確認する。朝一から電話ラブコールをかけてきたあの上司であった。

 うげえ、と思うと同時に車内であることを思い出し、おっちゃんを見る。走行中のためかこちらに顔は向けていない、が、バックミラー越しに視線を投げかけているのがわかった。早めになんとかした方がいいのだろう。せめてこのバカみたいにうるさい声量をどうにかしてもらわないと。


「それ貸せ」

「えっ」

「椿、携帯受け取れ」

「それ貸してね」

「ええ?」


 先程よりもだいぶ低い声でおっちゃんが携帯を貸せと言ってきた。よくわからんうちに、携帯は、いつの間にか助手席に座ってた椿さん?に奪われて、「××××だから、××××××」とよく聞き取れない言葉で、電話の向こうの上司に話しかけている。だんだんと上司の声は小さくなり、ここからでは全く聞こえない。

 更に声を低くして、おっちゃんが「××××××」と言った。音量的には問題ないはずだけど、やっぱり言葉を理解することができない。俺には、おっちゃんが何を言っているのかニュアンスでしかとれないんだけど、それでも何を言ったのかはわからないままだ。

 ツーツー、と通話を終了した携帯がぽいと後ろへと放られる。地面にキスする前に、キャッチ!

 危なかった、壊れたら―――。


「これで大丈夫だから安心しな」

「はあ」


 そんなことを言って、またかかってくるのではないかと思って、携帯を見る。気持ち悪い数の着信が気になってしまった。即座に履歴を消去する。

 画面には、電波が三本立っていた。これのおかげで、上司から熱い電話ラブコールを受け取ることができたらしい―――って。電波?


「おっちゃん!電波があるんだけど!?」

「は?………昨日それは話したぞー。こっちでも電波は使える、だけど異界から来てすぐは電波が障害起こすって。しばらくすりゃあ使えるって言ったろー」


 どうやら俺の頭は起きてるようで起きていなかったらしい。疲れ切っている。そりゃあもう深刻なレベルで。

 電波が使えるってネット使い放題じゃん………。

 電波の問題は解決された。次は。

 助手席にちょこんと座る彼女、椿さんの件だ。気付いたら乗っていた、と思う。いや。俺は一回寝て起きるまで、前を向いていなかったから、もしかして最初から乗ってた?

 恐る恐る切り出してみる。


「で、おっちゃん。助手席に座ってらっしゃる方は……」


 ちょっと最後は声が震えた。色んな感情が入り混じっているのだ、仕方ない。

 おっちゃんは、少し黙って、うちの従業員だとだけ答えてくれた。


「あのっ、俺、七瀬司っていいます。よろしくどうぞ……」

「えっと、わたしは椿といいます。気軽に椿と呼んでくださいな」

「はい……」

「なんだー?もう椿に惚れたか?」


 おっちゃんがバックミラー越しににやにやとした視線を送ってくる。

 椿さんは、さっきまでこっちを向いてくれていたのに、その発言でさっと前を向いてしまった。ジッとおっちゃんを見ると、頭をかいて一言。


「悪い、悪い。………さ、ついたぞ」


 俺は、初めておっちゃんと出会った案内所に着いたのだった。



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